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1-3.
「兄さぁん……」
侍女たちに囲まれたニコは、兄を見つけるなり、そう頼りない声を上げた。
テオが室内に一歩踏み入ると、ニコを取り囲んでいた侍女たちがスッと引いた。
ニコは半分泣きべそをかきながらテオの胸に飛び込んでくる。
テオはそれを優しく受け止めて、震える背中をゆっくりと撫でた。
「兄さん、おそいよ。僕、僕……」
「すまなかった。でも、ちゃんと来ただろう?
ほら、もう大丈夫」
「うん……」
そう優しく宥められ、ようやく落ち着きを取り戻したニコがそっと顔を上げた。
兄はそんな弟の涙をハンカチで拭ってやる。
「ほら。お前の晴れ姿……兄さんにもよく見せて」
「ん……」
そう言われたニコはコクリと頷くと、兄の上着の袖を掴んだまま一歩だけ下がった。
その洗練された姿に、テオは思わず息を呑んだ。
先程までニコが着ていた礼服は、テオのお下がりを丈だけ詰め、急ごしらえで用意したものだった。
ニコが礼服を一つも持っていなかったが故の、苦肉の策だった。
だが、今まとっている花嫁衣装は違う。
襟元の白金色の刺繍も、若葉色の飾り石を留めた飾帯も、ニコのために誂えられたものだと一目でわかった。
——まあ、ユーリが何故ニコの服の寸法を完璧に把握しているのかという疑問は残るが、今は気にしないことにした。考えるだけで、胃が痛くなる。
「最高」
テオよりも遅れて入ったユーリが、真顔でそう呟いた。
「へ、変じゃないかな。
急にえらんでって言われて。僕、わかんなくて……」
「うん、可愛い、最高。
なんていうかホラ……可愛い」
「語彙力が死んでるぞ」
「いや死ぬだろ、これは」
「ユーリが気に入ってくれた……。よかったぁ」
ニコはホッとしたように息をついて続ける。
「侍女さんたちが、でんかがお喜びになるのが一番だよって……」
その言葉にテオは眉を寄せたが、ユーリは笑顔を保ったままだった。
「俺は、ニコが喜んでるのが一番嬉しいよ。
ニコはこのお洋服、好き?」
ニコは少しだけ考えたあと、不安げに兄の顔を見上げた。兄が頷くと、もう一度ユーリを見る。
「……ここは、あおいのがよかった……」
そして遠慮がちにそう言って、帯留めについた若葉色の飾り石を指さした。
ユーリが侍女に目配せをし、すぐに替えさせる。
だが、ニコは申し訳なさそうに眉を下げた。
「けど、ユーリは、みどりがすきって……」
「青も好きだよ」
「ほんと?僕もね、あおがすき。
兄さんのおめめと同じ……あっ。ユーリもだ!
えへへ、もっとすきになっちゃったかも」
ようやくニコが、ふわりと笑う。
そのあまりの愛らしさに、ユーリは膝をついた。
「最高か」
「最高だな」
それでも浮かない顔のニコに、ユーリが提案する。
「そうだ。もしニコが良ければ、帯はこっちにしたらどうかな?」
「……僕の瞳の色だ」
ニコは侍女が出してくれた帯を見つめ頷く。
替えてもらった帯にそっと触れるニコに、ユーリは目を細めながら声をかけた。
「俺たちと、ニコの色がそろったね」
ニコは頷いてその場でくるりと回ってみせ、「えへへ」と無邪気に笑った。
——ユーリによると、本日は神前式のみで披露宴は別に行うらしい。
参列者は、国王夫妻と重臣のみだという。
式の支度で疲れたのか、肩にもたれ眠そうにしているニコを撫でながら、テオはずっと疑問に思っていたことを口にする。
「それにしたって、急ぎすぎじゃないか?
