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1.政略結婚は突然に-3

 ミハイルが去ったあと、セレンはノエについて城へ向かった。  灰色の石で造られた廊下は、外から見た印象より明るい。壁には一定の間隔で、白い光を放つ石が嵌め込まれていた。 「魔石灯です」  セレンが左右の壁に目を配らせていると、前を歩くノエが言う。 「珍しいですか?」 「聞いたことは。でも、実物を見るのは初めてです。ルミナリアでは、蝋燭や松明を使いますので」 「北部では広く普及しています。冬季は日照時間が短いですから」  セレンはもう一度、魔石灯を見上げた。淡い光は火のように揺れることなく、廊下を静かに照らしている。  しばらく歩いたところで、ノエが一つの扉の前に立った。 「王妃殿下のお部屋はこちらでございます」 「王妃……あ、私のことですね」  セレンは扉を見た。 「他にどなたが?」 「いえ。すみません」  ノエが扉が開ける。最初に感じたのは、広い、ということだった。  寝台だけでなく、机や椅子、小さな長椅子まで置かれている。それでも窮屈には見えない。大きな窓の向こうには、雪の積もった庭園まで見える。 「すごい……広いです」 「……そうですか?」  ノエは眼鏡をくいと押し上げた。 「浴室ではいつでも湯が使えます。呼び鈴に触れれば使用人が参ります。お食事もこちらまでお持ちします」  図書室も食堂も中庭も、後日案内してもらえるらしい。説明を聞くたび、セレンは頷いた。 「わざわざありがとうございます、ノエ殿」 「ノエで結構です」 「では……ノエ」 「はい」  呼ぶと、当然のように返事があった。 「なにかございましたら、お呼びください」  ノエが一礼して出ていく。  扉が閉まると、セレンは改めて部屋を見回した。  今日から、ここで暮らす。  そう考えてから、床に置かれた自分の鞄へ目を向けた。十日かけて国境を越えてきたというのに、長年暮らした塔から持ち出したものは、その一つにすべて収まっていた。  夜になり、湯浴みを終えたセレンは、寝台のそばに置かれた鏡の前に立った。塔にあったものより大きい。腰近くまで伸びた灰色の髪も、薄い寝衣に包まれた身体も、一度に映っている。淡い灰色の瞳の下には薄く隈が残り、首には細かな意匠の施された、金属でできた装飾が巻かれていた。  先月で、二十四になったはずだ。  そう考えてから、セレンは鏡の中の自分を眺めた。二十四歳になったからといって、なにかが変わったわけではない。けれど十日前まで塔にいた自分は、今では知らない国で、知らない男の伴侶になっている。  鏡へ手を伸ばす。指先が触れたところから、鏡の冷たさが伝わってくる。 「……大丈夫」  誰かに聞かせるための言葉ではなかった。  これまでも、だいたいのことは一人でどうにかしてきた。ここでも同じようにすればいい。求められた務めを果たして、迷惑をかけないように暮らせばいい。  そう考えて鏡から離れ、セレンは窓辺の椅子へ向かった。まだ眠るには少し早い。鞄から持ってきた本を取り出し、何度目になるかわからないページを開く。  半刻ほどした頃、ふと廊下から重い足音が近づいてきた。セレンは顔を上げる。……こちらへ向かってくる。  その足音はやがて自室の前で止まり、扉が叩かれた。 「入るぞ」 「あ、はい──」  返事を終えるより早く、扉が開いた。 「リヴァル殿下」  そこにいたのは、本日、セレンの夫になったばかりの男だった。婚礼の礼装はすでに脱ぎ、黒を基調とした簡素な衣服に着替えている。髪はまだわずかに濡れているように見えた。  なぜ、ここへ来たのだろう。  そう考えたところで、セレンは今夜が婚礼を終えた最初の夜であることを思い出した。夫婦になった以上、そのために来た可能性もある。  途端に、先ほどまで読んでいた本の内容が頭から抜けた。そういうことについて、セレンにはほとんど知識がない。王族として必要になることだと考えたことはあっても、自分には発情期すら来なかったため、詳しく教えられたこともなかった。  もし求められたら、どうすればいいのだろう。断る理由はない。けれど、なにをすれば正しいのかもわからない。  昼間、髪に付いていた花びらを取ってくれた指先が脳裏をよぎる。  ……あの時のように、お優しく接してくださるのだろうか。  そう思った次の瞬間、旅の途中で聞いた「前の婚約者は激しい寵愛で亡くなった」という噂が頭をよぎる。  噂は噂だ。それでも、可能性はいつでも頭の中にあった。  ……た、耐えられるだろうか。  セレンは寝衣の襟を慌てて整えた。 「部屋はここか」 「は、はい。ノエに案内していただきました」 「そうか」  それきり、会話が途切れた。セレンはなにか言わなければと思い、昼間から考えていた言葉を口にした。 「その、本日はありがとうございました」 「なにがだ」 「私と、婚礼の儀を」 「それは俺に礼を言うことか?」 「……違うのでしょうか」 「知るか」  リヴァルは向かいの椅子を引いて腰を下ろした。寝台へ向かうものとばかり思っていたセレンは、その動きを目で追った。 「話がある。この婚姻についてだ」  セレンは本を閉じ、手の内に指を握り込めた。掌がじんわりと汗ばむ。 「お前との婚姻は、ルミナリアとの同盟のために受け入れた」 「承知しております」 「なら話は早い。形式上、お前は俺の伴侶になる。王族として必要な席には出てもらう。それ以外は好きにしろ」 「……好きに、ですか?」 「なんだ、不満か?」 「いえ」  好きにしていい。そう言われても、なにをしていいのかがわからなかった。 「なにか、私に求められる務めはございますか」 「今言っただろう。必要な席には出ろ。それ以外ない」 「……そうですか」  思っていたより、ずっと少ない。  リヴァルはそんなセレンを見たまま続けた。 「それと、俺はお前とのあいだに子を求めるつもりはない」  セレンは瞬きをした。発情期が来ないことを知っているのだろうか。 「だから、番になる必要もない。夫婦として必要以上に干渉するつもりもない」 「……はい」 「異論は?」  セレンは首を横に振った。子を求められないのであれば、自分に発情期が来ないことも問題にはならないのかもしれない。胸の奥にずっとあった懸念が、一つ消えた。 「ございません。この婚姻の目的は、両国の同盟なのでしょう。でしたら、それが果たされるのであれば問題ありません」  セレンはようやく淀みなく話せるようになる。リヴァルが腕を組む。しばらく、なにも言わなかった。 「そうか。話はそれだけだ」  やがてリヴァルが立ち上がる。 「三日後には前線へ戻る。ひと月は戻らない」 「もう、ですか」  思わず聞き返した。たちまちぎろりと睨まれる。 「なにかあるのか」 「いえ。……お気を付けて」 「ああ」  リヴァルが扉へ向かう。セレンはその背中を見つめた。 「殿下」  なぜか、呼び止めていた。リヴァルが振り返る。 「なんだ」  赤い瞳が自分へ向けられる。セレンは口を開いたものの、続く言葉が出てこなかった。胸の奥が、とくとくとあたたかい。 「あ……なんでもありません。おやすみなさいませ」  咄嗟にそう言って、頭を下げる。  リヴァルはしばらくそこにいたが、やがて鼻を鳴らし、そのまま部屋を出ていった。重い足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。  セレンは一人になった部屋で顔を上げた。  夫になった男は、三日後にはいなくなる。  それを残念に思う理由など、まだ、なにもないはずだった。

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