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6-2.

ユーリの足音が遠ざかった瞬間、ニコがわあっと大きな声をあげて泣き出した。 まるで幼い子供のような泣き声に、テオは、ただ呆然と弟を見つめることしかできなかった。 ニコがこんな風に泣くのを見たのは、初めてだ。 「ぼ、ぼく……いいこにしてたのに……っ」 やがてニコは、嗚咽を交えながら途切れ途切れに言う。   「みんなの、役に立ちたかったのに……。 ぼく、がんばったのに……」   そしてまた、ニコは顎を上げてワーッと泣いた。 その声にはっとしたテオが、慌ててニコに寄り添おうとした。 だが、肩を撫でようと伸ばしたテオの手を、ニコは容赦なくはたき落とした。 「言いつけどおり、いい子にしてたのに。 また、閉じ込められた……!」 その悲痛な言葉に、テオの胃がぎゅっと締め付けられた。 「ニコ、それは違う」 テオは、感情を露わにするニコに戸惑いながらも、そう否定した。 「閉じ込めたわけじゃない、きちんと部屋で休めと言う意味だよ。お前は今、体調が悪いんだ」 すると、ニコは急に顔を上げた。 「そうだよ、お前のためだ。 みんな、お前に元気になって欲しくて——」 「僕の、ため……?」 ニコはそう低く言うと、テオを睨みつけた。   「父さまも母さまも、はじめはそう言った!」 テオは息を詰まらせた。何も言えなかった。 「僕がお病気だから、治すためだよって。 僕のためだよって言った!」 「ニコ……」 「……ユーリのうそつき」 ニコがまた、大きくしゃくり上げた。 その瞳から、大粒の涙があふれて止まらない。 「兄さんのうそつき」 「ニコ、だから違……」 そう言って、テオはもう一度ニコに手を伸ばした。 けれども、ニコはそれを受け取らない。 身体をよじって拒絶し、また大きな声をあげて泣き始めた。 「僕、やだ。もうみんないやだあ……!」 とうとうニコが、手足をばたつかせて暴れ始めた。 いくら身体が小さいとはいえ、本気で暴れられたら全く手がつけられない。 テオが困り果てた、その時。 「……ばあや。ばあやぁ!」 ——ユーリに置いて行かれ、兄を拒絶したニコは、最後にマーゴットを呼んだ。 テオがすぐさま隣室に控えていたマーゴットを呼ぶと、 「はいはい。ばあやがおりますよ」 マーゴットはそう声をかけながら、早足で寝台に寄った。 ニコは顔を上げて、マーゴットに向かい必死に手を伸ばした。手が届くと、身を乗り出してその胸に縋る。 「いやになってしまいましたね。大丈夫ですよ」 マーゴットはそんなニコを優しく抱きとめ、穏やかに声をかけた。 「さあさあ、ばあやが抱っこしましょうね」 するとニコは、マーゴットの服をぎゅうと掴んで、さらに大きな声で泣き始めた。 「これ以上泣かれては、お身体に障ります。 少し、落ち着かせましょうか」 医師は泣き続けるニコの脈を取り、呼吸を確かめると、テオに尋ねた。 テオが頷きかけたその瞬間、マーゴットがニコの背中を規則正しくとんとんと叩きながら、 「大丈夫です。 このまま泣かせて差し上げてください」 と、静かに止めた。 「坊ちゃまはお優しい子ですから、皆さまを気遣って、おつらいことを溜め込んでしまうんです。 だから時々、こうして出して差し上げるんです」  マーゴットの言う通り、しばらくすると、ニコの泣き声は少しずつ弱まっていった。 頃合いを見て、マーゴットが優しく語りかけた。 「坊ちゃまが、ずっと頑張っておられたこと、みんな知っておりますよ。 少しお疲れになってしまいましたね。あれだけ頑張ったんですもの、当たり前ですよ」 マーゴットの服を握るニコの指に力が込められた。 「もっと、殿下と川で遊びたかったですね。 けれども、駄目になってしまって……。 殿下に強く怒られて、おつらかったですね」 ニコの泣き声が止んだ。 小さくしゃくり上げる音が響く中、マーゴットは背中を撫で続ける。そしてしばらく待ってから、再びニコに語りかけた。 