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4-1.

着替えを終えたニコを見て、テオは資料の束すべてを床に落とした。   普段は簡易的な礼服が多いのに対し、本日は大きな襟の白シャツに、紺色のベスト。 同じ色のひざ丈のズボン。 胸元の赤いリボンがアクセントになっている。 礼服というよりは、貴族学校の制服に近い作りだ。 ——いや、しかし。うん、すごく可愛いな。 「もう、兄さん。おっことしたよ」 床に散らばった資料を拾いながら、ニコが頬を膨らます。我に返ったテオは、急いで残りの資料を拾い上げた。 「今日はやけに軽装だな。 また、川にでも行くのか?」 「わかんない。朝、もらったのを着たよ」 テオは「妙だな」と思い首を傾げたが、その謎は、思いのほかすぐに解けた。    朝食後。 可愛らしいニコの姿に終始笑顔が止まらなかったユーリが、飴色の手提げ鞄を取り出した。   「はい、これ。ニコにプレゼント」 「ありがと、ユーリ。 ……おかばんだ。どこか、おでかけするの?」 「うん。これから、ニコの学校に行くよ」 「がっこう?!」 即座にニコは目を丸くし、テオは胃を押さえた。   ——それで、制服。 これは、お前の趣味だったのか。 いや、可愛いが。 「僕、学校に行っていいの?」 「もちろん」 「学校って、おべんきょう、するとこだよね?」 「そうだよ!」 途端、ニコは嬉しそうに笑いテオを見上げる。   「兄さん!僕、学校にいけるって!」 「あ、あぁ……」 突然のことに、聞かねばならないことがたくさんあったのだが——その弾けるようなニコの笑顔を見せられたテオは、その場ではもう何も言えなかった。 ユーリが言う「学校」は、王族の私室が並ぶ区画から中庭を挟んだ先にある、小さな建物だった。 真新しい白い石壁が、中庭の花々によく映えている。 ——こんな建物、あっただろうか。 ニコの手を引きながら、テオは首をかしげた。 建物の入り口には小ぶりな門があり、「アルヴェリア王立学校 王宮分校」と刻まれた看板が掲げられていた。   テオは思わず立ち止まった。   「勝手にこんな看板を掲げてもいいのか?」 「もちろん公認だ。門に校章も入っている」 ——確かに、門のアーチの真ん中に、見覚えのある校章がしっかり刻まれていた。   「今日から妃教育を行う旨は聞いていた。 教師をお前がそろえることも承諾した。 だが、学校とは聞いてない」 「分校としての認可が取れるかが微妙だったから、黙っていた。実際、昨日ようやく下りたんだ」 「だから、聞いていない」 「今言った」 「既成事実から入るな」 「しかしニコが喜んでいる」 「それはそう」 憧れの学校を前に、すっかりはしゃいだニコが兄と繋いだ手を振る。 「兄さん。ほんとの学校だよ!夢みたい!」 「本当に学校だよ、ニコ。中に入ってみよう」 「……」   建物の中は、本当に小さな王立学校そのものだった。 内装も敢えて寄せているのだろう。 通ったことのある者ならすぐに分かる。 講義室には、王立学校のミニチュアのような長机と椅子が三列。中庭側に大きな窓があり、季節の花々がよく見える。 隣の部屋は、礼法や舞踏練習用のようだ。 磨き込まれた木の床が、とても美しかった。 「ここが、学校……」 ニコは鞄を抱えながら、興味津々と言った様子で辺りを見渡す。   「ニコのお席はここだよ」 ユーリから席へ案内されると、緊張した様子で腰を下ろした。   「鞄は、中を出したらここにしまってね」 「うんっ」 ニコが言われた通り筆記用具と教科書を机に並べたところで、ユーリが軽く手を打った。 すると前の扉がいきなり開いて、ぞろぞろと人が入ってくる。彼らは教壇で整列し、一礼をした。 ニコは嬉しそうにそれを見つめていた。 ユーリは満足げに頷いて立ち上がり、明るく声を張る。 「この学校の先生たちだよ!」 「その無駄な声量は何とかならんのか。 うるさいぞ」 「先生方、ニコくんに自己紹介を!」 「人の話を聞け」 ユーリに促され、教師たちが一人ずつ自己紹介を始めた。