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第13話 「雨宮は最低な人間です」

とりあえず飲み物を注文する。俺はビールで、結稀は甘そうな酎ハイ。イメージどおりの注文だ。 「今日はいきなり呼び出したのに来てくれて、ありがとうございました」 「いえいえ」  ごくごくと水のように豪快に酒を飲む結稀は、あきらかに緊張している。 「あの、橋本さん」 「結稀(ゆき)でいいです」  下を向いたまま言った彼は、同い年くらいに見える。ここは俺も、南斗を見習ってタメ口でいこう。こんなに堅苦しくされては話が進まない。 「結稀、くんは、何で俺を呼び出したの?」  さっきから全く視線が合わない。メニューを掴んだり、注文用タブレットをのぞいたり、とにかくせわしない。再びジョッキに口をつけた彼に、俺は続けた。 「雨宮さんと何か関係があるんだよね?」  ごほ、と結稀がむせ、取り皿に液体が飛び散る。慌ててジョッキを置き、涙目で咳き込む結稀におしぼりを差し出しながら、大丈夫? と声をかける。すみません、と丸まった背中は小さい。  拍子抜けだ。もしこの人が雨宮さんの元カレで、雨宮さんにつきまとっているのだったらどうやって説得しようか、なんて考えていたが、とてもそんな大胆な事ができるとは思えない。 「昨日雨宮さんが……、けほっ」  鼻の頭を赤くした結稀が、濡れたテーブルを拭きながら話し始める。 「透くんの話をしてたんです。だからどんな人か知りたくて」 「話ってどんな?」 「すごく優しいって」  優しい。親切。そういう言葉は、自分の性質と乖離していて素直に受け取れない。だって俺の親切行動の動機はいつも、消極的だから。今手を貸さなければあとで後悔するとか、断ると失礼になってしまうとか、やってあげないと俺の信用がなくなる、とか。結局社会に見捨てられるのが怖くて、思うように動けないだけだ。それを親切と呼ぶのは、真に心が優しい人に悪い。それに、今目の前にいる結稀のことを、会う前から嫌いだと思えるくらいには意地も悪い。 「別に誰にでも優しいわけじゃないよ」 「でも、他人からの一方的な頼みにも、こうして時間を割いてくれたじゃないですか。僕は昨日透くんの顔、見えましたけど、透くんは僕の顔も知らなかったんですよね? どうぞ」  取り分けてくれたチョレギサラダを「ありがとう」と受け取る。やっぱり居酒屋のドレッシングは味が濃い。 「付き合ってたんです、雨宮と」  来たか、と思った。知りたかったことなのに、つい腕組みなんかしてしまい、慌ててほどいた。いきなり雨宮から雨宮に変わったことも気に食わない。彼らのプライベートな部分のかけらが、何の準備もない心に入り込んできた。 「同棲してたんですけどね、帰ってこない日が続いて、結局別れました。このサラダ、しょっぱいですね」 「うん、ちょっとね」 「次回は僕の好きな店、予約しておきます」  さらりと次回の予約を決められたが、そこは無視して聞いた。 「結稀くんは昨日、何で待ち伏せしてたの?」 「実はまだ雨宮が合鍵を返してくれてなくて」 「返してもらったの?」 「それが、まだ……」  下を向く結稀に、いらついた。でもその苛立ちが、八つ当たりだということは、自分でも分かっていた。 「じゃあ昨日は話し合いがうまくいかなかったってこと?」 「話し合いなんてうまくいったことはないんです。もう、とっくに終わった関係ですから。今日呼び出したのは、他でもない雨宮のことで、透くんに忠告しておきたかったからです」  急に結稀が大人に見えてくる。というか、この人は実際大人だ。名刺という、社会的身分を証明する紙切れを持っている。それだけで俺の目にはまぶしすぎる。 「何?」  結稀が箸を置く。その丁寧な所作は川の流れみたいに自然だった。指の先の爪は丸く整えられ、やすりをかけたように光沢のある薄いピンク色だ。 「雨宮からは、距離を置いた方がいい。シェアハウスも出来れば出た方がいい」  まっすぐな瞳が、こちらを見ていた。俺は手に持っていたジョッキを置く。 「僕と付き合っていたのは三年くらいだったんですけど……」  そこで結稀くんは一旦止まる。俺の息も止まりそうだ。  三年。  三年も付き合っていたのか。  その長さが途方もなく感じられ、過去という変えられない絶対性におののく。時間の長さは付き合いの深さに関係ないというのは綺麗事だ。時間ほど有限で普遍的なものはないのだから。  結稀の薄い唇が少し開き、小さく息を吸う。言葉を選ぶような間を置いてから、ふっと息を吐き出し、続けた。 「雨宮は最低な人間です。時間にも金にもルーズで、特に男にだらしないのが僕は許せなかった」 「浮気って、結稀くんがしたんじゃないの?」  大きな瞳を開いて、心外です、という顔をした結稀が続ける。 「雨宮に何を吹きこまれたのか知りませんが、彼の言葉を信用するべきじゃないです。だいたい、おかしいと思ったんですよ。一人の時間を大切にする雨宮が、どうしてシェアハウスなんかに住んでいるのかって。それで、昨日行ってみて納得したんです。