「殿下のことが、お嫌いになりましたか?」 ニコは一瞬だけ、指の力を抜いた。 しかしすぐにまたギュッと握って、 「やだ、やだあ」 と大きく首を横に振った。 「そうですね、お嫌ですよね」  マーゴットは微笑みながらそう言うと、ニコを抱きしめ直した。 「殿下のことがお好きだから……嫌われたくなかったんですよね」 ニコは、駄々っ子のように「いやだ」を繰り返していた。 マーゴットは否定することも、急かすもせず、ひとつずつニコの気持ちをほぐしていく。 「今は仲直りが嫌でもいいんですよ。 ゆっくりお眠りになって、それからよく考えましょう。そうしたら、きっとよい答えが出てきますよ」 ようやくニコが頷いたのを見て、テオは安堵した。 マーゴットは、慣れた様子でニコをベッドに寝かせてやった。横たわったニコの手を握り、今度はお腹を撫でてやりながら、小さく歌い始める。 それは、テオにも聞き覚えのある子守唄だった。 すぐにニコはうとうとし始め、マーゴットの手を一度強く握り返し、そのまま眠りについた。 マーゴットはその後もニコの眠りが深くなるまで歌い、お腹を優しく撫で続けた。 ニコはいつもテオの前では、素直で、従順で——こんな風に怒り、反抗する姿など見たことがなかった。 あの劣悪な奥棟での生活の中ですら、そうだった。 だが、先ほどのマーゴットの慣れた様子からしても、こんな風に荒れることは初めてではないのだろう。 ニコも怒るし、泣きたいほど悲しむことも、嫌がることもある。 ニコは、ちゃんと普通の子なのだ。 そんな当たり前の事実に、テオは大きく安堵していた。同時に、そんなことすら知らなかったことを悔い、兄としての己を恥じた。 それでも、ニコがこうして泣ける相手がちゃんといたこと。そして、それを取り戻してやれたことだけは、心からよかったと思った。 翌朝。 ぐっすり眠ったニコの顔色は、少しだけ良くなったように見えた。 昨日たくさん泣いて吐き出したのだから、きっと落ち着いただろう——そんな皆の期待に反し、目覚めたニコの機嫌は最悪だった。 「妃殿下、朝のお食事を——」 「……いらない」 「少しでも召し上がりませんと」 「いらないの!」 朝は着替えを拒むところから始まり、食事も取ろうとしなかい。 「いやだ」の一点張りで医師の診察もままならず、とうとう見かねたテオが口を開いた。 「ニコ、きちんと診てもらわないとよくなったか分からないだろう」 「わかるもん、良くなったもん。学校に行く」 「診察の結果をユーリに報告し、許可が出ないと、行かせることはできないんだ」 「うそつき。 許可なんて、ぜったい出してくれない。 そうやってまた閉じ込める気だ。僕、もうだまされないんだから」 見かねたマーゴットが、優しく口を挟んだ。 「坊ちゃまは、学校に行きたいのですね」 「行くの!今日は神学があるんだもん。ベルおじちゃんから、神さまのお話たくさん聞くんだもん」 「なら、ベル司祭をここに呼んでやろう。 それなら」 「みんなでお勉強するんだもん!」 「お前、わがままもいい加減に……」 「テオドールさま、いけません」 テオドールは、みぞおちを押さえながら頭を抱えた。かわりにマーゴットが前に出る。 「殿下が、なぜ許可を出してくださらないとお思いですか?」 ニコは俯いて、布団をぎゅっと掴んだ。 マーゴットは、辛抱強くニコの言葉を待った。 「……僕のこと、嫌いになったから」 やがてニコは口を開き、ポツリと返す。 今にも泣き出しそうな、震えた声だった。 「坊ちゃまは、殿下がお嫌いですか?」 「……きらい、あんな泣き虫。 背中に虫を入れただけで泣くんだもん」 「では、背中に虫をお入れになった時、殿下は坊ちゃまを嫌いになられましたか?」 「……ならなかった」 「そうですね。 だから、坊ちゃまを花嫁さまとしてお迎えになってくださったのです。 それに、今朝早くお部屋の前までいらっしゃって……ねえ、テオドールさま」 マーゴットが目配せすると、テオは内ポケットから何かを取り出した。 差し出されたそれを見たニコが、低く呟いた。 