入城の三時間後に式だなんて、聞いたことがない」
「僕、へいきだよ」
「平気なものか。今もウトウトしてただろう」
「いや。今日じゃないと駄目なんだ」
その返答に、テオは顔をしかめた。
「権威を使い、無理を通そうとするのは感心しないな」
「違う。これは、約束だから」
「それって、あの時のこと?」
すると、意外にもニコが口を挟んできた。
「覚えていてくれたの?」
「うん……」
「ニコ、どういうことだ?」
「およめさんになって、ずっとユーリと一緒に遊ぶ約束をしたの」
「うん、たくさん遊ぼう。
約束通り、川も作ったんだ」
「ほんと?やったあ」
「いや、待て。全然意味が分からん」
「だから、俺たちは婚約したんだ。八年前に」
ユーリはそう畳み掛けるように返し、頭を抱えているテオに青いロザリオを差し出した。
「八年前?……なんだ、子供の口約束か」
「正当な誓約だ。これが証拠」
テオは受け取ったロザリオの聖印を一目見て、思わず大きな声を出す。
「王家の紋とベルナール司祭長の刻印、日付まで入ってやがる!
文句のつけようがないほど有効じゃないか!」
「だから言ったろ」
「……よく陛下が許したな」
「死ぬほど怒られたよ。
でも、今は認めてくれている。
ニコを妃に迎えることを、とても喜んでいる」
「だからといって、今日にこだわる必要はないだろう」
「いや、駄目だ。八年前に今日と決めた」
「は?」
「ロザリオの日付、ちゃんと見て」
途端に、テオの顔色が青ざめていった。
「……今日だな」
「そう。あの日、俺は神の御前で誓ったんだ。
八年後の今日……ニコの十八歳の誕生日に式を挙げ、妃に迎えるって」
「……誕生日だと?」
テオはハッとしたようにニコを見た。
大切な弟の誕生日をすっかり忘れていた。
いくら忙しかったとはいえ、あってはならないことだ。
「今日、僕のたんじょう日だったんだ……」
他人事のように呟くニコに、すぐさまテオが頭を下げた。
「ニコ、すまない。
お前の誕生日を忘れるなんて……」
「いいよ別に。僕も忘れてたし」
「ニコ……」
「そっか。十八さい。僕、もう大人になったんだ。
てことは、もっと兄さんの役に立てるね!
うれしいな」
まるで取り繕うかのような弟の言葉に、テオの胸が痛んだ。ついでに、胃もギリギリと痛い。
「ニコ、必ず埋め合わせを……」
テオがそう言いかけた、その時。
部屋の扉が、静かに開いた。
「殿下、お時間でございます」
「あぁ、すぐに行く」
すぐさまユーリは表情引き締め、背筋を伸ばした。
あの城門の前で見せたのと同じ、王太子の顔だ。
「ニコ、向こうで待ってるよ」
そしてそう言い残し、侍女と共に部屋を出て行く。
式が急に現実味を帯びて、不安にかられたのだろう。
ニコが今にも泣きそうな顔で、テオの袖の裾を引いた。
そのいじらしさがたまらず、テオはニコを抱きしめる。
「ニコ」
「兄さん、くるし……」
ニコは、これから王族へと嫁ぐ。
式が終われば、自分たちは兄弟ではなく、主従となる。
——それでも。
「ニコラス」
「……兄さん?」
「お前がどこへ行っても、何になっても。
俺は、ずっとお前の兄さんだ。いつでも兄さんのもとに、帰ってきていいんだからな」
「う、うん……?」
テオはニコを抱く手により力を込める。
ニコはきょとんとした顔のまま、兄の胸に頬を寄せ、同じように抱きしめ返した。
程なくして、再び侍女が二人を呼びに戻ってきた。
「大丈夫、兄さんがついてる」
テオは、まだ不安そうなニコに腕を差し出す。
ニコは小さく頷いて、兄の腕にそっと手を添えた。
案内された礼拝堂の扉の前に、兄弟が並んで立つ。
——いよいよだ。
テオが背筋を伸ばした次の瞬間、重厚な扉が音もなく開いた。
式への参列者はかなり絞られていると聞いていたが、それでもニコにとっては多過ぎたようだ。
一斉に向けられた視線に、怯えて震え始める。
「ニコ、ご覧」
すっかり足が竦んでしまったニコに、テオが小さく囁く。ニコは、恐る恐る視線を上げた。
まず見えたのは、祭壇手前に対で置かれた二つの像だった。
建国王とその妃を模したものだ。
王は宝玉を抱き、妃は祝紋を掲げている。