きみがいた」  結稀はジョッキをとり、あっという間に空にした。いい飲みっぷりだ。どん、とテーブルに戻したあと、再び真正面から俺を見る。眠そうな目だと思っていたが、今は眼光の強さにひるんでしまう。 「透くんがいい人だということが今日よく分かりました。だから騙されないでほしい。雨宮は透くんに気があるみたいだけど、どんなに甘い言葉を囁かれても冷たくあしらってください。雨宮はノンケも食い散らかします」  食い散らかすなんてがさつな言葉がこの上品な人から出てきて驚いた。でもそれ以上に、雨宮がだらしないと聞いて、驚いている。そんな事は絶対ないと言えない自分がいる。だって、俺は雨宮さんの事をなにも知らない。彼の描く絵や身体の詳細は目をつぶってもはっきり思い浮かべられるのに、そんなのは今この不安を打開するのに何の役にも立たない。  誰が嘘をついているのか。  一体、何のために。  大きなため息が出た。  二人の間に入るつもりはなかったのに。けれど二人の時間がすっかり過去になっているのなら、俺はそもそも呼び出しなんて喰らっていない。結稀と連絡をとってしまった時点で、自分から巻き込まれに行ったようなものだ。 「ねえ、透くん、その手首は」 「え? ああ、これ」  数日前に雨宮が左手首に描いてくれたコンパス。シンプルなデザインで、華奢で鋭い針はまっすぐ北を指している。どうして北なのかという問いに対して、彼は少し斜め下を向いて考えたあと、きみの部屋から見て俺の部屋は北側だから、と後付けみたいな理由をくれた。これが本物だったらきっと、今どこに雨宮さんがいるのかはっきりと分かるのに。 「雨宮のタトゥーですね」  確認みたいに結稀がつぶやいた。袖口に隠れていたのに見つけ出すなんて、意外と目ざとい。 「ただの落書きなんで」  袖をめくってぼやけ始めたコンパスを見せたが、そういう問題じゃないんです、と反論される。 「雨宮との接触は控えた方がいい。そのうち服を脱がされて身体中に描かれますよ」  もう遅い、とは言えない。  代わりにジョッキをつかみ、ぬるくなったビールを一気に流し込む。ビールはどこで飲んでも同じだと思っていたが、味が薄いような。 「結稀くんは雨宮さんが嫌いだから、今日俺を呼び出したってことでいいのかな?」 「そうです」  結稀は箸を持つと、唐揚げを自分の取り皿に置いた。俺の方にも二つ。 「雨宮が僕より幸せになるなんて許せない。それに……」  結稀が目を伏せた。今日初めて見せる、彼の戸惑いだった。 「誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。僕、あんまり友達いなくて、雨宮のこととか愚痴ったことなかったから」  とても嘘をついているとは思えないような顔だった。俺なんかを捕まえて話さなければいけないほど、追い詰められていたのだろうか。  だとしたらこの出会いは俺にとって、悲劇でしかない。 「やっぱり空気悪くなっちゃいますよね。この話はもう終わりにしましょう」  さあどんどん食べよう、と結稀は食べ始める。  大学院生であることや、バイトのこと、シェアハウスのことなどを話した。結稀も自分の仕事については饒舌だった。その中で分かったのは、彼が三十代であること(失敗した。今からでも敬語にすべきか?)、そしてファッションに並々ならぬ情熱を注いでいること。ラフなニットにカーゴパンツというよくある学生コーデなのにダサくないのは、ポケットの位置だとかサイズ感だとかシルエットにこだわっているからだ、というのが説明されて初めて理解できた。ような気がする。きっと今日の服装は、初めて会う、さえない学生の俺に合わせてくれたのだ。  彼にとっての洋服は、雨宮にとってのタトゥーに近い。なりたい自分になるために必要なアイテムが洋服なのだろう。自分を主張するため、自分を納得させるため。追究した結果が服を作るという形になったのだ。  ちょっとうらやましい。  もうすでに自分の理想像がある人は、それになるために努力を惜しまない。でも俺は、自分が何者かすらも分からない。ありのままの自分に納得できなくて、周りの期待に自分を押し込めてみたり、期待されないように逃げてみたりしてきたけれど、自分という人間と向き合ったとき、この目には何も映らない。 「透くん、雨宮に僕と会ったってこと、言うつもりですか?」  会計のあとに聞かれた。責めるふうでもなければ、頼むふうでもない彼の言葉に、俺は立ち止まった。 「言わない方がいい?」  誰かを利用しようと思ったのは、初めてだった。今確かに、俺はこの人に貸しをつくろうとしている。 「言えばもう、僕は透くんと二度と会えない。でも僕はまた会いたいな」  微笑を浮かべられて、心に小さな棘が刺さる。俺はただ、この人から雨宮さんの真実を引き出そうとしているだけなのに。この人を雨宮さんから遠ざけようとしているだけなのに。 「じゃあ言わないよ」  そう返した俺が、うまく笑えていたかは分からない。

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