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3-1.
「熱を出したって?!」
寝室に入ってくるなり、そう声を上げたユーリを、テオが視線で諌める。ユーリは小さな寝息に気が付き、すぐに唇を結んだ。
ニコは、すやすやとよく眠っていた。
ユーリはほっと息をつき、ベッドサイドに控えていたテオの横の椅子へと腰を下ろす。
「魔法医が呼ばれたと聞いた。
そんなに酷いのかと……」
「興奮して全然寝なくてな」
「ああ⋯医者が怖かったのか」
「いや、川の話が止まらず……」
「川」
「医者が診ているというのに、ずっと楽しげに話していてだな……」
「かわいい」
「……かわいいが、よくはない」
テオはそう言うと小さく息を吐いた。それから、ニコの首元に浮かぶ汗をぬぐってやった。
「それで、医者の診立ては?
まさか、悪い病では……」
ユーリがニコの赤らんだ頬を見ながら、心配そうに問う。
「疲れではないか、とのことだ」
「……俺が、川へ連れて行ったから」
「まあ、それだけが原因ではないだろう。
ここに来てから、色んなことが立て続けにありすぎた。単純に、疲れていたのだろうとは思う」
「だが、川遊びが引き金になったことは変わりない。確かに、川までの道中、何度か立ち止まって息を切らしていたんだ。
そのたびに休みながら連れて行ったのだが……。
川に着いてからは、元気に飛び回っていたものだから、気にし過ぎかと油断してしまった」
「楽し過ぎて、疲れを忘れてしまったんだろうな。
発熱を確認した後も、そんな感じだったよ」
「ニコの体力を見誤ってしまった。
——俺がついていながら、申し訳ない」
テオは、すっかり意気消沈してしまったユーリの肩を軽く叩いた。
「いや、俺もニコがここまで体力が落ちているとは思っていなかった。お互いさまだ」
その時、ニコから「ううん」と小さく声が漏れた。
それから、
「……でね、にーさん、カニ……。ユーリ……」
と、ふにゃふにゃと寝言が続いたので、二人は思わず顔を見合わせてしまった。
寝返りを打ったニコの布団を直してやりながら、テオはようやく口元を緩ませた。
「……よほど楽しかったようだ」
「久しぶりなこともあって、最初は少し緊張してたんだけどね。
一度川に入ったら、すぐに調子を思い出してさ。俺なんか、あっという間に置いていかれたよ。
蟹を探すのも、取るのも上手くて。感心したよ」
「そうか……」
「……? どうした?」
「いや」
どこか煮え切らないテオの態度に、ユーリは違和感を覚える。 長い付き合いから、きっと何か気になることがあるのだとすぐに予想がついた。
案の定、少しの間を置きテオが口を開いた。
「そういえば、アップルパイを食べたと聞いた」
「あぁ……。母が用意したんだ」
「どれくらい食べた?」
「ホール半分ほど。
すごく気に入ってくれてね。本当はもっと食べたがったのだけど、さすがに止めたよ」
テオは、より神妙な面持ちでユーリに確認する。
「止めた時、謝らなかったか?」
すると、ユーリはわずかに眉を上げた。
「……謝った。過剰なまでに」
「やはりか」
テオはそうとだけ言うと、ニコを見つめたまま押し黙った。
しばらくの間、ニコの規則正しい寝息だけが響く。
また、ニコが寝返りを打った。
やはり熱のせいで少し眠りが浅いのかもしれない。
テオはまた丁寧にその小さな額の汗を拭いて、ずれた布団を直してやった。
そしてもう一度椅子に座り直し、ようやく話し始めた。
「ニコは、昔から甘い菓子が大好きだった。
食べ過ぎだと諫められることも、もちろんあった」
「まあ、子どもなんてそんなものだろう。
ニコに限ったことじゃない」
「問題は、その後だ。
拗ねたり、いじけたりすることはあったが、少なくとも他人に"過剰だ"と思われるほど謝罪することはなかったよ。そうなったのは、奥棟に隔離されるようになってからだ」
「まあ、過剰に、とは言ったが……たまたまではないか。例えば、あの花菓子は、君が一度止めたが、謝るどころか、もっととねだったよな」