王太子の無駄な声量にも、全く動じない。 ——礼法、舞踏、読み書き、歴史、算術。 なお、今は不在だが、神学はあのベル司祭が見てくれるそうだ。 そして最後に、静かに一同を見守っていた夫人がすっと前に出た。眼鏡の奥の眼光がやけに鋭く、隙が全くない女性だった。 「王太子妃殿下の教育総括を務めます、マルグリットです」   ——かなり本格的な布陣だが、あの総括の教師はかなり厳しそうだ。 のんびり屋のニコは、大丈夫だろうか。 一拍遅れで慌てて礼を返しているニコを見ながら不安にかられたテオは、とにかく胃が痛くて仕方ない。 そんなテオの様子など気にせず、ユーリが楽しげに繋げる。   「みーんな俺も習った先生なんだ。優しい先生たちだから、大丈夫だよ。安心してね」   その言葉に、即座にマルグリットが反応した。   「……"俺"?」 「ひぇっ。 "わたくし"も過去にご指導頂いた先生方ですから、心配はいりませんよ、ニコラス」 「よろしい」 ——いや。無理だろ、これは。 だが、テオの心配をよそに、ニコの返事はとても明るかった。   「はいっ」 「元気でよろしいですね。 それではニコラス殿下、まずはご挨拶を」 ニコはまた元気に返事をして立ち上がると、はじめにぺこりとお辞儀をしてからやや緊張気味に話した。 「ニコラスです。 ……ええと、十八さいです! 兄さんと、ここにきました。 えっと、お花とカニと聖書がすきです。 さんすうは、すこし苦手です。 でも、がんばります。 よろしくおねがいします!」 最後にもう一度、深くお辞儀をする。 教師たちは、その幼さに一瞬戸惑った。 マルグリットの目も、一瞬鋭くなる。 だが、さすが熟練の王室教師である。 ニコが顔を上げた瞬間には表情を戻し、拍手とともに受け入れた。おかげでニコは、自信を失うことなく着席することができたのだ。 本格的な授業に入る前に、今日は一番の基礎である読み書きの出来具合から確認することになった。 この後も、ニコの体調を見ながら数日をかけ、すべての教科で同様に実力の確認を行うという。 「……お手柔らかに頼みますよ、先生」 ユーリがこっそり耳打ちをすると、マルグリットは眼鏡を押し上げながら目を細めた。 「ご心配には及びません。もっとも必要なものは、すでにお持ちのようですから」 「必要なもの、ですか?」 「ええ。 ——学びたいと願う、素直なお気持ちです」 読み書きの教師が横につき、マルグリットと医師は少し離れて様子を見守っている。   テオとユーリも同様に、ニコを見守っていた。その隙に、テオがユーリに問いかけた。   「先ほど、王立学校分校としての認可が下りたとは言っていたが……これは、どういう扱いになるんだ」 「何ら変わりはない。 課程を終えれば卒業資格が出る。試験内容によっては、本校で受ける必要があるがな」 「通学することなく、だと? そんな話、聞いたことがない」 「当然だ。初の試みだからな」 ユーリは腕を組み直し、改めて懸命に勉学に取り組むニコを見た。その口元が、ふっと緩む。 「ニコだって、本来なら王立学校に入学すべきだ。 だが、あそこは全寮制……。 俺はもう、ニコと離れるのは耐えられない……。 そこで、俺も共に入学する前提ではじめは交渉を開始した」 「……馬鹿なのか?」 「そして、普通に断られた」 「だろうな」 「そもそも王太子妃の入学は前例がなく、警備などの課題も多く、現実的ではない——と。 それで、この形に落ち着いた」 「なるほど、無茶苦茶だな」 「……これからは紋の所有者を王宮で保護することになる。中にはニコのような子どももいるだろう。 紋を理由に、学ぶ機会を奪いたくはない」   ニコを見つめるユーリの瞳は、希望と自信に満ちていた。   「ゆくゆくは、病などで学校に通えない子どもたちにも、通学せずとも学べる機会を広げていきたい。 これは、その第一歩だ」 「……まったく、お前ってやつは……。 真面目なのか不真面目なのか、わからんな」 「もちろん、大真面目だ。