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4.疑惑-1
◇ ◆ ◇
ヤオが近侍として付くようになってから、セレンの生活は少しだけ変わった。
朝、目を覚ますと水差しには新しい水が満たされ、洗面用の湯と着替えが用意されている。前日に脱いだ衣服はいつの間にかなくなっていた。
「……ヤオ、自分でできます」
ヤオは頷いた。
翌朝も、すべて用意されていた。どうやら「できる」という報告として受け取られただけらしい。
ヤオはほとんど喋らなかった。呼べば返事をするが、頷くか首を振るだけで済むことなら声すら出さない。その代わり、よく見ていた。
ある昼下がり、セレンは部屋が少し暑く感じられ、暖房の火力を一段弱めた。それから窓辺の椅子へ戻り、本を読み進める。
数頁ほど読んだところでふと暖房を見ると、火力が元に戻っていた。
「……ヤオ、戻しましたか?」
ヤオは無言で頷く。
「もう風邪は治りました」
「……」
「リヴァル殿下のご命令ですか?」
また頷いた。そうするとセレンはなにも言えなくなった。
食事も同じだった。昼食を残せばなにも言わずに下げてくれるが、しばらくすると果物や焼き菓子の載った小皿が机に置かれている。食べられないと言っても下げてはくれない。
最初のうちは抵抗していたセレンも、何度か繰り返すうちに諦めた。暖房には触らなくなり、食事も食べられる分は食べるようになった。朝の支度も、ヤオがするというのなら任せることにした。
ただ一つだけ、なかなか慣れないことがあった。
ヤオには足音がない。
廊下を歩いていると、本当に後ろから付いてきているのかわからなくなる。気になって振り返ると、数歩後ろにいつも通りヤオがいる。まるで影のようについてくる。
しばらく歩いて、もう一度振り返る。やはり、いる。細い糸目は「なにか?」と問いかけるようで、けれどなにも読み取れない。なにを考えているのかと聞いたところで、ヤオに答えを求めるのはなにか違う気がした。
それが何度か続いたある日、セレンは尋ねてみた。
「ヤオ。もう少し、音を立てて歩くことはできますか?」
ヤオは少し考え、首を横に振った。
「……そうですか」
ならば仕方がないのだろう。たぶん。
そんな生活が一週間ほど続く頃には、セレンも少しずつヤオのいる生活に慣れていった。部屋へ戻れば、ヤオはいつもの場所に控え、セレンは窓辺の椅子で読みかけの本を開く。会話はない。聞こえるのは、時折頁をめくる音だけだった。
以前とほとんど変わらない、静かな時間だった。
ただ、今は一人ではなかった。
ある日の午後、ノエの、図書室を見てもいいという言葉を思い出したセレンは、ヤオを連れて図書室を訪れた。
扉を開けた途端、黴のような、紙特有の乾いた匂いが鼻腔を擽る。視界には壁一面を埋める書架が奥まで続き、見上げても最上段まで一度には収まらない。
「……すごい」
セレンは肺いっぱいに息を吸ったあとで、思わずそんな声が漏れた。
塔にいた頃、セレンが自由に読める本はそう多くなかった。自分のものとして持っていたのは、何度読み返したかわからない戦術書が一冊だけだ。
それが、ここには数えきれないほどある。
セレンは書架へ近づいた。一冊の背表紙に手を伸ばしかけ、その隣を見る。気になる題名だ。ならそちらを先にと思い手を伸ばすも、さらに奥にも興味を引くものが見える。手に取って中を確かめる暇すら惜しくなって、まずはなにがあるのか知りたくなったセレンは、図書室の中をぱたぱたと何度も行ったり来たりした。
セレンはすっかり夢中になっていた。
やがて、戦史から軍制、兵站の並ぶ書架を見つけた。その先に戦術論らしき題名を見つける。もっと見たい。その奥にも同じ分類の本が並んでいるのが見えた時、心臓のあたりがざわめいて、顔が熱くなった。
もしやこれも、全部読んでいいのだろうか。
そう思いながら一歩踏み込んだところで、突然袖を引かれた。振り返るとヤオがいて、なにかを伝えるように首を横に振っている。
「どうしました?」
ヤオは足元を指した。そこで初めて、書架の前に鎖が掛かっていることに気づいた。セレンが入ろうとしていた時には鎖は外れて足元に落ちていた。けれどよく見るとすぐ脇には札もある。王族および士官以外、立入禁止。そう書いてある。
