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5-3.
農業地帯で発生した作物の不調。
一度目の視察後も、ユーリは王宮と農業地帯を行き来する生活を送っていた。
今回は、もう一週間も泊まり込んでいる。
疲れた体を引きずって宿舎に戻ったユーリは、真っ先にベッドへ身を投げ出した。
しばらくして、内ポケットから先ほど従者から受け取った手紙を取り出した。
可愛らしい花柄の封筒と、王宮支給の事務用封筒。もちろん先に開くのは、花柄——ニコからの手紙だ。
『ユーリへ』
その可愛らしい文字を目にしただけで、疲れがほどけていく。
今日の手紙には、教会での公務や、農民から感謝の手紙が届いたことが綴られていた。
最後には、
『ユーリとお話したいことが、たくさんあるの。
おつとめも、したい。すごく、あいたいよ。
だから、畑がはやくよくなるように、僕もいっぱいお祈りするね』
なんて書いてあったものだから、ニコが愛しくてたまらない。
ただ、ここ数日の手紙には、決まって公務の報告があることが少し気にかかった。
続いて、もう一通。テオらしい美しく几帳面な文字が並んでいた。
『先日の件だが、ニコが祈る時間は大抵朝の九時、そして夕方、十七時頃だ。
本人に確認したところ、農家の仕事始めと、その終わりに合わせているそうだ。
ちなみに祈っている間、紋とロザリオはいつも通り光っている』
その時、夕刻を告げる鐘が鳴った。
ユーリは起き上がり、畑を見渡せる窓を開いた。
それとほぼ同時に、ふわりとあの優しい風が起きた。
神像の置かれた丘から、水路に沿って流れた風が、苗の葉を揺らした。
心地よい葉音と土の香りが、あたりに広がった。
ユーリは再びテオの手紙に視線を落とした。
『ニコが、君の帰りを心待ちにしている。
"竜の花嫁さん"の続きが気になると何度も言うので、本を持ってきてやったら、ユーリに読んでもらうから嫌だと突き返された』
ユーリは小さく笑うと、執務机代わりにしているテーブルに着いた。
市で買った可愛らしい便箋に、筆を走らせる。
『おてがみ、ありがとう。
たくさん公務をしてくれて、ありがとう。
とてもたすかるよ。
がんばりすぎてはいないかな。
どうか無理はしないように。
少しでもつかれたら、休むんだよ。
ニコのお祈りのおかげで、畑はずいぶん元気になったんだ。だから明日、お城に帰るよ。
俺も、すごくニコに会いたい。
愛してるよ、ニコ』
書き終えると、花形の蝋印を押した。最後に封筒へ小さくキスをして、大切に脇へ置いた。
そして次にシンプルな便箋を抜き取ると、テオへの返事を書き始めた。
『ありがとう。
思った通り、あの風が起きる時刻が、ニコの祈りの時間とぴったり一致している。
ニコの助言と農学士の対応で、畑は持ち直している。もう昔のようにはならないだろう。
ただ、回復があまりにも速い。
恐らく、ニコの……いや、憶測でものを言うのはやめておこうか。
いずれにせよ、このことは私たちの間だけに留め、これ以上調べるのはやめよう。
国の根幹である農業政策を、ニコの祝福ありきにしてはいけないし、したくない。
話は変わるが、ニコの公務の量について、見直しをかけたい。明日の夕刻には戻る。
関係者の招集と、準備を頼む』
手紙を書き終えたユーリは、一足先に帰城する部下へ託すため、部屋を出た。
翌朝届けられた手紙を見たニコは、寝間着のまま兄の部屋へと飛び込んできた。
「兄さん!ユーリ、今日、帰ってくるって!」
「ああ、そのようだな」
自分宛ての手紙を、テオは反射的に引き出しへ隠した。ニコはご機嫌で、ユーリからの手紙を読み上げた。
「今日、おつとめできるかなあ。
でもユーリ、つかれてるかなあ」
ギュッとテオの胃が締まった。
夫妻が共に夜を過ごすのは当然だし、仲がよい証なのだから喜ぶべきだ。
だが、弟から直に聞かされるのは複雑だった。
するとその時、部屋の扉が叩かれた。
「妃殿下、こちらですか?!」
