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3-2.
ニコに付き添いながら、テオは治療記録を読み進めていた。
嘘とは言い切れないが、真実とも言えない。
都合よく整えられた記録に辟易として、頭を上げる。すると、ふと向こうの祭壇に目が行った。
元の屋敷を出る際に、ニコが唯一持って行きたいとねだったのが、この神像をはじめとする祭壇道具だった。
テオはニコが落ち着いているのを確認すると、小さく伸びをして、祭壇の方へと赴く。
それは、宝箱をひっくり返したような無垢で可愛らしい飾り付けがなされていた。
手作りの紙の花——その横に、生花が活けてあることに気がついて、テオはわずかに眉をあげた。
ニコはもとより、花が大好きだった。
そんなニコの自室は、いつも色とりどりの花が飾られていた。特に祭壇には、手塩にかけて育てたとびきりお気に入りの花がいつも添えられていた。
その右手首に紋が出て、奥棟に隔離されてすぐの頃。
テオは菓子と一緒に花を土産にしたことがあった。
しかし、医師と使用人に厳しく咎められ、とうとう花を届けてやることができなかった。
その理由は、花の香りが刺激になり良くないだとか、枯れゆく花は気落ちの原因になるだとか。
果ては、錯乱時に誤食する可能性がある……など。
一見もっともらしいが、テオには到底納得しがたい内容だった。
紙で作った花が飾られた祭壇を、ニコはよく悲しげに見つめていた。
テオがしてやれることと言えば、花の刺繍が入ったハンカチや押し花が入ったしおり、鮮やかな色合いの紙を贈ることだけだった。
「……よかったな、ニコ」
テオはそう呟いて、小さく微笑んだ。
けれども、その胸の内は沈んでいく一方だった。
——テオは、半年遅れでニコの隔離を知った。
冬休みに入った初日、テオはいつも通りニコが好きなものを揃えて帰宅した。
だが、どこを見てもその姿がない。
また飛び歩いて遊んでいるのかと思い夕方まで待ったが、一向に帰ってこなかった。
しびれを切らせて使用人に尋ねてみたが、曖昧にはぐらかされてしまう始末。
おかしいと思い赴いたニコの私室のベッドには厚い布が掛けられており、あんなに大切にしていた祭壇もまた、埃を被ったまま放置されていた。
その時、立ち尽くすテオの背を、そっと叩く者がいた。ニコの乳母、マーゴットだった。
「テオドールさま、どうか……」
その声は、震えていた。
「どうか、ニコラスさまをお救いください」
マーゴットの話によると、ニコは奥棟にいるらしい。奥棟は、曽祖父が療養に使っていた敷地内の一番奥にある別棟だ。
今は住む者もなく、半ば物置として使われているはずだった。テオ自身も、訪れたのは曽祖父が亡くなって以来だ。
小さな林を抜け、すっかり荒れた庭を横切る。
朽ち果てた噴水が、テオの心をさらに抉った。
——こんな所に、ニコが……?
胃が痛むのを抑えながら進むと、奥棟の入り口にメイドの姿が見えた。
メイドはテオが声をかけると極端に驚き、手にしていたトレイを落とした。
——パンにスープ。野菜の煮込み。
量も少なく、粗末な食事だった。
「テオドールさま……どうして、ここに」
「ここで、何をしている」
テオが低く問うと、メイドは目を泳がせた。
メイドから鍵束を強引に奪い取り、テオは奥棟に入った。一階に、人の気配はない。
テオは迷わず二階へと向かった。
階段を上がると、一番奥の部屋のドア下から灯りが漏れていた。かつて曽祖父が使っていた部屋だ。
扉を引くが、動かない。
鍵がかかっている——外鍵だ。
「ニコ!」
鍵を開け、中に押し入るや否や、テオは叫んだ。
すると、すぐに向こうから小さな物音が響いた。
「ニコ!どこだ?!」
トン、と小さな音が響いた。
テオは即座にその方へ目をやる。
すると、もう一度トンと音が鳴った。
——曽祖父の寝室繋がる扉の方からだ。
テオは扉を前に、一瞬たじろいだ。
頑丈な外鍵が設置されている。
どう見ても、後からつけたものに違いない。
「ニコ!」
即座に鍵を開き、扉を開く。
——ニコは、扉のすぐ前に力なく腰を下ろしたままこちらを見上げていた。
「兄さぁん……」
テオの顔を見るや否や、瞳にいっぱいの涙をためて弱々しくそう言った。
テオは思わずニコを抱きしめた。
そのすえたような匂いに、テオのはらわたが煮えくり返った。
「こんな所、早く出よう」
「けど……」
「大丈夫だ。兄さんがついてる」
途端に顔を曇らせ俯くニコを、テオは迷いなく抱き上げた。
「テオドールさま、なりません!」
「うるさい、どけ」
「なりません、ご当主さまが……っ」
階段下で、集まった使用人が口々にそう言いテオを制止しようとする。
とうとう誰かの手がニコに伸び、テオは叫んだ。
「無礼者が!
