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3.果実と熱-2

   ◇ ◆ ◇  王都へ戻ったのは、まだ朝日が昇りきる前だった。  城門をくぐると、石畳を踏む馬の蹄が高く響いた。一月ぶりに見る王城は、出立した時とほとんど変わっていない。リヴァルは馬を降り、手綱を待っていた兵士へ放る。 「殿下、こちらを。戦果をまとめた報告書です」  すぐそばにいたノエが書類を差し出してくる。帰還したばかりだというのにもう仕事の話かと、辟易する。 「後にしろ」 「では、執務室へ運んでおきます」 「ああ」  外套を脱ぎながら城内へ入る。鎧も重い。まず湯を浴びたい。そのあと少し寝て、それから報告を片付ければいい。  そんなことを考えながら廊下を歩いていた時、ノエがふと思い出したように口を開いた。 「王妃殿下に会っていかれますか?」 「……王妃?」  誰のことだ、と一瞬考えた。数歩進んだところで思い出す。南国から嫁いできた、長い灰髪のオメガの王子。 「ああ。そういえばいたな」 「いらっしゃいます」  ノエの冷たい視線を感じる。 「あいつの部屋はどこだ?」 「北の庭園に面した客室棟です」 「……あそこか」  婚礼の夜、一度訪れてそれきりだった。  別に会う用事があるわけでもない。だが一月も城を空けていたのだから、顔くらい見ておいた方がいいのだろう。形式上とはいえ、自分の伴侶だ。  リヴァルは妻の部屋へ向かうことにした。  北側の棟はあまり人気もなく、早朝だからかひどく静かだった。王妃の部屋の前まで来て、リヴァルは扉を二度叩く。 「俺だ」  返事はない。もう一度叩く。……あいつの名前はなんだ。思い出して、リヴァルは声に出した。 「セレン」  しばらく待っても物音ひとつしなかった。まだ眠っているのかと思った頃、ようやく扉の向こうから声がした。 「……はい」  ひどく弱い声だった。リヴァルは眉を寄せる。 「入るぞ」 「……どうぞ」  扉を開ける。部屋は妙に寒かった。廊下よりはいくらか暖かいものの、王族に割り当てられた居室としては明らかに室温が低い。窓辺に設置された魔石暖房を見ると、最低限の出力しか使われていなかった。  寝台を見ると、セレンが横になっていた。 「殿下」  こちらに気付いたらしい。掛布の中で身じろぎし、起き上がろうとする。 「そのままでいい。……起こしたか」 「いえ」  リヴァルが言うと、セレンは途中まで起こした身体を再び寝台へ預けた。ふと、彼の顔を見たリヴァルは違和感を覚えた。  長い灰色の髪が枕の上に散らばっている。陰気臭い印象のあった顔はいつもより赤い。潤んだ淡い灰色の瞳も、なんとなくぼんやりとしていた。  リヴァルは途中で立ち止まり、つい身構える。咄嗟に頭の中を過ぎったのは、オメガだけに訪れる、あの時期のことだった。  オメガの発情期について知識がないわけではない。むしろ王族である以上、最低限の教育は受けている。だが、すぐに違うと気付いた。甘い匂いもしなければ、アルファである自分の身体にもなんの反応もない。それどころか、時折聞こえるのは苦しそうな呼吸と咳だった。 「お前……まさか、風邪か」 「はい。おそらく」 「おそらく? 医師には診てもらってないのか」 「……寝ていれば治るかと思いまして」  リヴァルは黙って鼻声のセレンを見る。セレンは少し居心地が悪そうにして、それから掛布をわずかに引き上げた。もっと様子を見るべきかとリヴァルがさらに近付こうとすると、セレンが焦ったように声を上げる。 「殿下、あまり近付かない方がよろしいかと。……うつります」  リヴァルは眉を寄せた。戦場から帰ってきた人間に、風邪がうつるから近付くなと言っているらしい。 「いつからだ」 「一週間ほど前から……だと思います」 「は? 一週間もこのままなのか」 「はい。あ……少しずつ良くなっているような気はします。ですから、ご心配なく……」  直後、セレンが咳き込んだ。どこがだ。リヴァルは部屋の中を見回した。そこで、ようやく違和感に気付く。  誰もいない。  侍女も、近侍も、看護をする者もいない。寝台脇には水差しが置かれているが、中はすっかり空だった。薬らしいものさえ見当たらない。 「お前の近侍はどこだ」 「近侍?」 「付き人だ」 「ああ……おりません」 「……いない?」  当然のことのように返された。 「婚礼の時からか」 「昔からです」 「一人も?」 「はい」  リヴァルはしばらく黙った。自分が前線へ向かって、戻ってくるまでこの男がどう過ごしていたのかなど考えたこともなかった。必要なものがあれば城の使用人へ命じるだろうと思っていたし、王族なのだから当然、身の回りを管理する者くらいいると思っていた。だが、いない。そして本人は、それを問題だとも思っていないらしい。 