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9-4.

「ユーリ、だいじょぶかなあ……」 テオの膝の上で、ニコがぽつりと呟いた。  「大丈夫だ。魔術師たちが交代で付き添っている。 それに、ユーリの魔力の放出量も、徐々に落ち着いてきていると先ほど報告があったよ」 テオが湯で温めたタオルを固く絞ると、ニコの首の付け根にそれを当てて優しく拭いてやった。 ニコはぴくっと肩を竦め、くすぐったさから小さく笑った。 次に、テオは新しい寝間着を取り出した。 ニコは、両手を開きながら真顔で言う。 「ねえ、兄さん。ユーリの体も拭いてあげて」 「えっ?」 「だって、ユーリも汗かいちゃったと思うから」   テオは、ニコを着替えさせてやりながら苦笑した。   「そ、それは無理かなあ……いろんな意味で……」 「えー……」 そのまま唇を尖らせるニコの寝間着のボタンを閉め終えると、ニコが小さな欠伸をした。 「今日はもう寝なさい」 「ん……」   そう言うと、ニコが両手を広げたまま顔を上げたので、テオは小さなため息とともに抱き上げた。  するとニコは、すぐにぴたりと体をくっつけてくる。 ——まあ、今夜は仕方ないな。   気丈に振る舞ってはいるが、きっと不安でたまらないのだろう。 今夜だけは許してやろうと心に決めて、テオは何も言わずにニコをベッドまで運んでやった。 離れる間際、ニコはついとテオの上着の裾を引いた。何も言わずにテオがベッドに入ると、ニコはすぐにその身体を寄せてきた。 テオは静かにそのお腹を撫でてやると、ニコがふわっと息を吐いた。 そして、しばらくそうした後、横向きになって兄にぎゅっと抱きつく。 テオは自然な素振りで撫でる手をその背中に回し、ゆっくり撫でてやった。 ニコは最近、ユーリと寝ることが増えた。 こうしてやるのは久しぶりだなとテオは思いながら、腕の中に伝わるニコの温もりを感じていた。 そのうち、ニコは小さなあくびを何回か繰り返すようになった。目も半分閉じかけている。 ——良かった、ちゃんと寝てくれそうだ。 テオがそう安堵した時、ふとニコが顔を上げた。   「兄さぁん……」 「どうした?」 「ん……」 ニコは目を何度かこすった後、小さな声で言った。 「おやすみのちゅー、してほしい……」 ニコの背中を撫でていたテオの手が、一瞬止まった。「何を言ってるんだ」と返そうと視線を落とすと、ニコの瞳がわずかに揺れているのが見えた。 ——ああ、不安なんだな。 その顔を見て、テオはすぐにそう悟った。 そして同時に、ニコがまだ奥棟に隔離されて間もない頃を思い出した。   それまで母が眠る前に欠かさずしてくれていた「おやすみ」のキスを、テオにねだるようになった。 ——そういえば、いつの間にか言わなくなったな。 テオはニコの頬をゆっくりと撫でながら、揺れるその緑色の瞳を見つめた。 それから、何も言わずにニコの前髪を少し上げて額を出してやると、そっと口づけた。   「……えへへ」 ニコはふにゃりと笑うと、テオにくっつき直した。それから大きなあくびのあと、半分閉じかけた瞳のまま呟いた。 「ユーリね、おやすみのちゅーしないと、眠れないんだって。今日はできなかったから……心配」 「……すぐにまた、できるようになるよ」 「そうだよね……。 僕もはやくユーリがよくなる方法、かんがえる」 ——こんなことまで、言うようになったのか。 その言葉に、テオは正直驚いた。 ニコはどちらかといえば受動的な子だった。 結婚だってそうだ。 本人の意思も確認したし、ニコも了承した。 けれど、最初からニコが主体的に望んで選んだ結婚ではなかった。 けれども、ニコ自身の中に、ユーリを求める気持ちが芽生えているのだとしたら——。 これまでテオがずっと抱き続けてきた疑問を、今なら聞いてもいいかもしれない。 「ニコ、お前……ユーリのことが、好きか?」 「うん!」 その問いにニコはあっさりそう答え、無邪気に笑う。テオは小さく息を吐いた。 「……そうか」    やがて、ニコから規則正しい寝息が聞こえ始めた。 テオはニコの背を優しく撫でてやりながら、もう一度だけ、その額に柔らかな口づけを落とした。 一方、自室に戻ったラウルは、改めて公国教会を訪れた際の行動を整理し直していた。 「やはり、兄上が一人になった時間はほとんどないな……」 ニコの証言が正しいとすると、やはりユーリへの呪いの付与は公国で行われたと考えるのが自然だ。 だが、単独行動の時間がないとなると、自分が共にいた間に密かに行われたと考えるしかない。 しかし、いくら思い返しても、誰かに何かをされたということはなかったように思う。 「……そういえば」 ラウルはそう呟くと、机の端に置いた宝珠に目をやった。