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8-1.
それは、静かな朝のことだった。
祭壇の花に水をやっているニコを、ユーリが後ろからふわりと抱いた。
ニコが小さく笑って振り返ると、ユーリはその小さな唇にキスを落とした。
王宮の東棟に移り住んでから、一週間ほどが経った。共に過ごす時間が増え、二人の距離はさらに縮まりつつあった。
続けて三度口づけを交わし、二人が微笑み合った、その時。
「大変だ!」
ノックもせずに、テオが部屋に飛び込んできた。
「あ、兄さぁん」
ニコはぱっと顔を明るくし、すぐにテオの元へ。
だが、テオはいつものようにニコを受け入れる余裕がないようだった。
寄ってきたニコの頭を撫でてやるのもほどほどに、ユーリを見つめながら、焦った声で言った。
「国王陛下が、お倒れになられた!」
その日、ユーリが東棟に戻れたのは、すっかり夜も更けた頃だった。
ユーリは、扉を開けるなり、ニコがまだ起きていたことにまず驚いた。
ニコはすぐに付き添っていたマーゴットから離れてユーリに駆け寄り、ぎゅっと抱きしめてきた。
——ああ、可愛い。癒される……。
ユーリは思わず目を閉じた。
ニコの温もりで、すべての疲れがほどけていく。
「ユーリ、だいじょぶ? すごくつかれてる」
「うん。ニコの顔を見たら、元気が出ちゃったよ」
「ごはん、食べた?」
「……あ」
「では、すぐにご用意致しますね」
「ばあや、ありがと!」
ユーリがマーゴットが用意してくれた軽食を食べていると、ニコがお茶を注いでくれた。
庶民にとってはありふれた光景も、二人にとっては特別だ。
——ニコには、少し難しい話かもしれない。
でも、きちんと知っておいてほしい。
だってニコは、俺の妻なのだから……。
ニコが注いだお茶を飲みながら、ユーリは心に決めると、カップを置いてニコに向き直った。
「ニコ、父上のことなのだけど」
ニコはすぐに頷き、ユーリの横に腰を下ろした。
そしてユーリの手を取り、ぎゅっと握る。
「父上の状態は、とても悪い。
実は、ずっと前から病気があってね。
特に最近は調子が悪かったんだ」
ニコには思い当たる節があった。
初めてのお茶会をはじめ、国王はいつもほとんど料理を口にしていなかった。
今思えば、顔色が悪いことも多かった。
「建国記念や、あの事件の心労が重なって、無理をしていたのかもしれない。
……このまま意識が戻らないかもしれないと医者には言われた」
「そんな……」
「仮に目が覚めても、もう国王としてお仕事ができるかも分からなくてね。
次の国王を決めようって話が出ているんだ」
「次って……。
王さま、元気になるかもしれないのに。
そんなことより、みんなで王さまが元気になるように応援しようよ。僕もお祈りするよ!」
ユーリは一瞬だけ眉を上げ、それから目元をわずかに緩ませた。
「……ありがとう、ニコ。
でも、万が一には備えないといけない。
王宮の都合で、国民に迷惑はかけられないからね」
「そっか……。じゃあ、僕、いっぱいお祈りするね。
王さまがよくなりますようにって」
ニコはそう言うと、ユーリをまっすぐ見つめた。
「王さま、よくなるよ、きっと。大丈夫」
ユーリが、俯いた。
「……それが、一番だね」
「あれっ、また泣き虫ユーリだ」
「……」
黙り込むユーリの肩へ、ニコはそっと腕を回した。
そのまま自分の胸元へ引き寄せ、ぎゅっと包み込む。
「大丈夫、いっぱい泣いてもいいよ。
僕がこうしててあげるからね。誰にも見えないよ」
そう穏やかに言って、ユーリの背中を撫でる。
ユーリは驚いたように瞬いたが、やがて力を抜き、ニコの胸元へ額を預け、「ありがとう」と小さく呟いて瞳を閉じた。
それから三日が経っても、国王の意識は戻らなかった。
そこで、次代の王として王太子ユーリの信任を得るため、アルヴェリア王国の重臣たちが一堂に会していた。
「続いて、民の信任を問うための手続きについてだが」
閣議を主宰するユーリの様子を窺いながら、一部の重臣たちが囁き合った。
「……本当にやるのか?