「ノエ、お前、気付かなかったのか」  リヴァルは低い声で後ろにいたノエへ振り返って言う。ノエはすぐに跪き、頭を垂れる。 「申し訳ございません。王妃殿下付きの人員については、すでに配置されているものと認識しておりました」  膝をついたノエを睨んだのも一瞬、リヴァルはセレンに向き直る。そして一つ息をついた。 「……まあいい。気付かなかったのは俺も同じだ。──ガルドを呼べ。今すぐにだ」 「承知しました」  リヴァルの命令に二つ返事で頷いて、ノエは足早に部屋を立ち去っていく。 「殿下、そこまでしていただかなくても」  寝台から弱々しい声がする。 「一週間治ってない奴が言うな」  セレンは口を閉ざした。  それからしばらくして、診療衣を雑に羽織った、無精髭の男が現れた。  先王の時代から王家に仕えている男で、父とは幼い頃からの付き合いだったという。王族相手でも必要以上に畏まることがなく、リヴァルに対しても昔から態度が変わらない。とても王城付きの医師には見えないが、腕は確かだった。 「朝っぱらから人を呼びつけるから何事かと思えば」 「診ろ」 「見ればわかる。患者はそっちだな」  ガルドはリヴァルを適当にあしらうと、寝台のそばへ椅子を寄せた。 「失礼いたしますよ、王妃殿下」 「はい。よろしくお願いいたします」  セレンはそう言って、寝衣を緩めた。布が肩まで降りると、その下の身体が顕になる。その姿を見た時、リヴァルは目を疑った。  ……痩せている。  その躰は、思っていたよりずっと細かった。王族であればもう少し恵まれた体型をしていてもいいのに、鎖骨は浮き出ていて、肋骨の波打った影も落ちていた。婚礼衣装を着ていた時は気付かなかった。 「殿下」  ふと近くで声が聞こえた。振り返るとノエがいて、気まずそうに咳払いをする。 「診察中です」 「……わかっている」  そう言われて、リヴァルは咄嗟に背を向けた。一瞬セレンと目が合う。彼は不思議そうな顔でリヴァルを見ていた。彼に無防備という自覚はないらしかった。  ガルドは喉を診て、胸の音を確認し、熱を測る。診察されているあいだも、セレンは言われた通りに身体を動かすだけだった。 「随分拗らせたな」  ひと通り診察を終えたガルドは、首の後ろをがりがりと掻きながら言った。 「ただの風邪か?」 「今のところはな。ただ、熱もあるし、身体も弱ってる。食事は?」 「いただいております。スープと、パンを少し」  セレンは寝衣を着直しながらそう口にする。 「それだけか」 「食欲があまりありませんでしたので」  道理でそれほどまでに痩せているはずだ。  ガルドとリヴァルは短く息を吐いた。 「とにかく休ませることだな。水分を取らせて、しばらくは消化のいいものを食わせろ。食えるものだけでいい。部屋も暖めろ」  最後の言葉と同時に、ガルドの目が魔石暖房へ向いた。ついでリヴァルとノエもその視線に続く。 「つうか、なんでこんなに絞ってる?」  セレンが答えた。 「十分温かかったので」 「十分?」  ガルドが部屋を見回す。 「南国育ちが北の真冬に言う台詞じゃないな」 「ですが、魔石にも限りがあると聞きましたから」 「……」  今度はガルドだけでなく、リヴァルも顔を歪ませた。意味がわからない。城にある暖房用の魔石を王妃一人が使ったところで、国庫が傾くわけでもない。 「最大まで上げておけ」  リヴァルが言うと、ノエが近付いて調節する。セレンは寝台の上から躊躇いがちに手を伸ばす。 「ですが」 「上げろ」 「……はい」  セレンはそれ以上反論せず、伸ばした手を大人しく下げた。  ガルドが部屋を出たあと、リヴァルとノエは廊下へ出た。 『しばらくは消化のいいものを食わせろ。食えるものだけでいい』  去り際に言われた言葉を思い出す。食えるもの。リヴァルは少し考えた。 「……肉か」 「違うと思います」  隣を歩いていたノエがため息混じりに答えた。 「高熱の人間に肉の塊を出されるおつもりですか」 「食えば力がつくだろ」 「食べられれば、ですが」 「ならなにを食わせる」 「果実などでよろしいのでは。ルミナリアからの結納品に、果実がございます。あれを寒天と花蜜糖で固めたものが、南国ではよく食べられていると聞きました」 「詳しいな」  眼鏡をくいと上げ、ノエはそう言う。 「花蜜糖を使用した焼き菓子も用意ができます。王妃殿下にとっては故郷の味でしょうから、食欲がなくとも多少は召し上がるかと」 「そんなもので……いや、それでいい。なんでもいい」 「では、厨房へ申し付けます」  ノエがそのまま歩き出す。  リヴァルは数歩進んでから、もう一度考えた。 「肉も少しくらい──」 「不要です」 「……そうか」

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