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4.疑惑-2
低く這うようなその声は、見えない剣を喉元に押し付けてくるような圧があった。
セレンは返事ができなかった。問われている意味が、すぐには結びつかなかった。自分は第一王子として生まれた。それをなぜ、今になってリヴァルが確かめるのだろう。
「ルミナリアからなにを命じられている」
「命じられて……?」
「この国の内情を探るために送り込まれたんじゃないのか」
そこでようやく、セレンは理解した。
自分は今、ルミナリアの王子ではなく、身分を偽って入り込んだ間諜ではないかと疑われている。
婚姻の日とは違う恐怖が、セレンの背筋を這い上がった。
「ち、違います」
咄嗟に否定した声が掠れて、裏返る。声が震えた。
「私は、そのようなことは──」
「ならこれはなんだ」
机の上から、書きかけの日記が取り上げられた。
南方の、筆記体で綴られた頁をリヴァルが開く。つい先ほどまで書いたものだった。まだ途中で書き終えていないそれにセレンは手を伸ばすが、リヴァルの腰に佩刀された剣を見て慌てて手を引っ込めた。
日記には今日食べたものや、天気や、読んだ本について書いてあるだけだ。同じ言語を使っているが、文字の形が違うからかリヴァルには読めない。ノエへ渡されるのを、セレンはただ黙って見ているしかできなかった。
日記から目を離したリヴァルは、机の端に置かれていたもう一冊へ目を留める。
「この本は」
ルミナリアから唯一持ってきた本だった。ノエが答える。
「……戦術書ですね。この国のものではありません」
「取り上げろ」
「かしこまりました」
「ま、待ってください」
ようやく、セレンの口から言葉が転がり落ちた。
二人がこちらを見る。
取り返したいわけではなかった。調べる必要があるなら、渡さなければならない。それでも、塔から持ってきた唯一の本だ。
セレンは伸ばしかけた指を握り込んだ。
「……いえ。お願いいたします」
ノエの手へ渡った本を、セレンは見送った。
「ルミナリアの使者や王家の者とやり取りした記録は。軍事機密や会議の記録はないか」
「ございません」
「本当に?」
「……はい」
答えながら、さらにもう一つの恐怖が頭を擡げた。
自分が疑われるだけなら、まだいい。けれど、自分はルミナリアから嫁いできた王族だ。もし第一王子だと認められず、間諜だと判断されたら、この婚姻はどうなる。
同盟は。
婚礼の日、必死になって守ろうとしたものが、自分の行動ひとつで壊れるかもしれない。
「考えれば、妙な話だ。病弱を理由に公儀には出ない。肖像画も残っていない。第一王子だというのに近侍すらいなかった」
「……」
「自国の菓子も知らない。王族のくせに洗濯も掃除も自分でする。兵の使う食堂にも、自分から出入りしていた。その上毎日日記をつけ、今日になって政治と戦術の書架に入り込もうとしただと?」
ふと、リヴァルの後ろに立つヤオが見えた。ヤオは珍しくなにか焦ったような顔をして立っている。恐らく図書室の出来事をリヴァルに伝えたのだろう。だが悪意があるようには見えなかった。
言葉をひとつずつ並べられるたび、セレンには反論できるはずだった。けれど、それをどう説明すればいい。
「私は……」
すべて本当のことなのに、口にすればするほど、自分が王子ではなかったと証明してしまうような気がした。
「お前が本当にルミナリアの第一王子なら、随分と妙な王子だな」
セレンの喉が詰まった。
「王子として顔を知られていない人間を別に用意して送り込んだと考えた方が、まだ筋が通る。食堂へ行ったのも兵の話を拾うためで、図書室で許可のいる書架に目を付けたのも、機密を盗むためだろう」
「ち、違います」
今度だけは、すぐに言えた。
「では、なんのためだ」
「菓子は、食べたことがなくて……洗濯や掃除は昔からしておりました。……食堂に行ったのは、温かかったからです。食事が……。本は、ただ、好きで……そ、それだけです」
歯切れが悪い答えになる。自分でも、こんな時になにを言っているのだろうと思った。沈黙が弓弦のように張り詰める。
やがて返ってきた声は、冷たかった。
「確認が取れるまで、この部屋から出るな」
セレンの指先から血の気が引いた。リヴァルは腰に帯刀した剣の柄を撫でる。
「確認次第、お前の処分を決める」
処分。その言葉で、婚礼の日に抱いた恐怖が蘇った。
この婚姻だけは失敗させてはいけない。
そう思ってここへ来たのに。
「……わかりました」
重い唇を開いてそう答えると、リヴァルが微かに眉を寄せた。なにか、気に障るようなことでも口にしたか。
どうしたら彼の機嫌を損ねないか、変な焦りでぐちゃぐちゃになり始めた頭に、ふとリヴァルの声が差し込まれる。
「お前──怖くないのか?」
その言葉に、少し冷静になったセレンは顔を上げた。
本音を言えば、ずっと怖い。
けれど、それは自分がどう処分されるかではない。
下手を打てば故郷が滅ぶ。それになにより、自分をここに置いてもいいと言ったリヴァルに、今は疑われている。
「……怖いです」
口にすると、思った以上にはっきりした声になった。
「ですが、確認が不足しておりました。殿下の判断をお待ちしております」
それ以外に、セレンにできることはなかった。
リヴァルたちが部屋を出ていったあと、机の上には書きかけの日記も、塔から持ってきた本もなかった。借りてきた歴史書だけが残されている。
──番も作れない、出来損ない。
不意に、父から告げられた言葉を思い出した。オメガな上に発情期も来ず、魔法も弱い。まるで罪人かのように扱われ、隔離され、長年過ごしてきた。役に立てなければ必要ない。父も、家臣たちも、みな口を揃えて言った。セレンもまた、与えられた役割をなに一つこなせない自分に対して、理屈の部分では納得していた。
やはりここでもきっと、そうなるのだろう。
役に立たないオメガには、どれも望んではいけなかったのだ。身の回りの世話をされることも、あたたかい食事も、好きな本を読むことも。いつの間にかそれが当たり前だと思ってしまっていた自分が、恥ずかしい。
「……申し訳、ありません……」
誰もいない部屋の中で、そんな謝罪が思わず零れていた。いけないと思ったがすぐにじわり、と視界がぼやけるのを感じて、セレンは慌てて袖で目元を拭った。
明日も図書室へ行こうと思っていた。
その一文は、とうとう日記に書けなかった。
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