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6.鍛錬と旋律-3

 その夜、セレンが眠る支度をしていると、開けた窓の向こうからかすかに音が聞こえてきた。  風の音ではない。一定の間隔で続く旋律が、夜気に乗って途切れ途切れに届いてくる。  セレンは窓辺へ寄り、外へ顔を出した。庭のどこかで、誰かが楽器を奏でているらしい。聞いたことのない曲だった。静かな音が重なり、ときおり低く沈んでは、また緩やかに上がっていく。  もう少し近くで聞いてみたい。  そう思った時には、セレンは部屋を出ていた。  音を頼りに廊下を進み、階段を下りる。夜の城は昼間よりずっと静かで、旋律は庭へ近づくほど鮮明になった。  辿り着いたのは、庭の端だった。  柱の向こうに人影が見える。そこではリヴァルが一人、腰掛けて楽器を構えていた。  セレンは思わず足音を忍ばせた。声をかければ演奏をやめてしまうかもしれない。柱の陰からわずかに顔を出し、その背中を見つめる。  昼間、炎と重力を操り、木剣を振るっていた人と同じとは思えなかった。大きな手が弦のついた楽器を扱い、指先が動くたびに旋律が生まれる。  ……きれい。  もっと聞いていたいと思ったその時、不意に旋律が途切れた。  リヴァルが楽器を静かに置く。  もう終わってしまわれるのだろうか。  そう思った直後、地面に置かれていた剣をリヴァルが掴んだ。そしてこちらへ投げる。 「……っ!」  セレンは頭を庇うようにしゃがみ込んだ。ほとんど同時に、身体の周囲へ淡い膜が広がる。鈍い衝突音が響き、飛んできた剣が防壁に弾かれた。軌道を逸らした剣が、少し離れた地面へ転がる。  セレンは恐る恐る顔を上げた。そこでようやく、リヴァルがこちらを見る。 「きゅ、急に剣を投げないでください。当たったらどうするおつもりで」 「当たってもかすり傷だ」 「そういう問題では……」 「……にしても、本当に無意識なんだな」 「え?」  リヴァルが鼻を鳴らす。どうやら最初からセレンがいることには気づいていたらしい。しかも、こちらを確認することすらなく剣を投げた。 「お前の母君は、城一つ守れるほどの防御魔法を使えると聞いている」 「はい。王家の一族は、それなりに魔法が使えます。母上は貴族の出ですが、その魔法の腕で父上に見初められまして」 「なのに、お前はそれか」  セレンは先ほど展開された防壁のあった場所を見る。  似たようなことを、昔にも言われたことがあった。  初めて防壁を作れた頃は、母と同じ力を持つかもしれないと期待された。けれど、防壁はいつまで経っても自分の周囲から広がらず、少し離れた場所を守ろうとすれば形を失った。  やがて期待する声は聞こえなくなり、発情期も来なかった。 魔法も、オメガとしての身体も、自分にはなにもできない。  いつからか、自分でさえもそう思うことにも慣れていた。 「申し訳ありません」 「いや、いい。魔法は使えないと聞いていたから、意外だ」  その言葉が終わるより先に、セレンの鼻がむずむずした。 「っくしゅ」  肩が震える。  リヴァルは小さく息をついた。立ち上がると自分の外套を脱ぎ、そのままセレンへ投げる。 「着ていろ」 「……ありがとうございます」  受け取った外套を羽織る。少し重い。丈もセレンには長かった。けれど、つい先ほどまでリヴァルが身につけていたからか、布にはまだ熱が残っている。  ……あたたかい。  そう思って上着をぎゅっと握り込めると、再び腰を下ろしたリヴァルがこちらへと振り返る。 「こっちに来て座れ。……そばにいれば、寒くないだろ」 「あ……ありがとうございます」  セレンは彼の言葉に甘え、リヴァルの隣へと座った。楽器を構え、指を動かすのがよく見える。  音が戻ってくる。  先ほどと同じ旋律のはずなのに、近くで聞くと一つ一つの音がよくわかった。高くなるところも、低く沈むところも、繰り返される短い旋律も、少しずつ耳に残っていく。  やがて、演奏を続けたままリヴァルが口を開いた。 「お前は? なにか弾かないのか」 「はい。必要ありませんでしたので」  答えてから、セレンは自分の言葉を考えた。  塔で暮らす自分に、楽器を習う必要などなかった。誰かと演奏する予定も、人前で披露する機会もない。だから教わらなかった。それだけのことだ。  けれど、もし自分にも弾ける楽器があったなら。  今、リヴァルの隣で一緒に演奏できたのだろうか。 「……」  妙な感覚がした。  腹が減っているわけではないのに、なにかが足りないような気がする。それがなんなのか、すぐにはわからなかった。  やがて、それに名前をつける。  うらやましい。  そして、少し寂しい。 「……自分にも、こういうものがあればよかったです」  そう放ったのは、ほとんど独り言だった。