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6-3.
執務室の扉が開くと同時に、ユーリが顔を上げた。
自分の足で入ってきたニコを見て、ユーリはまず安堵する。だが、絶対安静の身でここまで歩いてきたと気づくと眉を寄せ、後に続くテオを睨んだ。
「なぜ、ニコを歩かせてきたんだ」
「ユーリ、ちがうの。僕が……」
「後でいくらでも謝ってやるから、お前は黙ってニコの話を聞け」
テオにそう言い切られ、ユーリは怒りを飲み込んで二人を応接用のソファーへと促す。
ニコは腰を下ろし、すぐにユーリを真っ直ぐに見つめ直した。
「……ユーリ、ごめんなさい」
そう言って頭を下げると、ユーリが言葉を失う中、ニコは視線をそらさず続けた。
「僕……だいじょぶじゃなかった。
ユーリは何回か確認してくれたのに、ユーリとあそびたくて、だいじょぶなことにしちゃってた」
「ニコ……」
「おいのりも、たくさんするとクラクラするのはわかってた。
けど、みんなの……ううん、ユーリと兄さんの役に立ちたかったから、気にしないことにしてたんだ。
そのせいで、ユーリがあんなに怒るくらい心配かけちゃった。だから、ごめんなさい」
真っ直ぐに自分を見つめるニコの瞳に、ユーリの胸が締め付けられた。
——あんなに酷いことを言ったのに、ニコは俺を責めるどころか、謝って……。
「……違う、ニコ」
言葉が口をついて出た。
ユーリは姿勢を正し、ニコへ深く頭を下げた。
「俺の方こそ、謝らなきゃいけない。
自分への苛立ちを、まるで君が悪いかのようにぶつけてしまった。あれは八つ当たりだった。
見苦しい真似をした。……本当にすまなかった」
「そ、そんな。悪いのは、僕で……。
だめだよ、ユーリ。頭、上げて」
ニコが思わず腰を浮かせてそう言ったが、ユーリは頭を上げようとはしなかった。
「君の体調が悪いことを見抜ききれなかった自分が、許せなかった。
また君を失うことが、怖かった。
その恐怖から、君をまた閉じ込めるようなことまで言ってしまった」
肩を震わせるユーリを前に、ニコは困り果て、テオの袖を掴んで顔を見上げた。
「ユーリ、もういい。顔を……」
だが、ユーリは苦しそうな様子のまま続ける。
「俺は一度、君を失った。
八年間も、手の届かないところへ隠されていた。
それだけじゃない。
以前の婚約者も、紋が現れて教会へ連れていかれた。……今どこにいるのか、生きているのかさえ分からない」
ニコが目を見開いた横で、テオも思わず口を挟んだ。
「……クラリス嬢のことか?
彼女は急な病で亡くなったと……」
「あの頃は、貴族の子女に紋が現れたなどと、公にできる空気ではなかった。まして、王太子の婚約者だ——お前なら分かるだろう」
「……」
——その通りだ。だから、ニコは……
テオは何も言えず、押し黙った。
「大切な人が、ある日突然、目の前からいなくなってしまったら——そう思うと、怖くてたまらない。
……昨日、君が倒れた時、また同じことが起きると思った。今度こそ、君が戻ってこなくなるんじゃないかって……。だから、目の届くところに閉じ込めてでも守りたいと思った。
君を大切にしたいのに、君を一番怖がらせてしまった。本当に申し訳なかった」
「ユーリ、僕はユーリのこと、こわくないよ。
だから……」
「あんなことをした自分が、どんな顔で君に会えばいいのか分からなかった。
だから、今朝も扉を叩けなかった。
それなのに——今、すごく君を抱きしめたい。
君を愛してるんだ。どうしようもないくらいに」
ニコはテオの袖から手を離して、真っ直ぐにユーリを見ながら、はっきりとした口調で言った。
「僕も、ユーリとぎゅってしたいよ」
ニコが立ち上がろうとすると、テオが止めた。
同時に、向かいのユーリが立ち上がる。
そのままニコに寄り、跪いてぎゅっと抱きしめた。
ニコもまた、ユーリの身体に手を回して抱きしめ返す。
「ありがとう、ニコ。