そして、祭壇の中央には、神像が設置されていた。
優しいその表情を見つめていると、少しだけ緊張が和らぐ気がした。
ニコが顔を上げたタイミングで、テオは最初の一歩を踏み出した。
国王夫妻は、会衆席の最前列に参列していた。
テオは歩く速度を緩め、頭を下げる。
ニコも一拍遅れで真似をした。
垣間見えた二人の笑顔は、どこかユーリに似ている気がした。
祭壇の数歩手前で、テオは立ち止まった。
そして、ニコの手を優しく解き後ろへ下がる。
ニコが焦って振り返ろうとすると、祭壇の直前に控えていたユーリがその手を取り、そっと自分の方へ導いた。
ユーリに促され、ニコは祭壇側に顔を向ける。
目前には、よく見知った顔があった。
八年前、ニコの生家そばの教会に務めていたベル司祭だ。ニコに向かい、穏やかに微笑む。
安堵したニコは、ユーリの腕に手を添え直して前を向き、司祭の笑顔に応えた。
一呼吸をおいて、王宮礼拝堂主席司祭ベルナールが宣言する。
「これより、主なる神ならびに、アルヴェリア王家始祖御霊前にて、王太子ユリウス殿下とヴァレンティア公爵家ニコラス卿の婚姻の儀を執り行います」
その後もベル司祭の口上が続いたが、言葉が難しく、ニコは殆ど意味が分からない。再び俯きかけたところで、ユーリが小さく声をかけてくれた。
「大丈夫、一人じゃないよ」
ニコがハッと顔を上げたその時、ベル司祭がユーリの名を呼んだ。
「ユリウス殿下。
王太子として、伴侶として、ニコラスを守り、支え、共に歩むことを誓いますか」
「はい、誓います」
ベル司祭は深く頷くと、視線をニコへと移した。
そして、一段柔らかな声色で問いかける。
「ニコラスさま。
ユリウスさまの妃として、寄り添い、共に歩くことを、神さまとお約束できますか?」
ニコは神像を見つめた。
胸元のロザリオにそっと触れ、目を閉じる。
そして小さく深呼吸をした後、迷いなく答えた。
「はい、できます」
ベル司祭は頷くと、誓約の証として指輪を交わすよう告げた。
はじめに、ユーリがニコの左手の薬指に指輪をそっと通す。
次はニコの番だが、初めて触った指輪がうまく摘めなくてもたついてしまう。
ユーリはそんなニコを急かすことなく見守った。
何とか上手くやりきったニコは、ユーリの顔をどこか誇らしげに見上げる。
ユーリは目を細めながら頷いた。
「それでは、誓いの口づけを」
だが、次に続いたベル司祭の言葉に、ニコは目を大きく見開いた。
ユーリがそっとニコの両肩を撫で、引き寄せる。
ニコは身体を強張らせ、ひゅっと息を詰める。
指輪が光る左手が、所在なさげに宙を彷徨った。
いよいよユーリの顔が鼻先まで近づいてきて、ニコは思わず目をぎゅっと閉じた。
ユーリが、ニコの頬に軽く唇を押しつける。
その感覚に、ニコの目が再び大きく開かれた。
するとユーリは、自分の頬を人差し指の先で軽くつついて見せる。
ニコはすぐに「あっ」と呟いて、背伸びをした。
——ちゅ。
その瞬間、建国王の宝玉と妃の祝紋が、呼応するように淡く光った。
薄緑色の光がふわりと風のように舞い、ニコとユーリを優しく包んでいく。
「主なる神も、アルヴェリア王家始祖御霊も、この婚姻を祝しておいでです。
王太子ユリウス殿下とニコラス卿のご婚姻は、今、ここに成立いたしました」
大きな拍手が響き渡る中、ユーリが先に足を踏み出し、半歩遅れでニコが続いた。
テオと歩いてきた道を、今度はユーリと共に進んでいく。
テオは他の参列者と共に二人を見送りながら、わずかに視線を落とした。
礼拝堂を後にしたテオは、真っ先に前室へと赴いた。その扉を開くや否や、ニコが勢いよく胸に飛び込んでくる。
「兄さぁん……!」
テオはその体に触れることを、一瞬だけ躊躇した。
だが、すぐにユーリが小さく頷いたのを確認し、抱きしめ返す。するとニコは、兄にしがみつきながら「わあん」と大きな声を上げて泣き出した。
「……よく頑張った。立派だったよ」
テオは優しくそう言い切ると、下唇を強く噛みしめた。
——おめでとう。
そのひと言が、どうしても言えなかった。
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