ほら、ニコを見ろ」  その言葉に、テオはニコの方を見た   「えっと、こっちは……よめます」   教科書の文字を指でなぞりながら、一生懸命学ぼうとしている。 その目が、キラキラと輝いているのが、この距離からでもよくわかった。   「俺は、ニコのあの顔が見たかったんだ」 「……それを言われたら、俺は何も言えん」 「はは、そうだろう」 ユーリは得意げに胸を張った。   「ちなみに、授業によっては新米の侍女も出席させる。学友との交流になるし、侍女教育も兼ねられる。だが……」 「何か問題があるのか?」 「……ニコが同じ年頃の女子に目移りしたらと思うと、決定印を押しかねている自分がいる」 「思いきり私情を挟んできたな」 「いや、由々しき問題だ」 ——まあ、それはないだろう。 そう思ったが、何となく悔しいので何も言わずに肩を竦めるにとどめた。 そしてニコをもう一度見つめ直し、小さく微笑んだ。 数日かけて行った実力確認で、ニコの現状が見えてきた。 学力は総じて十歳程度。 奥棟での生活が始まった頃と一致する。   あらかた予想はついていたものの、ショックを受けるテオに、マルグリットが「八年間も忘れずにいられたことが、まず素晴らしいです」と添えた。 だが、神学だけは特別で、ベル司祭と問答ができるほどだった。聖書を深く読み込んだ結果だという。   また、講義を受けるようになって分かったのは、ニコがたった一時間も姿勢よく座っていられないことだった。 行儀の良し悪し問題ではなく、身体を支えておく筋力そのものが足りないのだ。 それでも、ニコの学びへの喜びは強かった。 その姿に心を打たれた教師たちは、心身の健康を第一に、奪われた学びを少しずつ取り戻す方針を立ててくれた。 その夜、テオが自室で報告書を読んでいると、いつも通りコンコンと扉が叩かれた。 返事をする間もなく、ニコが入ってくる。 「兄さん、あのね」 ニコはそう言いながら、テオのベッドに向かう。 テオも慣れたもので、資料を閉じて後に続く。   ニコはベッドに潜り込みつつ、 「今日ね、ユーリとちょこっとだけダンスをしたよ」 と、学校の様子を教えてくれた。それを聞いてやるのが、最近の日課になっていた。   「ダンスって、すぐ疲れちゃうし、むずかしい」 「まあ、焦らず少しずつな」 「うん……。あのね、秋に"建国祭"があるんだって。 でね、ユーリと、それまでに一曲おどれるようになろうって、おやくそくしたの。だから、がんばる」 「そうか。それは楽しみだな」 「うん! それからね、今日、侍女さんたちが来たんだよ。 みんな、故郷から出てきたばかりだって。 僕と、おんなじ」 ニコは嬉しそうに微笑んだ後、少しだけ恥ずかしそうにもじもじとしながら続けた。   「……でね、兄さん。 僕、みんなと、おともだちに……なれるかな」   ——侍女と王太子妃。 恐らく、普通の友人関係を結ぶのは難しい。 けれども、ニコはまだそれを理解できない。 そう思うと胸が締め付けられるが、どうしてやることもできず、テオは曖昧に頷いた。 一方で、楽しげなニコの話題はつきない。  「明日は、ベルせんせいの神学があるんだ。 たのしみだなあ」 テオは一瞬だけ、驚いたように目を大きく開いた。 ニコからそんな言葉を聞いたのは、初めてだった。 「……そうか、明日が楽しみか」 「うん、たのしみ!」   ニコは迷いなく頷く。 それだけで、テオは胸がいっぱいになった。 ——あの暗い部屋で一人きり。 テオが学園に帰る前の夜は、明日が来なければいいのにと泣いていたニコが、明日が楽しみだ、と……。 「あれ?兄さん、どうして泣いてるの? また、おなかいたいの?」 「……泣いてない。これは鼻水だ」 「でも、目から……」 テオはニコを抱きしめ、涙をごまかした。   「もう寝なさい」 「けど」 「明日が、楽しみなんだろ?」 「うん!」 ——すぐに、腕の中から柔らかな寝息が聞こえ始めた。健やかに眠る弟の髪を撫でながら、テオは、ここに来て良かったと初めて思えた。  

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