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11-1.
「まあ、あれだけ力を使いましたからね」
ユーリ救出の翌朝。
ニコの右手首を見ながら、魔法医がのんきな声でそう言った。
「お身体は、特に問題ありませんよ。
まずは、ゆっくりお休みください」
「うん……」
ニコは浮かない顔で、じっとそこを見つめた。
祝紋が、全く光らなくなってしまったことに気が付いたのは、昨夜のことだった。
これまで、どんなことがあっても淡く光りながら右手首に浮かび上がっていた祝紋だったが、今は見えない。試しにニコが祈りをささげてみても、反応しなかった。
「前に祝福の力を使いすぎた時も、薄くなったろう。あれと同じじゃないか」
「きっとゆっくり休めば戻るよ。それに、紋が見えなくたって、ニコは最高に可愛いよ。愛してるよ」
「そういう問題か?」
「逆に他に何か問題があるのか?」
「……まったく、お前ってやつは」
「違うのか?」
「いや、完全に同意だが!」
いつも通りの言い合いを始めた兄と夫を横目に、ニコは小さくため息をついた。
それから三日が経った。
祝紋も、その力もまだ戻らなかった。
一人ベッドの中で右手首をさすりながら、ニコはもう何度目かわからない深いため息をついた。
——こんなもの、なければよかったのに。
見るたびにずっとそう思っていた紋が戻ることを、こんなにも願う日が来るなんて、思いもしなかった。
そして、こんなにも悩んでいるのにテオもユーリも全然気にしていないのが、ニコにとっては辛かった。
何度か不安を口にしても「きっと戻るよ」「心配いらないよ」としか言ってくれない。
元々、いきなり現れた紋だった。
いきなり消えて、もう戻らない可能性だってある。
——じゃあ、もし本当に戻らなかったら、僕は……。
その時、扉がゆっくりと開く音がした。
その足音でユーリだとすぐにわかったニコはゆっくり身体を起こす。
呪いを解いたあの日以来、ユーリはとても忙しそうだ。
ニコが朝起きた時にはもうベッドにはおらず、こうやって部屋に戻ってくるのもニコが眠った後。
「……起こしちゃったかな。ごめんね」
「ううん……」
でも、今日は少しだけ早い。
もしかしたら今夜は少しでも二人で夜を過ごして、一緒に眠れるかもしれないと淡い期待を抱いた瞬間、姿を現したユーリは礼服のままだった。
——ああ、今日も駄目なんだ。
ニコは小さな絶望感と共に俯いて、ぎゅっと毛布ごと拳を握った。
ユーリはベッドの端に腰を下ろすと、優しくニコの頬を撫でた。
それから、髪の毛、額と順に柔らかなキスを落としていく。最後に唇にそっと口付けて、ユーリはふわりと微笑んだ。
「愛してるよ、ニコ」
——もう寝なさいってことだ。
ニコはその笑顔を見てとても寂しくなったが、その気持ちを飲み込んだ。
——僕なんかが、わがまましちゃダメ…。
祝福の力が使えないんだから、せめていい子にしてないと…。
ニコは頷くと、ベッドに横になった。
「……おやすみなさい、ユーリ」
「おやすみ、ニコ」
ユーリは毛布越しにお腹をゆっくり撫でながら、ニコが目を閉じてからもしばらく離れようとはしなかった。
ユーリが部屋から出て行き、その足音も聞こえなくなった頃、ニコは瞳を開いた。
しんと静まりかえった暗い部屋が急に恐ろしくなって、布団の中で小さく丸くなった。
それでも心がざわついて落ち着かず、広いベッドの上でコロコロと転がってみる。
「……兄さぁん……」
とうとう我慢できなくなって、ニコは起き上がった。そして、ベッドから飛び降りると、裸足のまま駆けて行った。
夜更けに突然扉を叩いてきた弟を、テオは何も聞かず部屋に招き入れた。
その表情がひどく曇っているので、ソファーに座らせ、ほんの少しだけ甘い紅茶を淹れてやった。
半分ほど口にするとようやく落ち着いたのか、表情を緩めてふうと息をつき、口を開いた。
「ねえ、兄さん……」
「ん? どうした」
テオはニコの横に座り直し、今度は軽めの茶菓子を少しだけ皿にのせる。
