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5-2.

ニコが朝の祈りを始めてから、早くも一ヶ月ほどが過ぎた。 その評判が国民の間にも広まり、ニコの姿を見るためだけに王都を訪れる者も増え始め、城下町は以前にも増して活気に満ちていた。 そんな矢先、一つ大きな問題が起きた。   農業地帯で、作物の不調が相次いだのだ。 先に派遣した調査隊からは、疫病が広がり始めているとの報告があった。 ユーリの脳裏に、十年前のことが蘇った。 あの時もこの時期に疫病が流行り、対応が遅れて作物の半分が駄目になってしまったのだった。   ——早く対策を打たなければ……。 その時、執務室の扉を叩く音がした。 「殿下、少しお時間を……」 「ああ、テオか。入れ」 テオは礼儀正しく一礼し、入室してきた。 ——ここには俺しかいないというのに、本当に真面目なやつだな。 ユーリはそんなことを思いながら、テオを応接地帯へと促した。 テオはソファーに腰を下ろし、農務庁を通した農民たちの嘆願書を差し出した。 「王太子妃の訪問と祝福の要請、だと?」 「既知の通り、妃殿下の祈りは——」 「……普通にやれ、やりにくい」 「しかし」 「じゃあ、話は聞かん」 「……お前な」   横を向いたユーリにテオはため息をついた。 「ニコの祝福を直接受けることで、作物の不調により疲弊した農民の不安を取り除き、活力に変えたいと。 まあ、気持ちは分かる。農民たちは、なかなか王都までは来られないからな」 「不調については、既に調査隊の報告が上がっている。やはり、疫病とのことだ」 「……十年前と同じ、か」 「ああ。俺も視察の調整をしている。 だが、ニコは無理だ。 農業地帯までは馬車で数時間かかる。 しかも、現地では長時間歩くことになる。 ニコの体力が持つとは思えない」 「農民の嘆願はどうする?」 「ニコが祈りを捧げた神像と、手紙で代用しよう」 ニコ至上主義のテオなら真っ先に同意すると思った。だが、予想に反し、テオは顎に手を置いて考え込んだ。 「何か気になることでもあるのか?」 「……過去のように疫病が広がれば危険だ。今のヴァレンティア領は、食料を王都へと回す余裕はない」 「何かあったのか? いや、最初からお前の領の援助を期待しているわけではないぞ。ただ、何か問題があるのなら……」 「領内に問題が起きたわけじゃない。 ただ、以前ほどの余剰がないんだ」 「……どういうことだ?」 「正確には、普通にしか実らなくなった、かな」 「お前の領は、豊穣な土地ではなかったのか」 「決して豊穣ではない。日照時間も短いしな。 ただあの頃の3年間が、異常に豊作だっただけだ」 「なら、十年前のあの時、お前の領が豊作だったのは本当に運が良かったんだな……」 「……」  テオはしばらく考え込み、小さく息を吐いた。 「実はあの時、うちの領も被害を受けたんだ」 「だが、あの年も豊作だったはずだろう」 「ああ。……ニコが遊び場にしていた一帯はな。 ニコが行けないような遠い地帯は、ほぼ全滅だった。被害を免れた畑の収穫だけで自領を賄い、さらに王都に援助を行ったんだ」 「ニコが出入りしていた畑には、何らかの力が働いていたということか?」 「……さあな。敢えて付け加えるが、うちの収穫量は八年前から元に戻った」 「ニコが隔離された年と重なるじゃないか! どうして報告しなかったんだ」 「お前と同じだ。憶測で物は言えない。 別に異常があったわけでもない。 普通に戻っただけだ」 「だが、当時のニコには、まだ祝紋はなかったよな?」 「……ああ」 「なら、やはり偶然ではないのか」 「だが、偶然にしてはできすぎている。 確かにニコの体力は心配だが、ニコが望むなら同行させても――」 するとその時、再び扉が小さく鳴った。 その音だけで誰か分かったユーリは、すぐさま立ち上がり扉を開いてやった。 すると、予想通りニコがひょこっと顔を出した。   「おしごとなのに、ごめんね」 「いつでも大歓迎だよ。どうぞ!」 