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11-2.
さらに、数日が経った。
ニコの紋は、戻っていない。
その一方で、テオの周りでは動きがあった。
ニコの紋の隠蔽と、監禁に対する処分が決まったと法務院から知らせが届いたのだ。
法務院の判断としては、ニコを「紋持ち」として認識しながら法に反して長年国へ届け出なかったことは公爵家当主としての責任を著しく欠くものであったとし、現公爵——テオの父親に爵位を持たせ続けることはできないという厳しいものだった。
一方で、長男であるテオについては、当時は王立学校の生徒として領から離れて暮らしており、隔離を止める権限もなかった。
その状況でもニコを支え、最終的には自ら法務院へ告発することで事態の解決に貢献した。
よって公爵家自体の爵位剥奪まではせず、テオへの代替わりを爵位存続の条件とすると結ばれていた。
テオは書状を丁寧に畳みながら、息を吐いた。
ヴァレンティア公爵家として、この条件を飲まない選択肢はない。
ということは、近くテオは領に戻らなければならない。妃殿下の補佐官は降りざるを得ない。
——ニコを王宮に一人、残していくのか。
その時ふと、テオの脳裏に先日のニコが蘇った。
紋が消えたのに、王宮に居続けてよいのかと思い悩むニコの姿だ。
そしてテオは、気がついた。
これまでのニコは、この王宮においておくしかなかった。両親が仕切る生家は、ニコにとって安全な場所ではなかったからだ。
だが、もし自分が跡を継げば、すべての決定権を持つことができる。ニコを守ってやれる。
「……」
テオは書状を封筒に戻して、鍵付きの引き出しにしまいこんだ。丁度その時、扉を叩く音が響く。
返事をする前に、扉が開きニコが顔を出した。
「兄さん……」
紋がなくなってから、ニコはまるでここに来てすぐの頃のように、いつもどこか不安げだ。
こうやって兄の部屋を訪ねることも増えた。
だからこそ、テオは補佐官を降りてニコをここにおいていくことを危惧していた。
「ニコ、ちょうどよかった。入っておいで」
「う、うん……」
「そこに座りなさい。話がある」
そんな風に改めて兄が言うということは、きっと何かあるのだ。
すぐにそう察したニコは、緊張した面持ちでソファーに腰を下ろした。
テオもまた横に座ると、すぐに口を開いた。
「俺がヴァレンティア家の当主になることになった。近く、領に帰る」
「えっ……。兄さんと、いられなくなっちゃうの?」
「お前がここに残るなら、そうなるな」
テオを見上げるニコの顔がみるみるうちに歪み、その大きな瞳には、じわりと涙が滲んだ。
対するテオは、さっぱりとした口調で続ける。
「ニコ。お前が望むなら、一緒に帰ることもできる。もし領に帰るというなら、ユーリには俺から話す。……大丈夫、うまくやるよ」
「でも……父さまと母さまは、僕なんかと……」
「両親には、通例通り別邸に移り住んでもらう。本邸は、完全に俺の管理になる。
マーゴットとギルも一緒に帰れるし、他にも戻って欲しい使用人がいれば呼び戻すこともできる」
その言葉に、ニコは兄が本気なのだと悟った。
もう自分が領に戻ることはできないと思っていたニコは、突然提示された選択肢に戸惑いを隠せない。
テオは何も言えずに俯いてしまった弟の頭を優しく撫でた。そして、諭すように言い聞かせる。
「今すぐ決めろという話ではない。
まだ日はあるし、別に俺が当主になってから決めたって構わない。だから、よく考えなさい」
ニコは、膝に置いた拳を握りしめながら、震える声でテオに尋ねた。
「……兄さんは、どっちがいいと思う?」
「俺は、ニコが選んで決めたなら、どっちでもかまわないよ」
「……僕が、決める」
ニコはゆっくりとそう反芻し、また黙り込んでしまう。
テオはそんな弟を見つめながらわずかに口元を緩めると、明るく話を切り替えた。
「よし。話はおしまい。おやつでも食べるか?」
ニコは少しの間を置いて頷くと、兄の袖をちょいと引き、小さな声でおねだりをする。
「……兄さんのおひざで食べる……」
「……仕方ないな、おいで」
ニコはすぐに兄の膝に上がり、胸に頬を寄せ甘えた。
テオは「やれやれ」と内心思いながらも、愛しくてやまない弟が少しでも元気になるようにと取り寄せたお菓子を、そっと口に運んでやった。
そして、翌日。
ニコの希望を踏まえて、祈りや慰問、学校はまだお休みだが、手紙の返事など簡単な仕事から少しずつ復帰していくことになった。
ニコは、ユーリの横でどこか浮かない顔のまま、自分宛の手紙と担当の事務官が書いた返事を確認して私印を押すといういつもの作業を繰り返していた。