使用人が、嫡男の俺に逆らうのか?!」
普段温厚なテオの怒りに、使用人たちがたじろいだ。テオは一瞥し、ニコを連れて奥棟を後にした。
テオは本棟に戻るとすぐにニコを風呂に入れた。
ニコの服が全て小さくなっていたので、自分のお古を着せた。
膝に乗せて土産の菓子を食べさせてやると、ニコはようやく安心したのか小さく笑った。
「兄さん、これおいしいねえ」
「……そうか、ならよかった」
そう話をしながらも、テオの心は重い。
——しかし、確かめねばならない。
「ニコ、お前……どうしてあんなところに」
途端、ニコの表情が曇った。
右手首を押さえる。
奥棟から連れ出してから、ずっと何かあるごとにそうやっている。テオは強い違和感を覚えた。
ニコは俯いた。
そして少しの間を置き、震える声でぽつりと言った。
「……ぼく……おびょうきで……」
だが、すぐに口を結んで押し黙った。
胸のロザリオにそっと触れ、向こうの小さな祭壇に目をやる。
それから小さく首を横に振って顔を上げると、声を震わせながら言った。
「兄さん……ぼくのこと、きらいにならないで」
「なるものか」
「ほんと?」
「当たり前だ、兄さんが信じられないのか?」
「……あのね……」
ニコは意を決したように、右の袖をめくりあげた。
その右手首の外側に、紋が刻まれている。
テオの胃が、これ以上ないほどギュッと締め付けられた。一瞬で、察する。
——聖痕か?
教会には届けたのか?
いや、届けたのならここにいるわけがない。
だから奥棟へ——いや、しかし。
そんなこと、許されるのか?
聖痕隠しは、大罪だぞ。
「……兄さん?」
ニコが不安げに顔をのぞき込んでくる。
テオは不安ごと息を呑み込んで、ニコに微笑んだ。
「……そうか」
そっとニコの右手に触れ、さりげなく袖を元に戻す。
「教えてくれて、ありがとう」
そうは言ったものの、次にかける言葉が見つからない。すると、ニコが俯きながら続けた。
「これ、呪いなんだって……。
僕が悪い子だから、神さまが怒ってつけたって……。
これがあると、みんなが危なくなるから、だから、お部屋から出ちゃだめだって……父さまと母さまが……」
「そんなこと、あるものか」
テオはそう遮って、震えるニコを抱きしめた。
「誰よりも神さまの教えを大切にしてきたお前に、神さまがそんなことをなさるはずがない。きっと何かの間違いだ。大丈夫だよ、兄さんが何とかする。
そうだ、ベル司祭に相談してみよう。
きっと、力になってくれる」
「兄さん……」
ニコの顔が、ぱっと明るくなった。
テオが頷いた——その時。
廊下の方から、幾つもの大きな足音が聞こえた。
さらに、ノックもなく扉が開かれる。
同時に、母の悲鳴と父の怒声が響いた。
「テオドール、お前、何てことを!」
「ニコラス、こっちにいらっしゃい。
いい子だから、母さまとお部屋に戻りましょう?」
および腰の母が、ニコへ手を差し伸べる。
テオは反射的にニコを抱き寄せた。
するとニコは、右手首を押さえたまま、テオの胸に顔を埋め肩を震わせる。
「ニコから話は聞きました。
ベル司祭に相談すべきです」
「あなた、なんてことを!」
「司祭?教会だと……?」
「ベル司祭は、ニコをよく知っています。
あの方ならきっと」
「馬鹿を言うな」
父が、声を一際大きくして言い放った。
「聖痕持ちを出した家が、社交界でどう扱われるか、お前も知っているだろう。
信用は失墜し、領地には監査が入る。神敵とされ、最悪、家そのものが潰されることもありうる」
「しかし」
「ヴァレンティア家の失墜は、領民の生活を脅かす。ましてや、我々は公爵家だ。
ひいては、民の王家への不信も招きかねない。
お前はニコラス一人のために、公爵家と領民、王家への信までを危険に晒す気か」
「もう終わりだわ……もし知られたら、私たちは……」
「しかし父上。
隠蔽こそ、より罪が重いことは、お分かりでしょう。法に基づき報告を行い、しかるべき監査を受けるべきです。
ベル司祭なら、事情を話せば、きっと分かってくださる。きっとニコをお救いくださる」
「ニコラスを救う?