テオは目を伏せ、息を吐く。
「あれは俺だからだ」
「お前だから?」
「ニコが奥棟に移されてからも、俺は帰るたびに菓子を土産にして帰ったんだ。一番喜ぶからな。
ニコは、いつも俺の膝に乗って菓子を食べたかった。その時も、似たようなやり取りをよくやった。
俺が止める。ニコがもう少しとねだる。……結局、俺が仕方ないなと許して二、三個多く渡す。
花菓子のあれは多分、その延長だったのだと思う」
ユーリは腕を組み、神妙な顔で呟いた。
「……菓子は、大好きな兄さんの膝で甘えた、安心と喜びの象徴。
ニコが欲しているのは菓子ではなく……」
「安心。
思い返せば、花菓子の時。
俺とお前が、ニコのことで少し口論になったろう。
あの時、ニコはいつの間にか俺の後ろからいなくなり、菓子をほおばっていた。
止めたが、ニコにしては珍しいほど嫌がった。……不安だったのかもしれない」
「不安な心を埋めるものが、菓子。
あんなに楽しげにしていたが、今日もどこか不安だったのか……」
「仕方ない、朝から俺がいなかった。
楽しかったのは本当だと思う。
川遊びの話をするニコは、本当に嬉しそうだった。あんな顔は久しぶりに見たよ。
——それこそ、八年ぶりかもしれない。
俺がいなくとも、お前と楽しく過ごせた。
大きな進歩だ」
「……」
ユーリは、硬い表情のまま腕を組んだ。
テオはニコの柔らかな頬をそっと撫でる。
ふにゃ、ニコの口元が緩んだのを見て、軽く息を吐いた。
「……今、思えば。
俺以外、ニコが欲しがるものを与えた人がいなかったんじゃないだろうか。いや、与えるどころか、欲しがったら叱ったのかもしれない」
「——あぁ、なるほど。そうか」
「何か心当たりがあるか」
「今日、アップルパイを止めたとき。
ニコは、『僕なんかが、よくばってごめんなさい』と言った。食べ過ぎたことよりも、欲したことに罪悪感を抱いている印象だった」
話しながら、ユーリの記憶が繋がっていく。
ニコの無邪気さの中に隠れていた小さな違和感たちが、少しずつ形を成してきた。
「そうか、そうだよ。
最初の朝食のときも、自分がこれを食べていいのかと俺に聞いた。自分の目の前にあるというのに!
もしかして、あれも……」
「ああ。食事すら、許可されるまで手を付けてはいけないものだったのだろう」
「何ということだ」
ユーリは椅子に座り直し、額を押さえて肩を落とした。テオは、ニコの手を撫でる。
小さな、小さな、まるで子どものような手だ。
少しの間を置き、ユーリが再び口を開いた。
「……少し話は逸れるが、湯浴みの話は聞いたか」
「いや、詳しくは。
ニコから王宮の風呂の豪華さだけは聞いているが」
「……規模だけなら、お前のところとそう変わらん。
初めての湯浴みの時、湯を使っていいのかと何度も侍女に確認したそうだ。
——毎日入れると知って、目を潤ませたとも」
「……」
話しながら、ユーリが怒気を深めていく。
「まったく。どうなっているんだ。
由緒正しい公爵家だぞ。
ましてや、お前の故郷は温泉が出る。湯浴みなど、庶民でも毎日しているというのに!」
一方で、テオの声は冷静だった。
「……実際、ニコがどんな生活を強いられてきたか、俺もすべては知らないんだ。
——だから、今日は休暇をもらった」
「?」
「少し待っていろ」
テオは淡々と言うと、一度部屋から出ていった。
ニコはよく眠っていた。
その子どものような寝顔を愛らしいと思う一方で、ユーリの胸が痛んだ。
すぐにテオは戻ってきた。
分厚い資料の束を、その腕で抱えている。
「何だ、それは」
「ニコの治療記録だ。
安心しろ、父の……当主の許可は得ている」
「お前、まさかそれを取りに……」
ユーリは深いため息をつく。
「そういうのは、休暇ではなく、出張で行け」
「この件は、報告義務がない方がいい」
テオは平然とそう言ってのけ、ユーリに資料の束を一つ渡した。
「……八年分か」
「ああ。俺もまだ、すべては読めていない」