教会との協定締結に用いられ、持ち帰ったものだ。 あれを触った瞬間、まるで稲妻のような痛みが走った。あの時は、そういうものかと思ったが、冷静に考えると、使用のたびにあんな痛みを伴うのは、やはりおかしいのでは……。 その時、急に宝珠が鈍く光り始めた。 ラウルは眉を上げた後、それにそっと触れる。 すると、宝珠から聞き慣れた声が響き始めた。 『……ごきげんよう、ラウル殿下』 「オーバン!」   ラウルが思わず椅子から腰を浮かせてその名を呼ぶと、ふっと鼻で笑うような息づかいが聞こえた。   『お元気そうで何よりです。しかし……ユリウス殿下のご加減は、いかがですかな』 「……兄上だと?」 『お元気にお過ごしなら宜しいのですが……』 「……お前、兄上に何かしたのか?」 『おや、なぜそう思いますか』 宝珠ごしに、くつくつと笑う音が聞こえた。 ラウルの眉間に、深い皺が刻まれる。 「……兄上に呪いがかけられた」 『呪い……、ですか。それは、どのような?』 「兄上の魔力と、妃殿下の紋の力を食らい、暴れ回っている」 『……なるほど。もうそこまで……』 「……お前、何か知っているな?」 『知っているも何も。ラウル殿下も、我々のお仲間ではありませんか』 「……意味がわからない。なぜ私が、お前たちの……」 『何をおっしゃいますか。 術者は、あなた様ではありませんか』 「私は、誓って兄上に呪いなどかけたりはしない!」 『呪いではありませんよ。聖痕です』 「……なんだと?」 『我々から、ユリウス殿下への王位継承の贈り物です。ユリウス殿下は、聖痕へのご理解が深いようですから』 「貴様……!」 ラウルは思わず、力任せに机を叩いた。 その脳裏に、先ほどテオが話していた人工的に聖痕を付与された者の末路の話が蘇る。 そんなはずはないと否定したくとも、人工聖痕だとするならば、兄夫婦に起きた現象の説明がついてしまう。 ——どうしたらいい。 何とかして術を解かせなければ……。 しかし、そんなことできるのか?   「お前、私が術者だと言ったな?」 『ええ、申し上げました』 宝珠の向こうの声は、腹が立つほど冷静だった。 『術に必要なものは、ユリウス殿下の血液。 そして、術者となる者の魔力です』 ラウルは、それに思い当たるものがあった。 兄が協定書に押した血判が、王家紋へとかわり宝珠に吸い込まれた。そしてその後、自分がその宝珠に魔力を送り込んだ。 「……だが、私はそんな術など知らない。使えない」 『術式を組んだのが誰であろうと、そこへ注がれた魔力の持ち主が術者となります』   ラウルは椅子に腰を下ろし直し、頭を抱える。   「あれは……協定の手続きではなかったのか」 『ええ、それも兼ねておりましたが』 「あの時点でもう、兄上には聖痕が……?」 『いいえ、正確には違います。 あの場では術式の準備が整ったのみ。 実際に聖痕が刻まれたのはその後……ご兄弟で宝珠に力を流したでしょう。 仲睦まじく、非常に宜しいですね』 「……あの時か」 『あの夜、宝珠から反応が返ってきた時には、私も少々驚きましたよ。 まさか、あれほど早くお試しになるとは』   客間で、兄と宝珠の使い方を試したあの時だ。 冷静に考えれば、宝珠の詳しい使い方の説明はなされなかった。 だから、公国にいる間に試そうと兄が考えたのか——それすらもオーバンの手のひらの上で転がされていたということなのか?   『ユリウス殿下は、好奇心のお強い方ですからな。それはあの方の長所でもあり……時には短所にもなる』 「最初から、兄上が触ると分かっていて……」 『王家の認証なくして、あの宝珠は完成しませんから』 ラウルは深く頭を抱えながら、低く問う。 「……なぜ、そんなことをした」 『申し上げたでしょう。 我々の推薦はラウル殿下だと。 推薦なき者に、我々は支援をいたしません』 「私は王位を望んでいないし、お前たちにそんなことは頼んでいない」 『あなたのためではありません。 私たちに、ひいては公国とアルヴェリアの未来のために必要なのですよ』 「……愚かな……」 ラウルはそう呟き目を閉じると、しばし黙り込んだ。オーバンもまた、黙してその沈黙を待つ。 やがてラウルが口を開いた。 「……聖痕の解除はできるのか」 『可能です』 「今すぐ解除しろ」 『できません』 「お前、今可能だと言ったばかりだろう!」 『ええ。私にはできません。 解除できるのは、術者であるラウル殿下だけです』 「……その方法は」 『そう簡単に教えるわけには参りませんな』 「……」 ラウルはゆっくりと息を吐いた。 そして頭を上げ、改めて宝珠へ向き直るとまっすぐに言った。 「私は、何をすればいい。 ……何をすれば、兄上を救える」

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