「ロザリオ……」 「いつものを使うと、魔力を使ってしまうから……だそうだ」 「特別な魔法がかかっているそうですよ」 「これを使えば、日常の祈りはしても構わないそうだ」 ニコはじっとそれを見たあと、ますます俯いた。 テオは小さく息を吐き、ニコの前にそれを置いてやった。目の前のロザリオを見つめながら、ニコは低く言った。 「……おいのりは、許可されてするものじゃないもん」 そして、震える指先でロザリオを握った。 「お部屋の前まで来たのに、会いに来てくれなかった」 「ニコ、それはユーリがお前を気遣って……」 「ちがう。もう、みんないや!」 ニコはそう叫び、ロザリオを向こうへ投げつけた。 「ニコ!」 「……坊ちゃま」 「出ていって!みんな嫌い!」 そして布団に潜ると、また「うわん」と声を上げて泣き出した。 テオとマーゴットは顔を見合わせたが、ニコの言うとおりにすることにした。 去り際に、マーゴットが床に落ちたロザリオを拾い、そっと祭壇の前に置いた。 ——誰も僕のことをわかってくれない。 みんな僕のためって言って嫌なことばかりする。 だったらもう、一人でいい。一人がいいもん! そんなことを思いながらひとしきり泣くと、だんだん気持ちが落ち着いてきた。 ニコは、布団から這い出てみる。 部屋には本当にニコ一人きり——薄暗く、しんと静まり返っていた。 そして、カーテンに閉ざされた窓を見た瞬間、ニコの背筋にヒヤリとしたものが走った。 鼓動の早まりと共に、奥棟での孤独な生活が脳裏に蘇る。ニコは目を見開いたまま、しばらく呆然としていた。自然と涙がこぼれた。 ——そうだ、神さま! やがてニコは、蘇った恐怖に耐えられなくなり、急いでベッドから足を下ろした。 まだ少しだけふらつく足に力を込めて、祭壇へと向かう。 そこで最初に目にしたのは、供えられた華やかな生花だった。 昨日の学校帰りに、ギルと摘んで供えた花だった。 その前には、先ほど投げてしまったロザリオが置かれていた。 ニコは一瞬だけ躊躇したが、それを手に取り、両手で包み込んだ。 そして小さく深呼吸をすると、目を閉じてそっと祈り始めた。 ——神さま、ぼく……やっぱり、一人はいやだ。 みんなと一緒にいたい。ユーリと……仲直りしたい。 だけど、ひどいことたくさん言っちゃった。 神さま、みんなにごめんなさいをする勇気をください。   ニコが再び目を開くと、優しく微笑む神像が最初に見えた。 ニコは唇を固く結び直し、しっかりと頷いた。 そして、その足で扉の方へと向かう。 息を詰めながら、扉に手をかけた。 ——もし、鍵をかけられていたら。 そう思うと怖くてたまらなかったが、勇気を出してその手に力を込めた。 カチャリ。 そう小さく響いた音に、隣室に控えていたテオとマーゴットが振り返った。 扉が薄く開き、その隙間から小さな足が見える。 テオはほっと息をつき、すぐに駆け寄ろうとした。 だが、マーゴットが小さく首を横に振りながら、それを制した。 扉が少しずつ開き、やがてニコが顔を出す。 ニコは二人の顔を見ると、とても驚いた顔をした。 「……いた」 そう小さく呟くと同時に、その瞳から一気に涙が溢れ出す。 「ふたりとも、いた!」 ニコが扉から出た瞬間、テオは両手を広げながら駆け寄る。マーゴットは、もう止めなかった。 「兄さぁん……っ」 その瞬間、ニコがわずかによろめいた。テオがそれを受け止め、ニコはその胸にしがみついた。   「兄さん、ごめんなさい。……ありがと」 テオは何も言えず、ただニコを強く抱きしめた。 少しの間をおいて、テオが口を開いた。 「……気が済んだのか?」 「テオドールさま」 「……すまん」  「ふふ。ばあやも、ありがと」 「もったいないお言葉です、坊ちゃま」 それからニコは、顔を上げて心に決めたように言った。   「兄さん、僕……。 ユーリにも、ごめんなさい、する」

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