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第4話 俺を止めてみろ

最終日の体育館は、朝から空気が違っていた。 赤と青の選手が、それぞれのコートで身体を温めている。 シューズが床を擦る音。 ボールを打つ乾いた音。 短い掛け声。 迅は赤チームの列に並びながら、ネットの向こうを見た。 律が青い練習着でトスを上げている。 指先を離れたボールが、青のエースの打点へ届く。 踏み切り。 スパイク。 床へ突き刺さったボールを見て、律が一度頷いた。 昨日までなら、その動きから目を離せなかった。 今日も離せない。 けれど胸に浮かぶものが、好きなのか、競技者として惹かれているだけなのか、まだ分からなかった。 律がこちらを向いた。 目が合う。 迅は笑おうとした。 律の目がわずかに逸れた。 迅の口元も動かなかった。 「霧島」 赤のセッターがボールを渡してくる。 「硬いぞ」 「平気です」 「そういう返事するときは大体平気じゃない」 「一本打てば戻ります」 「なら決めてくれ」 セッターがネット際へ走る。 迅も助走の位置へ下がった。 トスが上がる。 跳び、腕を振り抜く。 ボールは鋭く落ちた。 身体は動く。 赤のセッターとも呼吸は合っている。 それでも着地した瞬間、迅はまたネットの向こうを探した。 律は見ていた。 一瞬だけ目を細め、すぐ青チームへ戻る。 格好よかった。 その反応だけで、そう言われた気がした。 胸が熱くなる。 同時に怖くなる。 それを恋だと思っていいのか、まだ分からない。 **** 試合開始の笛が鳴った。 赤のサーブから始まる。 青が安定したレシーブを返す。 ボールは律の頭上へ入った。 迅は前衛で構え、律の肩を見る。 左へ上げる。 そう読んだ。 律の指がボールへ触れる。 迅は青のエースの前へ踏み込んだ。 しかしトスは右へ流れた。 逆サイドから打ち込まれる。 赤のブロックが遅れ、青の先取点になった。 歓声が上がる。 律がネット越しに迅を見る。 表情は硬い。 それでも目の奥に、ほんの少しだけ挑む光があった。 昨日と同じ手を使うと思ったか。 迅は唇の端を上げた。 律はすぐ青の選手たちへ向き直った。 次のラリー。 赤がレシーブを上げる。 セッターがネットへ入る。 迅は助走へ出た。 律のいる位置から、自分の動きはすべて見えている。 クロスを狙えば、青の守備が待っている。 迅は空中で腕の振りを変え、ブロックの外側へ当てた。 ボールがコート外へ飛ぶ。 赤の得点。 着地した迅は律を見る。 律は悔しそうに眉を寄せていた。 読んでいた。 読んだうえで、迅がその指先を使ったと気づいている。 迅は今度こそ笑った。 律は笑わなかった。 けれど、その目はもう逸れなかった。 **** 序盤は互いに硬かった。 迅は律の守備を意識しすぎて、一本をネットへ掛けた。 律も迅のブロックを避けようとして、トスをアンテナへ近づけすぎた。 赤と青が点を取り合う。 他の選手たちは、それぞれの役割を果たしている。 レシーブが上がらなければ、律もトスを選べない。 ブロックでコースを絞らなければ、迅も守備の穴へ打てない。 二人だけで試合をしているわけではない。 それでも迅には、律の一つ一つの判断がやけに鮮明に見えた。 律が前衛の動きを確認する。 青のエースが助走へ入る。 赤のブロックがそちらへ寄る。 律はトスを上げなかった。 二段目で押し込む。 意表を突かれたボールが、赤のコート前方へ落ちた。 「っしゃ!」 律が拳を握る。 迅は舌打ちした。 セッター本人の攻撃。 前から得意だった。 迅が同じチームにいるときも、律は相手の意識が迅へ集中した瞬間を狙っていた。 今日は迅自身が、その囮に使われた。 腹が立つ。 なのに笑いそうになる。 次のラリーで、迅は助走を大きく取った。 赤のセッターが迅を見る。 青のブロックも、迅へ寄る。 律も守備の位置を一歩ずらした。 迅へ上がる。 全員がそう思った。 