けれどリヴァルはそれを拾ったのか、楽器を弾いていた手を止める。それからセレンへと視線を向けた。 「今度教える」 「え」 「一緒に弾けばいい」  それだけを言って、リヴァルは再び演奏に戻った。セレンは呆気に取られたながら、ただリヴァルの横顔を見ていた。  セレンは外套に包まれたまま、しばらく演奏を聞いていた。旋律が一つ終わったところで、静かに口を開く。 「殿下。……私は、この国へ来られてよかったと思っています」  リヴァルは手元の楽器を見つめていた。 「最初は、怖かったのです。知らない国で、知らない方ばかりで……どうなるのだろうと、そればかり考えていました」  夜風が二人のあいだを抜ける。 「でも今は、ここへ来られてよかったと思っております?そして……殿下の伴侶になれたことも」  セレンは外套の裾を握りしめた。  そこで初めて、リヴァルがこちらを見た。赤い瞳に見つめられて、胸の奥がずきりと甘く痛む。 「……そうか」  短く返した声は、いつもと変わらなかった。  けれどふとセレンが彼の横顔を見ると、耳の先だけが夜気とは違う色に染まっていた。  それに気付いていないふりをするように、リヴァルは咳払いを一つして楽器を抱え直す。 「別に。お前がそう思ってるなら、それでいい」  少し喉を詰まらせてからそう言ったのち、視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに続けた。拒絶はされなかった。それが彼なりの言葉だと気付いて、セレンは妙に嬉しかった。  少しだけ身を乗り出して、また楽器の音色に耳を傾ける。  少し目を閉じて聞き入っていたセレンがぱっと眼を開けた時、いつの間にかこんな距離で話していたのだと、その時になって初めて気付いた。 「あ……」  思わず息を止める。  赤い瞳がすぐ目の前にあった。セレンは数秒、気が付かなかった。吐息とわずかな熱を感じた瞬間、セレンの頭の奥がかっと熱くなる。ぼうっとし始めた思考の合間に捉えた瞳は、昼間は鋭く不機嫌そうに見えたのに、夜の静けさの中では不思議と穏やかに映る。  胸がばくばくと激しく鳴る。どうしてなのかわからない。身体が、動かない。  もう少しだけ、この距離のままでいたい──  そう思った瞬間、リヴァルはふいと顔を逸らした。その動きで、セレンもようやく魔法が解けたように動けるようになる。 「し、失礼しましたっ」  咄嗟にそんなことを言って、リヴァルから慌てて距離を取ろうとする。けれどすぐに捕まった。ぎゅっと手首を掴まれて、セレンの胸にまたどきりとわけのわからない痛みが走る。 「……まだ、聞いていけ」  そう言われて、セレンは「あ……はい」と答えることしかできなかった。  やがて旋律が終わり、とうとうリヴァルが立ち上がる。 「戻るぞ」 「はい」  いつもの不機嫌そうな顔でそう言ったリヴァルに続いて、セレンもまた立ち止まった。名残惜しさを感じていると、リヴァルは言う。 「また来い」  それだけだった。しかしセレンは、「はい」と確かに頷いた。  城に入って、それぞれの部屋に続く分かれ道で「おやすみ」「おやすみなさいませ」と言葉を交わしてから部屋へ戻る。  寝台へ向かおうとしたところで、自分がリヴァルの外套を羽織ったままだという気付いた。  返さなければ。  部屋まで届ければいい。そう考えて、先程の城の分かれ道まで戻るが、どの方向も同じような景色が続く廊下の真ん中に立ち尽くしたまま、セレンは困った。  リヴァルの部屋がどこにあるのか知らない。  仕方なく、外套を持ったまま自室へ戻った。次に会った時に返せばいい。そう考え、椅子の背へ掛けようとする。  その途中で、セレンはふと外套を見た。  手に取ると、まだわずかに匂いが残っている。強いものではない。どこか焦げたような匂いに、ほんの少しだけ柔らかな香りが混じっている。 「……」  気づけば、呼吸がゆっくりと落ち着いていた。  理由はわからない。  セレンは外套を、わずかに自分の方へ引き寄せ、今度は胸いっぱいに吸い込んだ。 「……殿下……」  そう口にした瞬間、無意識の自分の行動に気付いてはっと我に返った。たちまち、身体がぼっと熱く火照る。  ……なにをしている。  誰か見ているわけでもないのに部屋の周りをきょろきょろと見渡して、それから慌てて外套を畳む。そうして椅子の上に置こうとした手を離そうとしたがなんとなく惜しかった。  しばらくしてようやく手を離した時、セレンは小さく息をついた。  明日、必ず返そう。  そう決めて灯りを落としたものの、暗くなった部屋の中でも、先ほど聞いた旋律と、外套に残っていた温もりや香りだけは、心から離れなかった。

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