なお、ニコがどうしてもとねだった結果、テオは少し向こうの応接用テーブルで仕事をしている。
そんな中、ニコはある一通の手紙を手にすると、さらに表情を曇らせた。
それは、ハルド集落からの手紙だった。
『土地が痩せ、作物がなかなか実らない。どうかこの地でも、神の加護が得られるよう祈ってほしい』
そんな手紙の内容に対し、事務官の返事は『王太子妃殿下が、必ずハルド集落のために祈りを捧げます』というものだった。
——紋がない僕が祈ったって……。
「ん? どうしたの、ニコ」
ニコの手が止まったことに気づいたユーリがそう声をかける。その声に、テオも顔を上げた。
ニコは手紙をそっとユーリに見せると、小さく答えた。
「これ……」
「ああ、ハルドか。復帰したら、朝の祈りで名を出して祈ってやってくれないか」
ユーリはなんてことのないようにそう言うと、俯くニコの背中を撫でた。だが、ニコは曖昧に頷くだけで、より塞ぎ込んでしまう。
「ハルド集落?」
すると、向こうのテオが立ち上がり、二人の方へと歩み寄りながら口を開いた。
「あの地域の集落は、冬までにまとめて閉じる計画だろう。ニコに祈らせるより先に、住人の移住を進めるべきじゃないか?」
「その通りだ。だがな、テオ。
彼らにとってはハルドが故郷であり、居場所なんだよ。特に、公国での抑圧から逃れてきた者たちは、移住先を用意しても、そこで受け入れてもらえるとは限らないと二の足を踏む者も多い」
「そうは言っても、冬の寒さも飢えも待ってくれない。手を打たなければ、今年もまた冬を越せない民が出て……って、どうしたニコ。
……顔色が悪いな。腹でも痛いのか?」
「いや、お前が言うことは合理的で正しい。
だが、もう少しニコの気持ちを考えてやってもよくないか?」
「……?」
テオが本気でわからないという顔をするので、さすがにユーリも呆れてしまった。
——全く、仕事のことは余計なことまで気がつくくせに、一番大切な所で気が回らないやつだ!
「ニコは、紋がない今の状態での自分の祈りでは、ハルドの民を救えないのではないかと気にしているんだ」
そしてテオを諭すと、ニコに向き直った。
「君の祈りを待ち望む民は多い。
紋のある無しは関係ないんだよ。
君が心を込めて祈ってくれた、それが皆の救いになるんだ」
「でも、紋があれば、作物のお病気のときや、ローデンのときみたいに祝福が……」
「祝紋なんて、オマケみたいなものだろう。
あってもなくても、そんなに変わらん」
「オマケ……」
「確かに色々な局面で、お前の力は役立った。本当に役立った。とても感謝している。
でも俺たちは、ずっとお前一人を頼るつもりはないし、それじゃいけないと思うんだ」
「その通りだ。君が全部背負う必要なんてない。
国としても、ニコが一人で頑張らないでいいようにしようと話を進めているところだよ」
「……じゃあ、僕は……」
ニコはぎゅっと拳を握った。
——僕は、もういらないってこと?
そう喉元まで出た言葉を、ニコは飲み込んだ。
口にしてしまうと、それを肯定してしまうような気がして怖かったからだ。
「まだ顔色が悪いな。ほんとにどこか痛いのか?
もし胃が痛いなら、兄さん、いい薬を持ってるぞ。
胃がひっくり返るほど苦いが」
「もう! ちがうもん、兄さんのばかっ」
「んなっ」
とうとうニコは顔を上げ、そう叫ぶと、兄を押しのけて部屋からパタパタと走って出ていってしまった。
「ニコ……うう、兄さんまで胃が痛くなってきた」
「今のはお前が悪い。
⋯⋯ニコは本気で悩んでいる」
ユーリに諌められ、テオはため息をつきながら頭を掻いた。
「そのようだな。……俺としては、紋なんかあってもなくても本当に何も変わらんのだが」
「俺もそう思っている。
だが、これまでニコが『祝福の力が自分の価値だ』と思ってしまうほど頼りすぎてしまったのは事実だ。……俺の責任だ、申し訳なかった」
「いや。あの状況での婚姻だった。ニコがそう思ってしまうのも、仕方がない」
テオは頷いた後、しばらく考えた。
やがて、ゆっくり口を開く。
「そこで、だ。……もしニコが望むなら、一緒に領へ帰ることもできると話した」
「……そうか。わかった」
「……」
「なんだ、その顔は」
即座に目を丸くするテオを、ユーリがムッとした顔で睨み返す。テオは、小さく咳払いをして取り繕った。
「いや、思ったより物分かりがよくて驚いた。
お前のことだから、その、なあ……」
「ヴァレンティア家の代替わりの話は聞いている。
お前が当主になれば、ヴァレンティア領はニコにとって安全な場所になる。反対する理由はない」
ユーリは、わずかに目を伏せた。