赤のセッターは、中央へ低いトスを送った。 ミドルが誰もいない場所へ叩き込む。 迅は打たずに着地した。 赤チームが沸く。 律が迅を睨んでいた。 お前まで囮になるのか。 迅は肩を竦めた。 お前だけにやらせるか。 律の口元が、とうとう緩んだ。 ほんの一瞬だった。 それでも迅は見逃さなかった。 次の得点でも、その次でも、二人は互いを探した。 律が速い攻撃を組み立てれば、迅は悔しそうに笑った。 迅がブロックの上から打ち切れば、律は舌打ちしながら目を輝かせた。 **** 最初のセットは青が取った。 最後は律が赤のブロックを散らし、青のエースへ高いトスを集めた。 エースは期待へ応え、ブロックアウトを決めた。 青の選手たちが集まり、ハイタッチを交わす。 迅はネットの前に立ったまま、律を見た。 律も仲間の輪から迅を見る。 勝った。 そう言うように顎を上げる。 迅は笑った。 「次は取る」 声は届かない。 それでも律には分かったらしい。 「やってみろ」 唇がそう動いた。 第二セット。 迅は一本目から強く打った。 赤のセッターのトスは、律の球とは違う。 高く、迅の判断を待ってくれる。 迅はその長所を使い、空中で相手コートを見た。 青のブロックが二枚。 律は後衛中央にいる。 強打のコースを塞いでいる。 迅は指先だけで力を抜いた。 フェイントがブロックの背後へ落ちる。 律が飛び込む。 床すれすれで片腕を差し入れ、ボールを上げた。 青の選手が繋ぐ。 律はすぐ立ち上がり、三本目の位置へ走った。 乱れたボールへ潜り込む。 背中側へトスを飛ばす。 青のエースが打ち切る。 赤のレシーバーが拾う。 ラリーが続く。 迅はもう一度助走へ入った。 セッターが上げる。 律はさっきと同じ位置で待っている。 今度は拾われない。 迅は全力でストレートへ叩き込んだ。 律が反応する。 腕を伸ばす。 ボールはその横を抜け、床へ落ちた。 赤の得点。 迅は着地し、律を見た。 律は床へ片膝をついたまま、迅を見上げている。 悔しそうだった。 それ以上に、楽しそうだった。 迅の心臓が強く鳴った。 もっと来い。 次は拾ってみろ。 律が立ち上がる。 ユニフォームの膝を払い、笑った。 次は読んでやる。 言葉はない。 それでも、はっきり分かった。 胸の中にあった怖さが、少しずつ薄れていく。 迅は次の一本が待ちきれなかった。 律が何をしてくるか知りたい。 自分の打球をどう止めるか見たい。 その上を行きたい。 律にも、もっとすごいものを見せてほしかった。 第二セットの中盤。 青のレシーブが乱れた。 ボールがネットから大きく離れる。 律は走り込み、片手で追いついた。 普通なら高く返す場面だった。 律は身体を捻り、片手で速い球を左へ送った。 青のエースが遅れながら跳ぶ。 完全な体勢ではない。 それでもトスの勢いを使い、赤のブロックの脇へ打った。 決まる。 律は大きく息を吐いた。 迅は呆気に取られた。 あの体勢から、あそこへ上げる。 迅と組んでいるときにも、滅多に見せない球だった。 「何だよ、それ」 思わず声が出た。 律がネット越しに迅を見る。 驚いたか。 そう言いたげに笑う。 迅の身体が熱くなった。 腹立つくらい格好いい。 自分以外のエースへ上げたことなど、一瞬どうでもよくなった。 律があのトスを選んだ。 打ち手がそれへ応えた。 そのプレイ自体に夢中になった。 迅は手を叩いた。 一度だけ。 律のための拍手だった。 律の目が丸くなる。 すぐに照れたように眉を寄せ、赤チームのコートへ背を向けた。 耳が赤い。 迅は笑った。 好きかどうかを考える余裕が、なくなっていた。 律がすごい。 もっと見たい。 自分も負けたくない。 それだけで十分だった。 赤がセットポイントを迎える。 迅は前衛。 律もネット際にいる。 赤のレシーブがセッターへ返る。 迅は助走へ入った。 律はブロックへ寄る。 迅の癖を知っている。 大事な一本では、逃げずに一番強く打つ。 律はそう読んでいる。 赤のセッターが迅へ上げた。 