4 / 25
2-1.
また一日が始まる。
今日は、何をしようかな。
そうだ、神さまの台をお掃除しよう。
それから、聖書のうつしの続きをしようかな。
……あ、もう紙がないんだった。
この前頼んだばかりだから、もらえないかなあ。
ニコは微睡みの中、瞳を閉じたまま考える。
一人きりの一日は長い。とても長い。
少しでも長く眠って、退屈な時間をやり過ごしたいのだけど——だめだ。眠れない。
観念したようにため息をつき、瞳を開く。
すぐに視界に飛び込んできた見慣れぬ天井に、息を詰めた。慌てて起き上がり、辺りを見渡す。
そうしてようやく、ここがあの部屋ではないことに気がついた。
「兄さん……?」
試しにそう呼んでみたが、返事はない。
心細くなって、いつも胸元に下げているロザリオを探した——が、ない。
慌てて辺りを見渡すと、ベッド横の机に置かれていた。手を伸ばしても届かず、ニコは這うようにして
それを取り、胸に抱いた。
そしてニコは姿勢を正して両手を前で組み、いつもと同じように祈り始める。
かみさま。
今日も、みんながしあわせに過ごせますように。
兄さんのおなかが、痛くなりませんように。
どうかおまもりください。
——胸のロザリオが、ほんの一瞬だけ淡く光った。
「兄さん……」
祈り終えたニコは、もう一度辺りを見渡す。
すると向こう側に大きな扉があることに気が付いた。すぐにベッドから降り、その手前に立つ。
そのまま暫く見つめたあと、静かに扉へと手をかけた。
その瞬間、喉がぎゅっと締まり、心臓が痛いほど鳴った。震える手に、ほんの少しだけ力を込める。
扉は、拍子抜けするほどあっさりと開いた。
「おはようございます、妃殿下」
扉の向こうに控えていた侍女が、頭を下げ迎えた。
「妃殿下。こちらへ」
もう一人の侍女が、ニコの肩にショールを掛け、椅子へと導いた。ニコは言われるがまま腰を下ろす。
するとすぐに別の侍女が足元に靴を並べ始めたので、思わず両足を引っ込めた。
「よい朝ですよ」
薄いレースのカーテンが開かれる。
朝日が眩しくて、思わず目を細めた。
朝の光を見たのは、どれくらいぶりだろうか。
「妃殿下」
「……」
「妃殿下?」
「あっ、僕のこと?」
「はい。ニコラスさまは、ユリウス殿下のお妃さまでございますから」
「ニ、ニコでいいです」
「ふふっ、そのお優しいお気持ちだけ、ありがたく頂戴いたしますね」
やけに丁寧な扱い、慣れない呼び名。
——僕なんかが、こんな……。
ニコはすっかり恐縮して、縮こまってしまう。
より不安になって室内を確認するが、ここにも兄の姿はない。
仕方なく勇気を出して、侍女に声をかけてみた。
「あの、兄さんは……」
「テオドールさまは、ご公務に出ておられます」
「……いない?」
「ええ。ですが、いつでもお呼びするよう申し付かっておりますよ。お呼びしましょうか?」
ニコは俯いて、膝の上で、拳をぎゅっと握った。
「……だいじょぶです」
すると、他の侍女が声をかけてきた。
「妃殿下、朝の湯あみはなさいますか?」
「ゆあみ……?」
「入浴、いえ、お風呂ですわ」
「おふろ、いいの?」
「もちろんでございます」
「あっ……あの、はいりたい……です」
「かしこまりました」
「妃殿下は、お風呂がお好きなのですね」
「うん!」
ニコは弾けるような笑顔で頷き、椅子からぴょこんと降りた。その可愛らしい様子に、侍女たちもまた、顔を綻ばせた。
一方、王太子妃付き補佐官となったテオは、大忙しだった。
その生活、妃教育、公務の調整——仕事は山積みだ。
早朝からの会議をようやく終え、足早にニコの部屋へと向かう。
ニコは、目を覚ましただろうか。
初めての場所に怯え、一人で泣いていないだろうか。
考えただけで、みぞおちがキリキリと痛む。
ようやく部屋へと到着すると、形ばかりのノックをして、勢いよく扉を開いた。
「あっ、兄さぁん!」
すると真っ先にそうニコの元気な声が聞こえてきたので、ほっと胸をなで下ろした。
「兄さん、僕、おふろ入らせてもらったよ!」
すぐにくっついてきたニコから、花のように甘い香りがした。
身につけている装束も、上質で柔らかい。何よりも、ニコの身体にぴったりだ。
その反面、こんなにも細く小さかったのかと、テオは改めて思った。
いつも大きめの服を着せていたせいで、気が付かなかった。
「おふろ、すっごく大きいの。
真っ白でね、お花があって、お湯もあったかいの!