どうせ次代は王太子殿下で決まりだろう」
「今さら何を言う。
このために戸籍も地方の登録制度も整え直したのだ。殿下肝煎りの政策だぞ」
するとユーリが、声がした方に顔を向けた。
重臣たちは肩をすくめると、その鋭い視線から逃れるように目を逸らした。
ユーリは意に介する様子もなく、淡々と続ける。
「では、先日陛下の承認を得たとおり、此度の信任には貴族だけでなく、民の意思も加える。
皆、準備を進めてくれ」
その時、会議室の扉が大きな音を立てて開いた。
「失礼いたします!公国教会より、次期国王候補の推薦状が届きました!」
途端、会議室が一気にざわめいた。
「こちらへ。開け」
ユーリがそう命ずると、宰相が伝令使より封書を受け取り、厳密に確認した。
「……確かに受け取りました」
そしてそう言い、一度ユーリの前に封書を掲げた。
ユーリが頷くと、封蝋を開き中身を取り出して視線を走らせた。
その瞬間、わずかにその指が震えた。
「……申し上げます。公国教会が推薦する次期国王候補は――ラウル殿下です」
「馬鹿な!何かの間違いだ!」
誰よりも早く立ち上がり、そう反論したのは誰でもない、ラウルだった。
「兄上、私は……!」
「分かっている。
お前は裏で申し合わせるほど器用ではない」
ユーリはすぐにラウルの方を向き、はっきりとそう返した。机に手をつくラウルの指が、震えていた。
「まさか、ラウル殿下だと?」
「しかし、公国教会から正式な推薦があった以上……」
重臣たちが、口々に動揺をあらわにする。
「信任を得るのは私か……ラウルか」
ユーリは、ざわつく会議室内をぐるりと見渡した。
「いいじゃないか。面白くなってきたな」
そしてそう言い放つと胸を張り、不敵に微笑んだ。
——なぜ、私が。
閣議が終わり、皆が退室した後も、ラウルはその場に立ち尽くしていた。
その視線の先には、確かにラウルの名が記された、教会からの推薦状が置かれていた。
公国教会からの推薦が公になったことで、ラウルの執務室には、様々な知らせが届くようになった。
これまで内政については、ほとんどすべてを兄に任せきりだったラウルにとっては、初めて直接触れる国民の訴えだった。
驚いたのは、王太子に対する不満の多さだった。
ラウルはこれまで、兄の国民人気は絶対的なものだと思っていた。
なぜならば、兄が通した改革的な新法は、数知れず。常に王道を行く兄に反対を唱える者など、この国には一人もいない、そう本心から思っていたのだ。
しかし蓋を開けてみれば、兄の改革によって仕事を失った者や、新制度から取りこぼされたと訴える者が数多くいた。
その多くが、苦境を訴えても聞き入れられなかったと主張している。
一見、敗者の誇張にも思えるそれらだが、ラウルは妙に腑に落ちてしまった。
——確かに兄上は、人の話を聞かない。
常に自分が一番正しいと思っているからな……。
ラウルは他にも、兄が推し進めた改革への不安の声が多々あることも知った。
古い信仰が失われることへの恐れ。
公国教会との関係悪化への不安。
男妃や巨大な祝福への警戒。
当然、そこには誤解や利己心が混じっている可能性はある。
だが、その不安に思う気持ちは本物だ。
そして兄が、その不安を和らげる丁寧な説明を国民たちにしてきたかと言うと、ラウルにはそうとは思えなかった。
さらに、そんな書状の山の中に、公国教会からの一通があった。差出人は、あのオーバンだった。
『我々からの推薦に、さぞ驚かれたことでしょう。
次期国王候補として立たれるか否かをお決めになる前に、まずは我々が殿下を推薦した理由を知っていただきたく存じます。そのためにも、教会がこれまで担ってきた務めを、殿下ご自身の目でご覧いただけませんでしょうか——』
ラウルは少し迷ったが、その誘いに応じることにした。
それから数日後。
ラウルは、隣国である公国を訪れていた。
真っ先に案内された施設では、何人もの魔術師が古くなった結界の維持や修復を行なっていた。
この場から、中央に据えられた巨大な神像の宝珠を通し、公国全体の結界に働きかけることができるのだという。
どこかで聞いた話だとラウルが思いあぐねていると、オーバンが魔術師の一人を呼び寄せた。
「ラウルさま、こちらをご覧ください」
オーバンはそう言うと、魔術師が被っていた大きなフードを下げる。
その者の額に浮かび上がった光を見た瞬間、ラウルは息をのんだ。
——紋持ちだと?!
