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第10話 虫がつくほどおいしいりんご
「お前の相手エグくね?」
起きたらすでに太陽は上りつめていた。洗面所で洗った顔をタオルで拭いていると、同じく起きたばかりの様子の南斗と鉢合わせ、先ほど南斗が放った言葉の意味を考えてしばし止まる。
「透、鏡見てみろよ」
「あ」
全然気づかなかった。
最中は、それどころじゃなかった。雨宮は確かに身体に傷をつけたいと言っていたが、こんな形でつけられるとは思ってもいなかった。慎ましくて何かに執着するような人には見えない雨宮の、激情とも呼べるような熱量を思い出す。知らない間に顔が緩んでいたらしく、「んだよ朝っぱらから浮かれやがって」と南斗が吐き捨てる。
「朝じゃない。もう昼過ぎてるし」
「寝起きのくせにお前が言うなし」
首すじのうっすらとした鬱血痕 を指でなぞり、「蚊かなあ」と掻いてみたが、南斗は「今何月だと思ってんだ、ごまかし下手くそすぎて死ね」と洗面台の前に割り込んできて、歯ブラシに歯磨き粉をつけた。
「ほんははふ」
口いっぱいに泡を含みながら鏡越しに南斗が言う。何言ってるか分かんない、と流したところでこいつは諦めないだろう。それに「どんな奴」と聞かれたのだということぐらいは分かってしまった。伊達に長く一緒に住んでいない。誰、と直接的な質問をしてこないところも好感が持てる。だからと言って、雨宮とのことを早速南斗に報告する必要はない。自分の気持ちだってまだ整理できていないのに。
「つかみどころがない人」
「へえ」
にやにやしながら南斗が泡を吐き出す。それを無視してキャビネットからカラコンの箱をつかみ、少し考えてから戻す。今日は裸眼でいこうかな。俺も歯磨きしようっと。そういえば歯磨き粉が減ってきて、絞り出すのも大変なのだ。しれっと南斗の歯磨き粉に手を伸ばしたが、黙ってひったくられたので、仕方なく自分のを使う。
「付き合ってんの?」
「……分かんない」
そう答えると、急に不安になってくる。雨宮がどういうつもりなのか、決定的な言葉を聞いていない。盛り上がっているのは自分だけかもしれなくて、あれが彼にとっては同性同士のちょっと行きすぎたじゃれ合いみたいなものだとしたら。
「ひはほ は?」
話題を変えた。泡をこぼさないように上を向いて言ったが、南斗にもちゃんと伝わったみたいだ。大きなクリップで前髪を止めながら、南斗はあっさり「いるよ」と答えた。
いるのか。付き合ってる人。
彼女どんな子? と口をもごもごさせながら聞くと、驚きの答えが返ってくる。
「今度は女じゃねえよ」
「えっ」
「性別で言ったら男。てか、そんなんどっちでもいいだろ。お前はちんこがついてるかどうかいちいち確認してから人を好きになんのか」
ジャーと排水溝へ落ちる水は、南斗が栓をした途端に音色を変える。
相手の性別とか、国籍とか、家族構成とか。人と知り合う過程で確認事項があるのは大人だけだ。子どもの頃は、名前さえ知らなくても友達になれた。大人になればなるほど、不必要な情報にとらわれて相手の本質が見えなくなっていく。いや、見なくなっていくのだろう。南斗をときどきうらやましいと思うのは、いつでも瞳が澄んでいるからだ。
南斗がばしゃばしゃと顔を洗い始めた。俺、どこで口ゆすげばいいんだろう。仕方がないので、口を閉じたままキッチンへと向かう。
「おはようございます」
台所で歯磨きを終えると、あとから入ってきたジェイクは寝起きの俺に合わせて朝の挨拶をしてくれた。今日は「デュフフw」と書かれた白いTシャツを着ている。そういえば、ジェイクは冬でも半袖Tシャツを着ている。その熱量がきっと、日曜日にもかかわらず彼が朝から起きている理由だ。今日も午前中のアニメをリアタイで楽しんだに違いない。
「雨宮さんにめがねを貸したんですね。とても似合っていましたよ」
「え」
今日は頭が回らない。さっきからえ、とかあ、とかばかり言っている気がする。
「今朝出勤前の雨宮さんに会いました。黒い縁のめがねをかけていたので、透みたいですね、と言ったら、透のだよ、と言っていました」
「へえ」
見たかったな。雨宮さんのめがね。ああ、そういえば昨日あんなことの最中に取られて、そのまま部屋に置きっぱなしだった。
雨宮がうちにいない。土日が彼の出勤日だということはずっと前から知っている。なのにこの寂しさと不安と焦燥は、どういうことだろう。
やっぱり今夜彼が帰ってきたら、話をしよう。
「透、首にけがをしましたか?」
はっとして手で首を覆った。覆ったからって消えるものでもないけど。ジェイクの表情が、ぱっと明るくなった。
「おめでとうございます。虫がつくほどおいしいりんごなんですよ」
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