「ありがと……あっ、兄さぁん」 ニコはテオを見つけると、真っ先に寄ってくる。 当たり前のようにその横に腰を下ろすと、兄にくっついて嬉しそうに笑った。 「どうしたの?何か急ぎの用事かな?」 制服姿のニコを前に、完全に表情も緊張の糸も緩んだユーリが、砂糖菓子と紅茶をテーブルに並べながら尋ねた。ニコはそれを二つつまんでから答えた。 「クラスの子のご実家が、農家さんなんだけどね。 最近、作物の元気がなくて、すっごく困ってるんだって。それでね、何か僕もおてつだいできないかなあって思ったの。 僕、植物をげんきにするの、得意だし」 テオとユーリは、思わず顔を見合わせた。 二人の視線を不思議そうに追ったニコは、テーブルに出しっぱなしになっていた農民たちからの嘆願書にふと気がついた。 それを覗き込みながら、 「ひでんか……ほうもん……祝福」 と、指でなぞりながら読むと、ぱっと顔を明るくする。 「僕にきてってこと……?」 「いや、ニコ。これは……」 「ねえ、僕行きたい!農家さんの役に立ちたい!」   ニコは兄の腕を抱き、上目遣いでおねだりをし始める。 「ねえ、兄さん、いいでしょ? 僕、がんばるから!」 「すまん、ユーリ。俺はニコのこの顔に弱い」 「……気持ちはわかる」 ユーリは額を掌で押さえながら、ため息をついた。 「それならニコ、一つだけお約束できる?」 「うん、なあに?」 「頑張りすぎないこと。 畑のある場所までは遠いし、着いてからも外でたくさん歩いたりするからね。 疲れたら、ちゃんと言うんだよ」 「わかった!おやくそくする!」 「……よし。 なら、俺の視察の時に、一緒に連れて行こう」 「ほんと?!ユーリ、ありがと!だいすき!」 「俺も誰よりも君を愛してるよ……。 世界一可愛いニコ……」 「おーい、戻って来ーい」 「すまない、つい……」 「なら、俺もついていくぞ」 「……分かってる、お前もつれていくよ」 こうして、ニコにとって初めての城外での公務が決まったのだった。 それから三日後、ユーリをはじめとする視察団と共に、ニコは王太子妃になってから初めて王宮の外へ出た。 最初こそ、馬車の窓へ張りついて景色を楽しんでいたニコも、被害の広がる地域が近づくと、次第に表情を曇らせた。    畑の様子は、一行の予想を超えて酷かった。 苗が広範囲に倒れ、一見無事そうに見えても、葉が黒く変色しているものも多い。 病気の拡大を防ぐためか、不自然に苗が抜かれた区画もちらほらと見受けられた。 「僕、こんな畑、見たことない……」 これまで、よく実った畑しか見たことがなかったニコは、そう呆然と呟いた。 目的地に着くと、疲れた顔をした多くの農民たちが、ニコを一目見ようと集まっていた。 一行は彼らと短い挨拶を交わすと、すぐに問題の畑の視察へと移った。 「病気の子をお世話した道具は、元気な子には使わないほうがいいです」 畑を回りながら、ふとニコが言う。 その視線の先には、病気の苗にも、一見無事な苗にも、同じハサミを使っている農夫の姿があった。 やがてニコは農学士の許可を得て畑へ入り、傷んだ株の黒い葉を一枚ずつ確認し始めた。   「お酢は、ためしましたか? 水でうんと薄めて、朝か夜、涼しい時間に葉につけてあげるといいです」 同行していた農学士もまた、頷いた。 「なるほど。試す価値はありそうです。 ただ、まずは一部の株で濃度を確かめましょう。 ところで妃殿下は、どこでその方法を?」 「ギルだよ!」 「ギルさま……ですか?」 「うち……失礼、ヴァレンティア家の庭師長だ」 「ギルはね、どんな植物でも上手に育てられるんだよ。すごいんだよ!」 すると今度は、向こうの農民から「こちらもご覧になってください」と呼びかけられ、ニコは立ち上がった。 そして畑から出て駆け出して行く。 まるで昔のようだと懐かしく思いながら、テオも後に続いた。   「おや?」 農学士が、ニコが触れていた苗にふと目をやった。萎えていた葉が、黒ずみは残るものの、先ほどより上向いているように見えた。 その時、ニコの呼ぶ声が響いたので、 「……気のせいかな」 そう呟いて、立ち上がった。 ——残された苗は、小さく葉を揺らしながらそれを見送った。   視察の最後、ニコたちは水路が見下ろせる小高い丘の上に案内された。そこには、農民たちによって簡素な台が設けられていた。 ニコはユーリと共に、抱えられるほどの大きさの神像をその上にそっと置いた。 その向こうに、病んだ畑が広がっているのが見えた。   ユーリが目配せをすると、ニコはこくりと頷いた。 そして一歩引いて一礼し、ロザリオを手に取った。 皆が固唾を飲んで見守る中、ニコは祈り始めた。 「畑が、元気になりますように。 ここで働くみなさんが、安全にお仕事できますように」 すると水路の水面がざわめき、温かく柔らかい風が吹き始めた。   農民たちから感嘆の声が漏れる一方で、テオは小さな違和感を覚えたが、すぐにその答えへ辿り着いた。 ——紋が、光っていない。    テオは、思わずユーリに目をやる。 するとユーリも、ニコの手首を注視していた。     「みなさんのがんばりが、ちゃんと実りますように。神さま、どうかお守りください」 風が水路に沿って畑へ吹き抜けると、湿った土の匂いがふわりと立ち上った。 苗たちは、次々と葉を揺らして風に応えた。 ニコは祈りの言葉を終えたあとも、しばらく黙祷を捧げ、それから瞳を開いた。 やがて振り返ると、皆の歓声が響いた。   集まった農民たちの元へ戻ると、沢山の感謝の言葉がかけられた。 ニコは弾けるような笑顔を浮かべながら、ユーリとテオの元へと戻った。 帰路につく馬車に乗ると、ニコはすぐに眠ってしまった。あれだけ動き回ったのだ、無理もない。 「……紋が、光ってなかったな」 車窓を見つめながら、ユーリがぽつりと言った。 テオは、眠るニコの頭を撫でてやりながら頷く。 「ニコの祈りに合わせ、風が起きた。 「ニコの魔力は、風属性なのだろうか」 「わからない。風はきっかけに過ぎず、植物と土が応えたようにも見えた」 「お前は、土属性だったよな」 「ああ。祖母が土魔法の術者だったからな。 血を引き継いだんだろう」 「王宮魔術師をしていたんだったな。土や植物を扱う術にも長けていた……ということは、ニコも?」 「可能性はあるが、わからない。ニコは学校に行けなかったから、調べられなかったんだ」 「……祝紋がある今では、本人の魔力と切り分けて判定するのも難しいと、ベル司祭から聞いている。 まあ、あれほど強い力だからな」 これ以上は、何を言っても憶測にしかならず、どちらからともなく会話が止まってしまう。 しばらくの間、馬車の規則的な揺れと、ニコの小さな寝息だけが響いた。 やがてテオは、ニコの髪を撫でながら重い口を開いた。   「……ニコは、次男だろう」 窓の外に向けられていたユーリの視線が、テオに戻った。   「自然が好きだったから、王立学校に行ってその道の専門家にでもなってくれたらと思っていたんだ」 「……確かに、今日の作物への観察力や知識は目を見張るものがあったな。 正直、驚いたよ。皆も感心していた」 テオは、複雑な面持ちのまま頷いた。   「ニコが望むだけ、学べるようにしよう。 その才を伸ばせる環境を、用意する。 今からだって、取り戻せる。遅くはないはずだ」 「……お前なら、そう言ってくれると思ったよ。 でも、この子はもう、自由に畑を飛び回ることも、研究に一日を費やすこともできない。 今からでは、取り戻せないものもあるんだ」 ユーリは言葉に詰まった。 テオの言う通りだった。 ニコはもう、王太子妃という立場を離れ、ただの公爵家次男として人生を選び直すことはできない。   押し黙るユーリに対し、テオはニコに視線を落としたまま続けた。 「それでも、ニコみたいな子を増やさないとお前と陛下が言ってくれたからな。 だから、感謝している。……期待もしているよ」 そしてテオは顔を上げ、小さく微笑んだ。 ユーリは、深く頷いて返した。 「ああ、必ず。約束するよ」 テオは静かに頷いて、眠る弟の髪にもう一度そっと触れた。

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