「……あ。申し訳ありません」
セレンは慌てて元の場所へ戻り、掛かっていた鎖を元に戻した。ヤオがいなければ、そのまま奥まで進んでいたかもしれない。
改めて札を読む。政治、軍事、戦術に関する一部の資料は閲覧者が制限されているらしい。王族なら許可されると書かれているが、セレンは判断に迷った。確かに王族ではある。しかしグランディオの王族ではない。婚姻によって王妃となったとはいえ、他国の人間が軍事に関する資料を勝手に読んでよいとは思えなかった。
「……やめておいたほうが、よさそうですね」
ヤオはなにも答えなかった。
少し惜しかったが、読める本だけでも到底読みきれないほどある。セレンは気を取り直し、すぐに別の棚へ向かった。
それからしばらくして、ようやく一冊を選んだ。グランディオの建国から現在に至るまでをまとめた歴史書だった。
閲覧用の机へ向かおうとしたところで、司書から声をかけられる。
「お部屋へお持ちになりますか?」
セレンは聞き返した。
「……持っていってもよいのですか?」
「はい。返却していただければ、特に期限はございません」
「何冊まででしょう」
「制限はございません」
セレンは腕の中の一冊を見た。それから、書架を見る。そのあとで、ちらりとヤオを見た。ヤオもこちらを見ている。
ヤオなら、頼めば十冊でも二十冊でも運びそうだった。少なくとも「多い」と文句を言う姿は想像できない。それどころか、一度に何冊持てるか、少し試してみたい気もした。
けれど、セレンはその思考を手放した。自分の部屋へ何冊も持っていけば、その間は他の人が読めなくなってしまう。
「……では、一冊だけお借りします」
「承知いたしました」
そうしてセレンは無事に手続きを済ませる。終わったあとで、セレンは改めてぐるりと図書室を見渡した。セレンは胸に抱えた一冊の本を抱き直す。それから再度、司書へと振り返る。
「……また、来てもよいのですよね」
念押しするように訊ねると、司書が少し不思議そうに答えた。
「ええ。もちろんでございます」
そう考えると、先ほどまであれほど悩んでいたことが急に簡単になった。
「では、端からにします」
「端から、ですか?」
セレンは頷いた。最初の棚の一番端から、順番に読んでいけばいい。そうすれば選ぶ必要もないし、いずれ全部に辿り着ける。
腕に抱えた歴史書を確かめ、セレンは図書室を後にした。帰りの足取りは、今まで感じたことないほど軽かった。
部屋へ戻ってから夕食までほとんどその本を読んで過ごした。そのまま夕食を摂り湯浴みを済ませると、また本を読む。
夜になると本を閉じ、いつものように日記を開く。
今日は、書くことがいつもより多かった。
図書室へ行った。たくさんの本があった。グランディオの歴史書を一冊借りた。部屋へ持ち帰ってもよいらしい。何冊借りてもよいと言われたが、一冊にした。
そこまで書いて少し考えるうちに、ふっと口元が綻んだ。
──明日も行こうと思う。
そう書き足そうとして、ペン先を紙の上に置いた、その時だった。
廊下から荒い足音が近づいてくる。ヤオではない。ヤオなら、そもそも聞こえない。
顔を上げた直後、扉が勢いよく開いた。蝶番が軋み、セレンの肩が跳ねる。
入り口に立っていたのはリヴァルだった。その後ろにはノエと、ヤオもいた。
リヴァルのいつもの不機嫌そうな顔はますます険しく、セレンを睨んでいた。
「殿下……?」
返事はなかった。そのまま、リヴァルは部屋を見渡す。机の上の日記。借りてきた歴史書。そして最後に、セレン。目が合った瞬間、凄みのある視線に思わず後ずさる。
「今日、図書室へ行ったそうだな。政治と戦術の書架に入ろうとしたと聞き及んでいる」
「……はい」
「日記もつけているそうだな」
「はい」
なにが問題なのかわからない。けれど、答えるたびに嫌な予感だけが膨らんでいく。
リヴァルが室内へ踏み込む。
「お前、何者だ。本当にルミナリアの第一王子か」
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