「今こそ、ニコに選ばせるときなのだと思う。
冷静に考えれば、あの場での婚姻への意思確認は、ニコにとっては承諾しか選択肢がなかったからな」
「いや⋯⋯お前、本当にどうしたんだ。
呪いに頭をやられたのか?」
「お前な⋯。俺だって反省してるんだ。
どうしても外堀を埋め、相手にハイとしか言いようのない状況まで追い込むクセがある。
もっとちゃんと、相手の話を聞くべきだった。
ラウルだって、そうしていれば……」
「⋯⋯」
「ニコのことは、わかったよ。
俺はニコの選択を尊重する」
「いいのか? もう戻らないかもしれないんだぞ」
「構わん。俺は、ニコが絶対戻りたくなるような夫になるから」
「その自信はどこからくるんだ。……まったく。
やはり人の本質は、そう簡単には変わらんな」
「人聞きが悪い。あきらめが悪いと言ってくれ」
そう言って、ユーリは不敵に笑った。
テオはそんな王太子をしばらく見つめたあと、やれやれとため息をついた。
一方、ユーリの執務室を飛び出したニコは、がむしゃらに駆けていつの間にか中庭に辿り着いた。
するとすぐに、背後から声をかけられた。
庭師のギルだ。ニコはその顔をみるなり、こみ上げてきた感情が抑えきれずに「うわん」と泣いた。
「……兄さん、ひどいでしょ」
「……そうですかい」
昔のように花壇の端に腰を下ろしながら、ニコはギルに事の顛末を話した。ギルは柔らかく微笑む。
「お気持ちはわかりますよ。
ですが、テオさまはニコ坊のことをずっと大切に思っておられます。だからこそ、紋があるかないかなんて、気にもされておられないのでしょう」
「……」
「テオさまにとっては、ニコ坊そのものが大切なんです」
「でも……」
それでもニコは、頬を膨らませながら反論しようとしたが、どうにもうまい言葉が出てこなかった。
ギルが言うことは、正しい。
そう思いたい自分に気がついてしまったからだ。
ニコはほんの少しだけ顔を上げて、続ける。
「……兄さんに、領に帰ってもいいって言われたんだ」
「そうですか」
「もし帰るなら、ギルもばあやもいっしょでいいって」
「おや、それは光栄ですな」
「けどね、どっちにするか、僕が決めろっていうの。そんなこと言われても、わかんないよ⋯⋯」
「それは、ニコ坊が決めるしかないですな」
「⋯⋯」
ニコが再び俯きかけてしまったので、ギルは穏やかに問いかけた。
「殿下のことは、お好きですか?」
ニコは、すぐに頷いた。
「なら、きっとおのずと答えは出ますよ。
それに、私もマーゴットも、ニコ坊がどちらを選んでも、喜んでついていきますよ」
「ギル……」
するとちょうどその時、一人の侍女が姿を現した。彼女はニコにお辞儀をした後、立ち上がったギルにお願いをした。
「ギルバートさん。
花束用に、お花を見繕って頂けませんか」
「はいはい。用途は……、どなた宛ですか」
「お見舞い用です……ラウル殿下に」
「かしこまりました」
「ラウルさま?!」
ニコも立ち上がり、二人の輪の中に加わる。
「ラウルさま、具合が悪いの?」
「えっ……あ、いえ、その……。
ずっとお部屋から出られずにいらっしゃいますから。ユリウス殿下が、お持ちするようにと……」
——そういえば、呪いを解いた日以来、ラウルさまに会ってない。お病気なんて知らなかった。
……かわいそう。
僕も何かできないかな。
けど、紋がないから、何も……。
そこまで考えてニコは小さく首を横に振ると、自分の花壇の方に視線をやった。
ニコが育てた花たちが、美しく咲き乱れていた。
それを見ていたら、なんだか自信が出てきた。
——僕にも、できることがあるじゃないか!
「ねえ、ラウルさまへのお花、僕が届けてもいい?」
王太子妃に、自分の代わりを頼んでよいものかと侍女は困惑した。
だが、ニコが構わずギルを引っ張って自分の花壇から花を選び始めたので、「でしたら、お願いいたします」と、任せてくれた。
「ニコ坊、そのくらいにしておきましょう」
色とりどりの花を選んでは、どんどん侍女の籠に入れるニコを、ギルが止めた。
「えー、もっと入れたい」
「お見舞いでしたら、これくらいが一番きれいですよ」
ニコは渋々といった様子で諦めたが、侍女がその場で花束にしてくれたのを見ると、
「ほんとだ! かわいい!」
と、ようやくいつものように顔をほころばせた。
ギルが安心したのもつかの間、ニコは渡された花束を抱え、「いってきます!」と元気に駆け出す。
「あっ、妃殿下……、場所……っ」
そう侍女が呼び止めた時にはもう遅く、ニコの背中は見えなくなってしまっていた。
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