そして、どちらからともなく資料を開いて中を確認し始めた。
内容は主に、治療記録、投薬記録、食事記録、日々の様子の控え。
それぞれにお抱えの医師の印が入っている。
——自分たちは正しくニコを療養させていたのだと、証拠にできるほど整った記録だった。
記録を半分ほど読み進め、ユーリが口を開いた。
「……おおむね、俺たちの予想は間違っていなさそうだな」
テオが頷く。
「食事、湯浴み、厠に立つ時間まで決められている。療養というより、監視だ」
「わがまま、癇癪、暴れた、宥めても効かず、薬で落ち着かせた、眠らせた……ずいぶんな言い方だ」
「……叱ってねじ伏せたのだろうな」
「食事は……粥、薄いスープ。
煮野菜、少量の魚。甘味なし。間食なし。なんだこれは、療養中の老人でも、もう少し食べるぞ」
「甘さ辛さは刺激になる。消化にも悪いと理由付けは一応されているが、成長期の子どもにとって、栄養的に十分とは言えない献立だ」
テオは資料を閉じて、ニコを見つめ切なげに言う。
「……だから、こんなに小さいのだろう。
もし普通に育っていれば、俺くらいにはなったはずだ」
「……」
ユーリは口を噤んだ。
小さく可憐だと思っていた姿が、今は違う意味を持って見えた。
一拍を置き、話題を変えるようにユーリが言う。
「隔離から半年ほど経った頃から、“わがまま”の記載ががくっと減っている。
……諦めたのだろうか、ここで」
「いや、俺がニコの隔離に気づいた」
「……なるほど」
当時、テオは通例通り王立学校で寮生活を送っていた。
長期休み以外は、帰宅しない。
ニコの隔離はテオの知らぬところで始まっていたのだ。
「俺が帰った時も、情緒が安定しないことはあった。急に泣いてすがってきたり、かと思えば過剰に恐縮したり、幼子のように甘えたり」
「甘えについては、今も相当あるよな。
十八の子を膝に乗せたり、抱いて歩くのを見たときは、正直驚いた」
「……やめるようにはしてるんだが、なかなか、な。
だが、隔離されていた間は、あんなものではない。
俺からすると、むしろここに来てからはやけに安定しているように思える」
「お前と好きに会えるからだろう」
「それでも、だ。
どこかで大きな反動が来なければいいが……」
心配げな顔で、みぞおちの辺りを押さえるテオとは対照的に、ユーリの表情は明るい。
「心配しすぎだろう」
「……だといいのだが」
ユーリは呆れたように肩を竦めた。
だが、すぐに真摯なまなざしをテオに向けた。
「ニコにとって、お前は特別だ。それは揺るがない。お前の代わりになれる人間は他にいない。
だが、お前一人で背負う必要はない。俺もいる。
父上も母上も、城の者たちも、皆ニコを大切に思っている。俺たちも一緒に支える。お前ごとな」
それからわざと困っているような素振りをし、最後に付け加えた。
「侍女たちなど、ニコが可愛くてたまらないと、今日は誰がお世話をするかで持ちきりだ。
——大丈夫だよ」
テオは、しばらくニコの顔を見つめていた。
それから小さく息を吐き、ユーリの方を向く。
「そうだな。……お前には感謝している」
「なんだ、急に」
「この城には、ニコを気味悪がる者も、男妃を蔑む言葉も全く見えない。
お前が八年をかけ、準備をしてきたおかげだ。
ニコを王宮で受け入れてもらえて、本当に良かったと思っている。——ありがとう」
「なんだ、急に。調子が狂うな……」
ユーリはそう言うと、照れたようにテオから視線をそらした。そのまま、眠るニコを見て口元を緩めると、穏やかな声で続けた。
「……愛する人を迎え入れるんだ。
当たり前のことをしただけだよ」
まもなく、ユーリは公務に戻るため、名残惜しげにニコの髪をひと撫でして部屋を出た。
入れ替わりで、侍女が看病を変わると申し出たが、テオはそれを断った。
「——当たり前、か」
眠るニコを前に、テオは一人そう呟いた。
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