返事をする前に、侍女の焦った声が響いた。
「あっ、はーい!」
ニコは元気に返事をし、扉の方に駆け出して行った。
「ああ、良かったです。
朝のお祈りのお支度をしませんと!」
「えへへ、ごめんね」
「そんな可愛らしく謝られたら、叱れません。
さあ、急いでください!」
「うん!兄さん、またねえ!」
侍女に背を押されながら、慌ただしくニコが出て行く。テオはそれを見送りながら小さく息を吐いた。
最近のニコは、午前は学校、午後は公務と忙しい。テラスでの朝の祈りをきっかけに、視察や祈りの要望が増えていた。
今日も、午後は孤児院の慰問が予定に入っている。
テオは断りたかったが、古参の大臣たちはニコの力を政治的に活用しようとしていた。
王宮に保護された最初の紋付きであるニコが人々を助ければ、保護政策の正当性を示せるからだ。
理屈は理解できても、それを理由に弟の負担が増えることには嫌悪感があった。
だが、公爵家嫡男とはいえ、今のテオは一事務官に過ぎず、決定権はない。だからこそ、ユーリ直々の見直し指示はありがたかった。
ユーリはきっと、ニコ本人のことを考えた策を出すだろう。
ならば、その意思が通るような会議を整えること。
それが自分の役割だとテオは気持ちを締め直し、準備のために執務室へと向かうことにした。
そして、その夜。
昼間、ニコが公務に出ている間に、ユーリは無事帰城したらしい。
けれどそのまま会議が続き、結局夜まで顔を合わせられなかった。
ニコが部屋に戻ると、
『ただいま。
今夜、ニコのお部屋にむかえにいくね。
竜の花嫁さんのつづきを読もう』
というメモ書きとお土産のお菓子が机に置かれていた。
ニコは眠い目をこすりながら何度もメモを読み返し、ユーリを待った。
そのうち待ちきれなくなったのか、少しだけ扉を開いては廊下を見て、誰もいないのを確認するとまたソファーに戻ってくるようになった。
そんなニコの様子を、侍女たちは微笑ましく見守っていた。
「妃殿下、ちゃんと殿下はお迎えに来てくださいますから、ご心配いりませんよ」
ニコは曖昧に頷くと、もう一度そっと扉を開いた。
「あっ!」
ニコはそう声を上げ、そのまま勢いよく部屋から飛び出して行った。
「ユーリ!」
「ニコ!」
廊下を全力で走ってくるニコの姿に驚きつつも、ユーリは両手を広げた。
ニコはその勢いのまま、ユーリに飛びつく。
「ユーリ、おかえりなさい!」
「ただいま、ニコ。会いたかったよ!」
ユーリは難なくニコを受け止め、抱きしめる。
ニコを抱くその腕に、自然と力がこもっていく。
「僕も、すっごくユーリに会いたかったよ」
ニコもまた、同じようにぎゅっとユーリを抱きしめ返すと、照れたように「えへへ」と笑った。
二人で仲良く手を繋いで部屋へ向かう。ニコの手はぽかぽかと温かかった。
今日も公務で外へ出ていたと聞く。
疲れているのかもしれない。
ユーリはその手を握り返した。
ニコはふわりと小さなあくびをした後、ユーリを見上げて微笑む。
その笑顔に、ユーリの胸が少しだけ痛んだ。
ユーリの部屋に着くと、ニコは慣れた様子でソファーに座った。
テーブルの本を見つけると膝に乗せ、
「ユーリ! はやく、はやく!」
とせがんだ。
お菓子には目もくれなかった。
ユーリが隣へ座ると、ニコは肩に頭を載せ、身体を預けてきくる。
ユーリはそんなニコの肩を撫でながら、楽しみにしていたという「竜の花嫁さん」を読み始めた。
『竜の王は、遠くの村を助けるため、しばらく城を留守にしていました。
遠く離れていても、大好きな花嫁さんを片時も忘れることはありませんでした。
だから、花嫁さんに毎日のようにお手紙と、小さな贈り物を送っていました。
花嫁さんはとても嬉しかったけれど、やっぱり大好きな竜の王に会いたいなと思いました』
すぐにニコはウトウトし始め、何度も小さなあくびをした。
「疲れてるね。もう休むかい?」
「だいじょぶ、つづき、読むの」
ニコは首を横に振った。
ユーリは少し迷ったが、続けることにした。