一つつまんで渡してやると、ニコは兄に寄りかかりながらそれを口に運んだ。
するとなんだか気持ちがゆるんできて、不安が口をついて出てきた。
「ユーリね、最近……お仕事ばっかなんだ……」
「そりゃ半月休んでたからな。しかも国王が不在の中だ。取り返すのに必死なんだろう」
「おつとめもなくて……」
「兄さんは……その、おつとめの話はよくわからんが……」
「紋がなくなっちゃったからかな」
「関係ないだろ、それは」
「だからユーリ、僕のこといらなくなったのかな……」
「聞いてるか?」
テオは小さくため息をついた。
「……お前、何をそんなに気にしてるんだ。
ユーリは今、ものすごく忙しい。
さっきも言った通り、休んだ分を取り返さなきゃならないからな。それに、ラウル殿下のこともある」
「ラウルさま? ラウルさま、どうかしたの?」
その言葉に、ニコが顔を上げた。
テオは、途端にバツが悪そうに頭をかいた。
「あ、いや……すまん、なんでもない。忘れてくれ」
ニコは再び俯いた。
テオは取り繕うように続けた。
「ともかく、紋の有無は関係ない。
お前の盛大な勘違いだ。
ユーリは、相変わらずお前のことしか考えてない。先程の会議中も、ニコが寝る時間だからさっさと終わらせろと言って、大臣たちをドン引きさせていたレベルだ」
「けど……」
「そんな多忙な中でも、ちゃんとお前にお休みのキスをしに来たんだろう。その気持ちは、分かってやらなきゃいけないよ。妻なら、なおさらだ」
「……」
ニコは俯いたまま、ぎゅっと唇を噛んだ。
——妻なら。
その言葉に、ニコの心がちくりと痛んだ。
同時に、ソフィアと婚約を解消したラウルが言ったことを思い出した。
『祝福の力がないソフィアは、今の国民が求める王妃になれない』
心の奥底に湧いた疑問が、そのまま口から出た。
「本当に紋がなくなっちゃったら……僕は、ここにいてもいいのかな。ユーリの花嫁さんでいて、いいのかな」
テオはわずかに眉を上げた。
——ああ、そうか。
こいつは紋がないと、王宮にいる資格そのものがなくなると思ってるのか。だが……そうだな。
ニコがそう考えてしまうのも、当然だ。
すぐにテオは、ニコの思考に合点がいった。
元々ニコは、紋持ちを保護するという御触れに基づいて王宮に連れてこられたのだ。
そして、この国で最も安全な立ち位置だという理由で、王太子であるユーリの妻となった。
もちろん、婚姻においては本人の意思確認も行われた。過去に取り交わした婚約の話もあったが、それはユーリから後出しで示されたもので、後付けの理由に過ぎない——少なくとも、ニコにとっては。
一方で、ニコは先ほどからずっと紋がなくなった自分が王宮にいる資格があるのかを気にしている。
恐らく、紋がなくなったからといってニコを追い出そうとする人間は、この王宮にはいないだろう。
これまで補佐官として、誰よりもニコを見守っていたテオには、分かる。
では、逆にニコはどう思っているのだろうか。
『仮に、紋がなくなったとして、お前は王宮にいたいのか? ユーリの妻で、あり続けたいのか?』
テオは喉元まで出たその言葉を、ぐっと飲み込んだ。それを今、ニコに問うてはいけないと思った。
これは、ニコが『資格』ばかりを気にしているせいで気付けていない悩みの本質だ。
ニコ自身がちゃんと考え、気付き、決めなければいけない問題だ。
「……兄さん」
ニコは紅茶の最後の一口を飲み終え、押し黙るテオに静かに言った。
「今日はここで寝ても、いい?」
「……もちろん」
「ありがと」
少しのぎこちなさを残しながら、兄弟は共にベッドに入った。ニコはすぐにテオにくっついて、その体をぎゅっと抱きしめて眠りについた。
テオは、ニコの目の端にわずかに浮かんだ涙を拭ってから、そっと右手首に触れた。
——どうしてニコなんだ。
こんなもの、なければ良いのに。
そう憎み、願い続けた紋は、もうそこにはなかった。
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