でね、毎日入ってもいいんだって!」
そう言ってニコは、無邪気にはしゃいでみせた。
テオは、これまでのニコの暮らしのすべてを知っているわけではない。
だが、菓子や入浴への反応を見れば、察するには余りあった。
「……良かったな」
テオはやっとそう言うと、ニコの頭を撫でてやる。
艶が出た髪は、まるで絹糸のように滑らかだった。
「妃殿下、ユリウス殿下が朝食の間でお待ちです」
「私が付き添おう」
侍女の一人にそう促され、兄弟は廊下に出た。
使用人たちがニコの姿を見ると立ち止まり、礼をする。ニコはそのたびにお辞儀し返すので、なかなか先に進めない。
見かねたテオが小さく言う。
「お辞儀は、返さなくていい」
「でも……」
「しなくていい」
「わかったよ、兄さん」
納得のいかない顔をしながらも、ニコは素直に従う。兄の袖を掴む手に、少しだけ力がこもった。
朝食の間では、先にユーリが待っていた。
「おはよう、ニコ。
今日も可愛……え、なにそれ可愛い。
その服、一体誰が用意を……あ、俺か」
「ふふっ、泣き虫ユーリだ」
「妻が可憐すぎて涙が出てきた」
「頼むから落ち着いてくれ」
ニコがユーリの前に着席すると、すぐに朝食が運ばれてきた。
卵料理に、丸い白パン、温かいスープ。
パンの横には、小さな器に入ったジャムが3つも添えられていた。
だが、ニコの反応が薄い。どこか無表情なまま、ぼんやりとそれらを見つめていた。
「どうぞ」
ユーリが不思議に思いつつそう勧めると、ニコが驚いたように顔を上げる。
「これ、僕の?」
その反応が、テオの胸を抉った。胃も痛む。
「もちろん。お腹いっぱい、食べていいんだよ」
ニコは嬉しそうな顔で頷き、祈り始める。
その姿は迷いがなく丁寧で、美しい。
ユーリは思わず見惚れてしまった。
ニコは、まずはじめに、パンを小さくちぎった。
赤いジャムをつけ、口に放り込む。
そしてすぐに頬を抑えながら微笑んだ。
——礼儀作法はまだ拙いが、そんなところがまた、可愛らしい。
「おいしい!」
「良かった。こっちの卵も食べてみて」
「わあ、ふわふわ。おいしい」
「そうだね、美味しいね」
「あれ、兄さんのは?」
そこでニコは初めて気がついた。兄の席がない。
振り返ると、兄は扉の手前に控えていた。
ニコは素直に疑問を口にした。
「兄さんは食べないの?」
「そうだな。テオ、お前も席に着け」
「……私は控えています」
「またおなかいたいの?大丈夫?」
「どうせ俺たちしかいない、気にするな」
「公務中ですから、そうはいきません」
「まったく、相変わらず真面目なやつだ」
ユーリが呆れたように肩を竦める一方、ニコは首を傾げた。
そういえば、部屋を出てから兄の様子が少しよそよそしい気がする。手も繋いでくれなかった。
もしかして、何か兄の気に障ることをしてしまったのだろうか。
そう不安になったところで、ユーリに明るく声をかけられた。
「そういえば、午後、母がお茶会を開くそうだ」
「……お妃さま?」
「うん。一緒に行こう。
父と弟のラウルも来るよ。ま、家族顔合わせだな」
「でも、僕……」
不安げに俯くニコに、ユーリは笑顔で続けた。
「お菓子も、たくさんあるよ」
「おかしっ」
ニコはすぐに顔を上げた。
コロコロと変わるその表情が、愛しくてたまらない。 昨日、テオに「甘いものを食べさせすぎるな」と怒られたが、今日くらいはいいだろう。
扉の前からの圧は、無視することにした。
朝食以降、兄はずっとそばにいてくれた。
部屋に戻ると手も繋いでくれ、聖書も一緒に読んでくれた。
朝に感じた違和感は、気のせいだったのかもしれない。
ニコがほっと胸をなで下ろしたその時、侍女たちが衣装箱を運び入れてきた。