もう、君の気持ちを聞かずに決めつけたり、君を怖がらせるようなことはしないよ」
「僕も、ちゃんと具合が悪いときはそう言うよ。
ユーリの嫌がることもしない。
もう、背中に虫も入れないよ」
——いや、そうじゃないぞ、ニコ。
テオが深いため息をつく横で、ユーリはようやく微笑んだ。
「……それは助かるな」
そしてユーリは、ニコの額にそっと口づけた。
ニコはくすぐったそうに、でも嬉しそうにそれを受け入れた。
テオは視線のやり場に困り、みぞおちを押さえながら横を向いた。
「……目の前でやられると胃が痛くなるな」
「どうした」
「いや、仲が宜しくて良いことだ」
「おや、妬いたのか。お前にもしてやろうか」
「何で」
二人の話を聞いていたニコは、はっとした顔をしてポケットから今朝贈られたロザリオを取り出した。
「兄さんのおなかが良くなるように、お祈りしなくちゃ。これなら平気だもんね」
そして今度は、ニコからユーリの額にキスをする。
「ありがと、ユーリ」
さらに強くみぞおちを押さえるテオを見て笑いながら、ユーリはその石に触れた。
「つけてあげるよ」
「うん」
ユーリがロザリオを受け取って、ニコの手首へ巻いてやる。ニコは、嬉しそうに微笑んだ。
「ねえ、ユーリ」
不意にニコが、右手首でキラキラ光る緑の石を見つめながら言った。
「けど、僕もユーリの役に立ちたい気持ちは、わかってほしいの。
だって、夫に寄り添うって神さまに誓ったもの」
「ありがとう、ニコ。
うまいやり方を一緒に考えよう。
俺だって、君の役に立ちたいんだ」
ユーリはニコの頬をゆっくりと撫でた。その温もりに、ニコの肩から自然と力が抜けていく。
「ニコが元気になったら、もう一度川に行こう」
「行く!今度は、つかれたらちゃんと言うね」
「うん。俺も、勝手に決めつけずに聞くよ」
ニコはようやくいつも通り明るく笑い、もう一度ユーリにくっついた。
ユーリは何も言わず、再びニコを抱きしめ返した。
それから数日間ゆっくりと休み、ニコはすっかり元気になった。
朝の祈りや通学も再開したその日、ニコは学校から戻る途中に王妃を見つけた。
「王妃さま!」
「あらまあ、ニコちゃん。ごきげんよう。
すっかり元気になったのね。よかったわ〜」
「はい!朝のお祈りを代わってくださって、ありがとうございました」
「ふふ、いいのよ。
また疲れた時は、いつでも言ってね」
「はい!」
ニコは元気に頷いた後、もじもじとしながら続けた。
「それから王妃さま、一つお願いがあるんです」
「あら、何かしら」
「あの、アップルパイの作り方を教えてください。
ユーリと、川で食べたいんです!」
「まあ!」
王妃は嬉しそうに手を合わせ、すぐに頷く。
「もちろん、喜んで。いっしょに作りましょう」
ニコは、そのまま王妃と共に厨房へと向かった。料理長に事情を話すと快く承諾してくれたので、ニコの人生初のアップルパイづくりが始まった。
ニコがやったのは、切ってもらったリンゴを並べたり、生地を重ねたりと、簡単な手伝い程度だった。
だが、それでも大切な人のためにお菓子を作ることは、ニコに大きな充実感を与えてくれた。
焼き上がったアップルパイは、少しだけ形がいびつだった。けれども、ニコにとってそれは世界一のアップルパイのように思えた。
「王妃さま、料理長さん。
ありがとうございました」
ニコは出来立てのアップルパイを籠に詰めてもらうと、王妃と料理長に向かって頭を下げた。
「いいのよ!きっとユーリも喜ぶわ」
「またいつでも作りに来てくださいね」
「はい!」
そして二人に見送られながら、ユーリとの待ち合わせ場所であるエトワの厩舎へ。
すぐにユーリと合流して、二人でエトワに乗り川へと出発した。
ニコが大切に抱えている籠を見たユーリが何かと問うと、ニコは「すっごくいいものだよ」とだけ返して、得意げに笑った。
川に着くとすぐに、二人は靴を脱いで中へと入っていく。ニコはこの前見つけた岩をひっくり返しながら沢蟹を探した。
飛び出した二匹のうち一匹を両手で捕らえて、もう一匹がユーリの方へ逃げるのを目で追いながら、声を上げる。