ブロックが二枚揃う。 律はその後ろで、クロスへ入った。 迅は空中で律を見た。 目が合う。 律が笑っている。 打ってこい。 拾ってやる。 迅も笑った。 なら、拾え。 腕を振り抜く。 ボールはブロックの間を抜け、律の正面へ飛んだ。 律が腰を落とす。 両腕へ当てる。 ボールは高く上がったが、後方へ流れた。 青の選手が追う。 あと一歩届かない。 ボールが床へ落ちる。 赤が第二セットを取った。 歓声が上がる。 迅は拳を握り、声を上げた。 律はしばらく床を見ていた。 やがて顔を上げる。 本気で悔しそうだった。 迅と目が合う。 律は唇を動かした。 次は落とさない。 迅は親指で自分の胸を指した。 何本でも打ってやる。 **** 最終セット。 どちらの選手も息が上がっていた。 汗が顎から落ちる。 シューズ音が速くなる。 点差は開かない。 赤が一点取れば、青が追いつく。 青が前へ出れば、赤が奪い返す。 迅だけでなく、赤のミドルも決めた。 律だけでなく、青のレシーバーも難しい球を拾った。 互いのチームが、その場でできる最高のプレイを続けている。 その中心で、迅と律は何度もぶつかった。 律が迅のブロックを利用して得点する。 迅が律の守備位置を読んでコースを変える。 迅が強打すると見せてフェイントを落とす。 律は二度目には前へ入り、それを拾う。 律が青のエースへ連続で上げる。 三本目、迅は同じ攻撃を読んでブロックへ跳ぶ。 律はその背後へツーアタックを落とす。 「性格悪ぃ!」 迅が叫ぶ。 ネットの向こうで、律が声を立てて笑った。 「お前が単純なんだよ!」 久しぶりに直接交わした言葉だった。 胸が弾む。 次のラリーで迅がブロックの上から決める。 着地して叫ぶ。 「その程度で止められると思うな!」 律がボールを拾いながら言い返す。 「次は床に落とす!」 周囲の選手が笑った。 「敵同士なのに、あいつら今日が一番楽しそうだな」 誰かの声が聞こえた。 迅は否定しなかった。 実際、楽しくて仕方なかった。 律も笑っている。 昨日まで、別の選手と組んで活躍する律が怖かった。 自分が必要ない証拠に見えた。 今は違う。 律は迅がいなくても、最高のセッターだった。 状況を読み、打ち手の力を引き出し、試合を動かしている。 こんなに強い男が、自分を好きだと言った。 迅の腕の中で、もっと欲しいと言った。 その事実が、胸の奥で光っていた。 迅も律がいなくても打てる。 誰のトスでも、自分の力で得点できる。 それでも律は、迅を格好いいと言った。 好きだと言った。 自分一人でも強く立てることが、律を失う理由にはならない。 むしろ、律にもう一度見せたかった。 自分がどれほど高く跳べるか。 どれほど強く打てるか。 律が惚れた男は、この程度では終わらない。 点数は最後まで並んだ。 赤がマッチポイントを取る。 あと一点。 青がタイムアウトを求めた。 迅はベンチへ戻り、タオルで汗を拭いた。 息が荒い。 脚も重い。 それでも笑いが止まらなかった。 赤のセッターが迅の隣へ来る。 「最後、どうする」 「俺にください」 「青は分かってるぞ」 「知ってます」 律は迅へ上がると読む。 青のブロックも、守備も、迅を止めるために組まれる。 「読まれた上で決めます」 セッターが笑った。 「任せた」 向こうのベンチでは、律が仲間へ指示を出している。 迅の助走。 打点。 得意なコース。 全部知っている男が、迅を止めるために守備を作る。 ぞくぞくした。 タイムアウトが終わる。 選手がコートへ戻る。 迅はネットの前に立った。 律も向こう側へ入る。 目が合う。 もう逸らさない。 律の目は、試合前とは違っていた。 不安は消えている。 迅を止めることだけを考えている。 迅も同じだった。 この男の読みを超える。 それだけに夢中だった。 赤のサーブ。 青がレシーブを上げる。 律がトスを選ぶ。 中央のミドルへ速い球。 赤のブロックが追いつく。 ワンタッチを取る。 ボールが赤コートへ返る。 