そして、手際よくお茶会用の支度を始める。
「お茶会……行かなきゃだめ?」
「だめだ」
即答され、ニコはため息をついた。
「兄さんも来る?」
「別件がある。
が、どうしてもの時は呼んでいい。すぐに行くよ」
すると、部屋の扉を叩く音がした。
返事とほぼ同時に、ユーリが入ってくる。
「やあ、ニコ。
午後も新鮮に可愛いね!愛してるよ!」
テオはため息をつきながら、仕上げのリボンを胸元で可愛らしく結んでやった。
「さあ、行こう」
ユーリがそう言って、ニコに手を差し出す。
テオが後押しするようにニコの背中を撫でた。
「楽しんでおいで」
ニコは渋々頷き、ユーリの手を取った。
王宮の中庭は、季節の花々に囲まれていた。
立ち入るなり、ニコは口元を緩ませる。
その顔を見て、ユーリは公爵家の庭師を思い出した。
ニコは、口下手だが優しい庭師についてまわり、植物の世話を楽しんでいた。
彼はまだ、あの庭にいるのだろうか。
そのうち、向こうに白い屋根が見えてきた。
少し進むと、王妃が侍女と楽しげに茶席を整えている様子が伺えた。
「ニコちゃん!」
王妃はニコを見つけるや否や、そう声を弾ませる。
ニコは、緊張した面持ちでお辞儀をした。
「お招き、ありがとうございます」
「あらまあ、なんて可愛らしいのかしら!
さあさあ、どうぞこちらへ」
「は、はい」
王妃に促されるまま、ニコはユーリと共に席に着いた。
「すまない、遅れた」
その時、国王と青年が姿を現した。
紅茶のよい香りの中、王妃は笑顔で二人を迎えた。
「ラウル。あなたは、ニコちゃんのお隣よ」
——ラウル。
朝食の時、ユーリが弟だと言っていた人だ。
青い目はユーリと同じだが、黒髪は王妃に似ていて、明るいユーリとは違う静かな空気を纏っていた。
ラウルとニコが並ぶと、王妃はさらにご機嫌になった。
「まあ、素敵ね。
ラウルも可愛い弟ができてよかったわね!」
その言葉に、ニコは戸惑ってしまった。
"兄さん"以外の弟なんて、考えられない。
だが、ここでそれを否定したら、王妃に悪い子だと思われるかもしれない。
そうしたら、ユーリにも迷惑が——。
するとその時、ラウルが口を開いた。
「妃殿下には、すでに素晴らしいお兄さまがおられます。あまり軽々しいことを申されませんよう」
王妃は、はっとした顔をする。
そしてすぐにニコに向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私ったら、ニコちゃんの気持ちも考えずに勝手なことを……。ニコちゃん、ごめんなさいね」
「えっ、あ、いえ。だいじょぶです……」
「素晴らしい、か。
まったく、昔からお前はテオ贔屓だよなあ」
気まずい空気を打ち消すように、ユーリが明るい声でそう言ってのけた。
ラウルはわずかに視線を落とし、静かに続けた。
「事実を申し上げたまで。
……テオドール卿は、信用に足る優秀な方です」
「腹が弱すぎるのが玉に傷だがな」
「もう、ユーリってば。そう言うあなたこそ、テオちゃん贔屓ではなくて?」
「ええ。このまま一生、王宮でこき使ってやりたいくらいです」
そう言うユーリに、国王が苦笑いをしながら返す。
「さすがに公爵家の息子二人を召し上げたら、ヴァレンティア卿に怒られてしまうな」
皆が穏やかな笑顔に包まれる中、ニコはラウルの顔をそっと見上げた。
兄さんを褒めてくれた。
兄さんだけの弟であり続けてもいいと言ってくれた。
「あの……」
ニコは勇気を出してラウルに声をかけ、頭を下げた。
「ありがとうございました」
だが、ラウルはわずかに眉を寄せるだけで、何も返してはくれなかった。
それでもニコは、嬉しかった。
ラウルのことを、もっと知りたいと思った。
ともだちにシェアしよう!