髪を撫でると、ニコはますます身体を預けてきた。ユーリはその重みを愛しく感じながら、続きを読む。
『それから何日かして、ようやく竜が帰ってくることになりました。
花嫁さんは、朝から落ち着きません。
とうとう、お城の入り口で待ち始めました。少しでも早く、大好きな竜に会いたかったのです。
やがて、遠い山の向こうに、空を飛ぶ竜の姿が見えてきました。
そして城の前に竜が降り立つと、花嫁さんは駆け寄り、飛びつきました。
竜は花嫁さんを受け止め、抱き上げます。
すると花嫁さんは、竜の口に小さくキスをして"おかえりなさい、あなた"と言って微笑んだので、竜はとても喜びました』
いよいよ眠気も限界らしく、ニコはユーリの肩に頭を預けたまま、ぼんやりしていた。
ユーリは苦笑しながらニコの温かい頭を撫でた。
「残りは、次にしようね」
ニコはようやく頷いた。
ユーリが抱き上げると、素直に首へ腕を回す。
その拍子に、すぐ近くにあるユーリの口元が目に入った。ニコはぼんやりとそれを見つめながら、ベッドへと運ばれていった。
「……お休み、ニコ。愛してるよ」
ユーリはニコをベッドに下ろし、その隣に横になると、額にキスをした。
いつもはすぐにキスを返してくれるのだけれど、今日のニコはユーリの顔を見上げるばかりで動こうとしない。
もう限界なのだろうと思い、ユーリも瞳を閉じかけたその時、ニコが小さな声で言った。
「僕も、お口にキスしたい」
「……え?」
全く予想していなかった反応だった。
ユーリが思わず問い返すと、ニコは真面目な顔でもう一度言った。
「竜の花嫁さんは、お口にお帰りのキスしてた。
僕もユーリと、お口でお帰りのキス、したい」
「……そ、そっか」
ユーリはそう答えるのが精一杯だった。
もちろん、いつかはと思っていた。
だが、ニコの幼さを思えば、まだ遠い先のことだと考えていた。
それをまさか今、ニコの方から言われるとは思わず、答えに詰まった。
ニコは真っ直ぐな瞳で、ユーリにねだる。
「……だめ?」
「駄目なわけないでしょ!」
それを聞いたニコは、嬉しそうに微笑んでから、顎をあげた。近づいてくるニコの顔に、ユーリの心臓が、否応なしに高鳴った。
そして、次の瞬間。
——むにゅ。
それはほんの一瞬、触れるだけのキスだった。
ニコは唇を押さえ、不思議そうな顔をしている。
「ど、どうだった?」
ユーリが恐る恐るそう尋ねると、ニコは首をかしげながら、いつもの調子で返してきた。
「嬉しい……ううん、きもちい……かな?
もう一回、したい。今度は、ゆっくり」
——ああ、もう、この子は!
ユーリはなけなしの理性を何とか保つ。
ここから先は、自分で加減しなければ、もはや身がもたない。
「じゃあ、次は俺からしてもいい?」
「うん」
ニコはすぐにそう言って、素直にユーリを待った。
ユーリはその頭を撫でてやりながら、そっと自分の口を近づけた。唇同士が触れる寸前、
「……目を閉じて」
と囁くと、ニコはすぐにその通りにした。
今度は、二人の吐息と唇を重ね合う小さな音が静かな部屋に響いた。
ニコが、ユーリのシャツの胸元をぎゅっと掴む。
少し長く唇を重ね、ユーリが離れると名残惜しそうにニコの唇が追った。そのままもう二回、触れるだけのキスをしてやっと離れた。
ニコはユーリを見上げ、嬉しそうに微笑んだ。
頬はほんのり赤く染まり、とんでもなく可愛らしい。
「いっぱいドキドキしちゃった……」
ニコは胸元にそっと手を置き、呟くように言った。
「きもちくて、うれしくて……。
こんなきもち、初めて」
そして、ふにゃりと微笑む。
——ユーリは、もはや頷くことしかできなかった。
可愛いとか愛しいとか、そんな次元ではない。
尊い。
そんなユーリの気持ちなどつゆ知らず、ニコはその後すぐに眠りに落ちてしまった。
ユーリだけはキスの余韻で眠れず、無邪気なニコの寝顔を前に、悶々と夜を越すしかなかった。
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