ラウルの脳裏に、ニコの顔が浮かぶ。
あれもまた、朝の祈りを広場の神像に通し、王都中に祝福を届けている。
規模の差はあれど、まったく同じではないか。
ラウルのその表情からすべてを察したオーバンが、にやりと笑った。
「彼らはすべて、われわれが保護しました。教会では、彼らに正しい力の使い方を学ばせ、尊い神の御力を、このように正しく皆に還元しております」
魔術師はラウルをまっすぐ見て、微笑んだ。
「私たちは、この仕事に誇りを持っています。
皆さんのお役に立てることが、何よりも嬉しいのです。このような機会を与えてくださった教会の方々に、深く感謝しております」
彼らの力は、他にも災害の予兆感知や、教会間の連絡にも使われていると、オーバンは誇らしげに続けた。
そして、ラウルが即位すれば、これまで通りアルヴェリアにもこの加護を提供すると明言した。
——行方不明になったのではなく、こうして人知れず国を守っていたのか。
公国教会は、古い権威などではない。
現実に民を守っている。
しかも、その力を大きくひけらかすこともせずに神の教えのもと、ただひたむきに——。
兄は、この実態を知らないまま、教会とのつながりを切ろうとしているのではないか。
果たしてそれは、正しい道なのだろうか。
教会の力なくして、アルヴェリアの民を守ることができるのだろうか。
「ニコラス殿下は、類まれなるお力のある方です。
それは紋の力だけではなく、その志や、お人柄も含めてでございます」
深く考え込むラウルに、オーバンが続けた。
「ユリウス殿下がご執着なさる気持ちも、理解できます。
ですが、保護の名目で王宮に閉じ込められているニコラス殿下は、どうお考えなのでしょうか。
ご自身の身の置き方を選ぶ機会を与えられたのでしょうか。
我々は、ニコラス殿下にも、同じように力を正しく学び、同じ力を持つ者たちと、共に生きる道があったのではないかと考えているのです」
ラウルは、何も反論することができなかった。
帰路についたラウルは、馬車に揺られながら、これまでのことについて思いを馳せていた。
——私はあまりにも無知で、無責任だった。
子供の頃から、兄は絶対的な光だった。
そして自分は、その影で兄を支える者。
そう思って生きてきた。
時に感じた兄の強引さも、改革には必要だと思って許容してきた——だが。
だが、兄の改革によって苦しんでいると訴える民が、現実にいる。
兄が己の正しさを信じるあまり、聞き逃している声がある。見落としているものがある。
たとえ少数であったとしても、その声を切り捨てる王家であってはならない。
『すべての国民が幸福に暮らせる国に』
それがかつて、公国からの独立を目指した始祖の思想ではなかったか。
果たして今、それが守られているのか。
これからも、守っていけるのか。
——恐らく、この戦いに勝ち目はない。
兄と比べ、自分は実績も人脈もない。
それでも、自分が立つことで救われる人がいるかもしれない。
弱者の話を聞こうとせず、その声を取りこぼしている兄に、一石を投じることができるかもしれない。
——だから。
だから私は、次期国王候補として兄と並び立つ。
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