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第11話 連絡先すら知らない
その夜は長かった。
八時には風呂を済ませ、夕食も終え、隣の部屋から音が聞こえてこないかと耳をそばだてながら自室でパソコンに向かっていたのに、十時を過ぎても家は静まりかえっていた。ジェイクが帰ってきて、南斗が帰ってきて、玄関の扉が開くたびに小さながっかりを繰り返す。
「おい透」
ノックと同時に南斗の声が聞こえ、扉を開けた。
「外に車止まってんだけど」
台所の小窓からのぞくと、確かに軽自動車の影が見える。コンパクトで直線的な四角い車体。ジムニーだろうか。エンジンを切っているのでそこに車が停まっていることにも気づかなかった。そこへ、黒く背の高い人影が現れる。雨宮さんだ。瞬きも忘れてその影に集中する。彼は運転席の窓ガラスに向かって背をかがめた。
「雨宮さんの元カノだったりして」
たった今自分が思っていたこととほとんど同じ言葉が隣から聞こえた。違いと言えば、元カノではなく元カレかもしれない、ということぐらい。
胃がずしりと、鉛のように重くなった気がした。
「俺ちょっと出てくるわ」
南斗は腰にしばっていた上着をほどき、手を通した。もし浮気女にしつこくされてんならかわいそうだし、と玄関へ向かう。
「待ってよ南斗。他人が入ったら、よけいこじれるかもしれないじゃん」
「家の前で待ち伏せなんてもう十分こじれてんよ」
多分いま、南斗なんかより俺の方が何倍も外の状況が気になっている。けど、それを問いただす資格も度胸もない。
少し迷ってから、結局靴を履き、南斗のあけた玄関扉にもたれかかって様子を見る。
「うぃっす。あのー雨宮さん、上がってもらえば?」
南斗が声をかけた。もし上杉に女の子を家にあげたことが知れたら、雨宮は退去だ。ということは車の主は男か……と思っていると、運転席から「すみません、おかまいなく」と聞こえた。
男だった。高い声だが、女の子ではない。
「いいんだ南斗。もう帰ってもらうから」
雨宮の声がとげとげしい。俺がそう言われたわけじゃないのに、ちくりと心が痛む。それに気づいたのかどうかはわからないが、南斗が急にトーンを変えた。
「え待って、そのニットシャツまだ発売してなくね?」
「よく知ってますね」
車中の人が答えた。
「だって俺予約したもん」
「えーっ、あれ、僕がデザインしたんですよ。ありがとうございます」
「おいおい、よく見たらユキじゃね? デザイナーの。すげーっ、まじか。いつもSNS見てるって。こないだの表参道のポップアップ俺行ったし、買ったし」
「南斗、声でかいよ」
雨宮の声は南斗には届いていないようだ。俺は南斗の一貫したタメ口に正直ちょっと感動していた。この中では間違いなく南斗が一番年下で、一番地位も金もない。そういえばこいつは上杉さんにもタメ口だ。何というか、ここまで徹底していると生意気という言葉だけでは表せない南斗の美学すら感じる。そんなものないんだろうけど。
「うわあ嬉しい、ありがとうございますっ」
「おう」
これ以上ないくらいに不機嫌な顔の雨宮をよそに、二人は窓越しに握手なんか始めている。
「てかまじで中入れば? 茶ぐれえ出すよ、透が」
「え、俺っ?」
玄関口に潜んでいる俺に、急に視線が集まる。覗き見がバレたような気まずさに、南斗を恨んでももう遅い。
「いやいい。ごめん騒いで。夜も遅いし、ほんとにもう帰ってもらうから」
一番静かだった雨宮が、助手席に回って乗り込んだ。一瞬、玄関灯に照らされた彼の表情。深い影の刻まれた目元がより鋭く細められていて、声なんかかけられなかった。誰にも話しかけられたくないという、殺気にも似た凍てつく空気に満ちていた。
「じゃあまた」
運転席のサイドウィンドウが閉まると、南斗が一歩引き、車が発進する。排気ガスの残り香すらまだ冷気を帯びているように感じられるのに、南斗はへらへら手をふってなかなか家の中へ入らなかった。
「ユキが雨宮さんの知り合いだったとか、今年一番の衝撃だわ。お前知ってる? ユキ」
「知らない」
「ネットで有名なアパレルブランドのデザイナーだよ。中国とか韓国にも進出してるし、セレクトショップにも卸してる。俺SNSフォローしてんだけど、マスクしたユキがコーデの紹介とかやってるよ」
「へえ」
知りたくなかった。
声だって聞きたくなかった。
あんな風に雨宮さんの感情を揺さぶる人がこの世にいるなんて、知りたくなかった。
「つーか俺丸め込まれた気ぃすんだけど。雨宮さん、ユキのことちょっとうざがってなかった?」
「うん。南斗が勝手にユキって人に好印象持っただけ。まじで俺たちただの野次馬だった」
「はめられたー」
ユキがただの友達だとは、俺には思えなかった。
ひんやりしたベッドにもぐり込み、耳をそばだてる。雨宮が玄関を開ける音。雨宮の歩幅の大きな足音。雨宮の生活音。そのどれも、薄い壁の向こうから聞こえてはこない。
ぱらぱら、と軒先で音がする。不規則な音は次第に増え、重なり、溶け合って、さあさあと流れるようなホワイトノイズに変わった。
この雨の中、雨宮さんはあの人とどこへ行ったのだろう。
ここにきて、彼の連絡先すら知らないことに気づく。同じ場所に住んでいるのだから、そもそも連絡する必要が今までなかった。というのは言い訳か。
もともと、それくらいのつながりしかなかったってことか。
ハウスメイト。
今のところ、彼との関係を表す言葉はそれしかない。
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