レシーバーが上げた。 セッターがネットへ走る。 迅は助走の位置へ下がる。 青のブロックが迅を見ている。 律も後衛へ下がりながら、守備を動かした。 クロスを深く守る。 ストレートにはブロックを寄せる。 フェイントへも一人前へ出す。 迅が普段選ぶコースを、すべて塞ごうとしている。 トスが上がった。 高い。 赤のセッターが、この合宿で迅へ合わせてきた最高の球だった。 迅は床を蹴った。 助走の勢いを跳躍へ変える。 ブロックが二枚揃う。 その向こうに律がいる。 迅は律を見る。 律も迅を見ている。 クロスへ打てば、律が拾う。 ストレートはブロックが閉じている。 フェイントも待たれている。 読まれている。 全部。 迅は空中で笑った。 それでこそ律だった。 腕を振る。 ブロックの外側。 ストレートよりさらに狭い、アンテナ際。 律が一歩動く。 反応した。 迅が選ぶと分かっていたように、身体を投げ出す。 指先がボールへ届く。 わずかに触れた。 軌道が変わる。 それでも勢いは死なない。 ボールは律の腕を弾き、床へ落ちた。 笛が鳴る。 試合終了。 赤チームの勝利。 **** 迅は着地したまま、落ちたボールを見た。 決まった。 次の瞬間、赤の選手たちが迅へ飛びついてきた。 背中を叩かれる。 肩を抱かれる。 迅も声を上げ、仲間と喜んだ。 本気で嬉しかった。 勝ちたかった。 律に読まれた上で、その先へ行きたかった。 全部やり切った。 仲間の輪の向こうを見る。 律は床へ片手をついていた。 最後まで拾おうとした姿勢のまま、落ちたボールを見ている。 青の選手が律の肩を叩く。 律は立ち上がった。 悔しさを隠さず、唇を噛んでいる。 迅は仲間の腕を抜け、ネットへ近づいた。 律もこちらへ歩いてくる。 ネットを挟み、正面に立つ。 「最後、読んでた」 律が先に言った。 息が上がっている。 「知ってる」 「触った」 「落ちたけどな」 「次は上げる」 「その前に、もっと強く打つ」 「調子乗んな」 「負けたやつが言う?」 律の眉が吊り上がる。 本気で悔しそうだった。 迅は笑った。 律も耐えきれなくなったように笑った。 試合前の不安も、昨日の距離も、その笑顔には残っていなかった。 勝ったから嬉しいだけではない。 律が最高だった。 自分を止めるために、持っているものを全部使ってきた。 迅も全部で応えた。 気持ちの温度は、最初から最後まで同じだった。 「整列!」 指導者の声が飛ぶ。 二人はそれぞれの列へ戻った。 挨拶を終え、ネット越しに握手を交わす。 迅の番になる。 律が手を出す。 迅は強く握った。 律も同じだけ握り返す。 すぐ離さなければならない。 それでも指がほどける直前、律の親指が迅の手の甲を一度押した。 迅の胸が熱くなった。 表彰も、長い講評もなかった。 指導者が短く試合内容を振り返り、合宿は終了になった。 **** 選手たちが片づけを始める。 迅はボール籠を運びながら、律を探した。 律は青の選手たちとネットを外している。 青のエースが何かを言い、律が笑った。 昨日なら胸が痛んだ。 今日は素直に思えた。 あのエースもよかった。 律のトスを何本も決め、青チームを最後まで戦わせた。 それでも迅の目は律へ戻った。 誰と話していても。 誰へトスを上げても。 試合が終わっても。 ずっと律を探している。 律がこちらを向く。 迅と目が合う。 また笑う。 その瞬間、迅の中で答えが形になった。 律が自分のトスを必要としているからではない。 迅が律の球でなければ打てないからでもない。 今日、二人は別々で最高のプレイをした。 それでも迅は、ずっと律しか見ていなかった。 片づけが終わる。 律がタオルを首へ掛け、体育館の出口へ向かう。 迅はその背中を追った。 「律」 呼ぶと、律が振り返った。 「何」 「ちょっと来い」 迅はもう迷っていなかった。

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