事情を話せば分かってもらえる?
見通しが甘い、甘すぎる。
これ以上、私を失望させるな」
「……!」
「公爵家嫡男でありながら、特に秀でた才もないお前が、私に意見するなど——」
その時、ニコが静かにテオから離れた。
そして立ち上がり、両親の方へと向き直る。
「ニコ、行くな。行かなくていい」
テオは手を伸ばし、その体を再び引き寄せようとした。だが、ニコはその手をそっと退けた。
「ぼく、お部屋にもどります。
だから、兄さんを叱らないで。
……ぼくなんかが外に出て、ごめんなさい」
俯き、嗚咽まじりにやっとそう言った弟の震える背中を、テオは見つめることしかできなかった。
——かけてやれる言葉が見つからない。
己の無力さに打ちひしがれる。
父は、すぐさま使用人を呼んだ。
ニコは抵抗することもなく、まるで罪人のように項垂れたまま連れ出されていく。
ニコは部屋を出る直前、一度だけ兄を振り返る。
「兄さん、ありがとう。大好きだよ」
そして、いつも通り明るく笑ってみせた。
「ニコ、待て。待ってくれ」
そう咄嗟に返したが、次の瞬間にはもう、ニコは扉から出ていってしまった。
「どうして」
テオは呟く。
「どうして、ニコなんだ」
——そんなテオの肩に、母がそっと手を置いた。
テオが顔を上げる。目が合うと、母は諦めたように、静かに首を横に振った。
テオはその後、逃げるように学校へと戻った。
長期休みで人もまばらな図書室で、ひたすら聖痕に関する書物を読み漁った。
しかし、どの書物にも「神敵の証」「呪いの紋」「天罰」そんな言葉しかなく、救いについての記載は一つもなかった。
休みが終わってすぐ、テオに一通の手紙が届いた。
ニコの乳母、マーゴットからだった。
あの後、ニコの隔離がより厳しくなったこと。マーゴットをはじめ、ニコに好意的だった使用人たちが何人も暇に出されたことが手紙には書いてあった。
手紙は、「ニコラスさまを、どうかお願いいたします」と、震えた筆跡で書かれた言葉で締めくくられていた。
父は、「特に秀でた才もない」と自分を切り捨てた。その通りだと思った。
子どもの頃から、何をやっても凡庸だった。
しかし、どこかそれでいいと思っていた。
秀でた才がなくとも、通例に従い領を治め、静かに生きていければそれでいい。
そんな甘えがどこかにあった。
しかし、それではニコを救えない。
——力を、つけなければ。
誰よりも秀でた実績と、信頼。
王家にも一目置かれ、公爵家の跡取りとして、誰もが認めざるを得ない存在になる。
テオは手紙をそっと閉じ、決意した。
——どんな苦境も、耐えてみせる。
何だってやってやる。絶対に、諦めない。
必ず、ニコを自由にするんだ。
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