「ユーリ、そっちいったよ!」
「えっ、俺?」
「そっち!ユーリが押さえて!」
「ちょっ、どっち……うわっ!虫がいる!」
「ユーリ、ほんとに虫がにがてなんだね」
岩陰に隠れた虫に飛び上がって驚いたユーリを見て、ニコは大笑い。
ユーリは少しだけ照れたようにムスッとして、ニコに手で水をかけた。
「あっ、もう、ユーリ!」
「はは、隙あり!」
「もお、負けないもん!」
ひとしきり二人で遊んだあと、ニコがふうっと息を吐いた。
「ユーリ、僕、つかれちゃった」
「そうだね。休憩しようか」
「お花畑のところがいいな」
「了解。エトワで行けばすぐだよ」
少し上流にある青い花畑に到着すると、ユーリが敷物を広げてくれた。ニコはその真ん中に籠を置く。
「僕がつくったんだよ」
「ニコが?!」
ニコが頷いて、得意げに蓋を開くと、籠を覗き込んできたユーリが目を丸くした。
「王妃さまに習ったの。
ユーリと食べたかったんだ」
ユーリは一口頬張ると、すぐに表情を綻ばせた。
「こんなに美味しいアップルパイは初めて食べたよ!」
「そ、そうかな」
「そうだよ。
ニコが俺のために作ってくれたんだもの。
世界一のアップルパイだよ」
好きな人が喜んでくれることは、こんなにも嬉しい。だからこそニコは、もう一人で無理をして、ユーリを悲しませたくないと思った。
ニコもユーリと一緒にアップルパイを頬張る。
二人で食べると、より甘くて、とても美味しい。
「ニコ、頬についてる」
ふとユーリがそう言って、ニコの頬を撫でた。
その指が偶然、唇をわずかにかすめた、その瞬間。
——キス、したい。
ニコは急に、そんなことを思った。
だから迷いなく顎をあげ、瞳を閉じる。
ユーリは少しだけ驚いた顔をした後、小さく笑った。そして二人の唇が重なったその時、どこからかふわりと風が吹いた。
青い花が美しく揺れる中、互いの気持ちを確かめるように、何度も二人は口づけを交わしたのだった。
それから数日後。
「兄さん!
僕、ユーリのところへ行ってくるね。
いっしょに、お仕事するんだ!」
手紙の束を抱えて部屋を出ようとしたニコを、テオが呼び止めた。
「待て、ニコ。その前に渡したいものがある」
「なあに?」
ニコは手渡された木箱を見て、きょとんとした顔をした。
「誕生日、おめでとう。
……遅くなって、すまなかった」
「おたんじょうび!」
ニコは手紙の束を置き、箱を開けた。
中に入っていたのは、可愛らしい花の便箋と封筒、色とりどりのインクとペン。
それから、ヴァレンティア家の印と——。
「これ、僕のおなまえだ」
「ああ、そうだよ。お前の印だ」
それは、ニコが好きな花をモチーフにした私印だった。
「お前だけの印だ」
「ありがとう、兄さん!とっても嬉しい!」
ニコはぱっと顔を明るくし、兄にくっついた。
テオはそんなニコの頭を撫でてやった後、手紙の束を渡してやる。
「さあ、行っておいで」
「うん!」
そして木箱と手紙を大切に抱え部屋を出て行くニコの背中を、目を細めながら見送った。
ユーリの執務机の隣に新たに設置された机は、ニコ専用だ。ニコが席に着くと、ユーリが化粧箱を置いた。ニコは代わりにユーリに抱えていた手紙を渡した。
箱の中には、ニコが印を押すばかりになった返事の封筒が、たくさん入っていた。
ニコはそれをひとつずつ丁寧に開いて中身を確認し、先ほどテオからもらった私印を押した。
そして最後に、机の上に置いてあったガラス瓶から花びらを一枚手に取ると、便箋と共に大切に封筒へとしまう。
花びらは、ニコがギルと育てた花に祝福を与え、乾燥させたものだ。
そんなニコの様子を見ていたユーリが、声を掛けた。
「その印、ニコらしくてすごくいいね」
「うん!
お誕生日のお祝いに、兄さんがくれたんだ!」
ニコは私印をユーリに見せながら、そう得意げに笑った。
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