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9.国事ですので-3

 その日、食事が終わりに近づく頃、セレンは最後に残っていた黒パンを食べ、杯の水を飲んだ。 「ごちそうさまでした」 「ああ」 「では、今日はこれで失礼いたします」  椅子を引き、セレンが立ち上がる。けれどその日は違った。  いつもなら、そのまま帰すところだった。 「セレン」  気が付けば、そう呼び止めていた。セレンが振り返り、星の光を集めたような髪が翻った。  リヴァルはその顔を見ながら、口を開く。  ミハイルに話をされた日から、考えなかったわけではない。むしろ、こうして何度も同じ食卓を囲むようになってからの方が、以前より考えることは増えていた。  子供が必要だからというだけではない。  目の前にいるセレンと、婚姻した時に決めていた距離のままでいる必要も、もうないと思っていた。 「……湯浴みの後で、もう一度部屋に来い」  やっと、それだけを言う。セレンはすぐには答えなかった。  灰色の瞳がリヴァルを見たまま、ほんのわずかに揺れる。言葉の意味を考えているらしい。やがて、俯いたその頬に薄く赤みが差した。 「セレン?」 「……はい」  いつもより遅い返事だった。もしかして無理をさせただろうか。 「嫌なら、来なくていい」  そう言うと、今度は先ほどより早く返事があった。 「行きます」  リヴァルはしばらくセレンを見た。 「そうか」 「はい。……では、後ほど」  セレンがそう言って、扉の向こうへ消える。  一人になった部屋で、リヴァルは食卓に残された二つの皿を見た。そして息をつく。  いつもと同じように夕食を食べて、いつもと同じようにセレンの話を聞いただけだ。  だが、次にあの扉が開く時はもう同じではないと、体がわかっていた。    ◇ ◆ ◇  部屋へ戻ったセレンは、扉を閉めると、その場で小さく息をついた。  胸の奥が落ち着かなくて、ざわざわしている。  ──湯浴みの後で、もう一度来い。  その言葉を頭の中で繰り返すたび、頬の熱が引いては戻る。意味はわかっていた。わかっているからこそ、返事が遅れた。  鏡に映る自分を見つめながら、首元を一周覆う金属の輪へそっと触れる。婚礼の日から、いつかはこういう日が来るのだろうと思っていた。それが今日だった。ただそれだけのことだと自分に言い聞かせても、指先はどこか落ち着かなかった。  湯に肩まで浸かる。温もりが身体を包んでも、心だけは妙に冴えていた。  リヴァルは「来い」と命じたあと、「嫌なら、来なくていい」とも言った。あの一言を思い返す。拒んでもいいと、わざわざ伝えたのだ。それでも、自分は行くと答えた。その返事に嘘はない。  セレンは湯から上がると、体の水気を拭き、新しい寝衣を選んで袖を通した。風を作る魔具で髪を乾かし終えても、まだ胸の鼓動は普段より少しだけ速くなっている。いつもなら湯浴みのあとで開いていた本の表紙を無意味になぞったりしたあとで、セレンはようやく部屋を出た。  部屋の扉の前まで来と、一度だけ深く息を吸った。夕食に呼ばれた時よりも控えめに扉を叩く。 「殿下。セレンです」 「入れ」  いつもと変わらない低い声だった。  扉を開けると、部屋には暖炉の火が静かに揺れていた。夕食の片付けはすでに終わり、机の上には書類も残っていなかった。  リヴァルは窓際から振り返り、セレンを見た。その視線は戦場で見せる鋭さとも、執務中の厳しさとも違う。ただ静かに、そこへ来たセレンを確かめるような眼差しだった。  部屋へ入り、扉を閉める。昼間と同じ部屋のはずなのに、不思議なくらい空気が違って感じられた。  やがてリヴァルが椅子を引き、向かいを示す。 「座れ」  勧められるまま腰を下ろすと、リヴァルも向かいへ座った。少しのあいだ、暖炉の薪の爆ぜる音だけが部屋に響く。  リヴァルの柘榴のような瞳がセレンを見つめ、ゆっくりと口を開いた。 「……一つ、確認しておくが」  セレンは姿勢を正した。自然と膝の上で指先が重なる。問いの内容はわからない。それでも、リヴァルが普段以上に真剣で、慎重であることだけは伝わってきた。 「ここに来たのは、お前自身の意思だな」 「はい」  セレンは静かに頷く。  思っていた問いとは違った。セレンは目を伏せる。胸の奥にあった緊張が、形を変えてほどけていく。 「無理はしていません」 「そうか」  短い返事だった。  けれど、その一言だけで終わらせず、リヴァルは続ける。 「俺は、婚姻した時、お前とは必要以上に踏み込まないつもりだったし、確かにお前にもそう言った」  セレンは黙って耳を傾ける。 「その考えは変わった」  暖炉の火が小さく音を立てる。 「最初はただの政略だった。正直、婚姻に興味もなかった。……だが、今は違う」  真正面から向けられる赤い瞳に、セレンは視線を逸らさなかった。 「毎日顔を合わせ、話を聞いて、同じ食卓を囲んでいるうちに……お前を、妻として見ていたいと思った」  飾り気のない言葉だった。気の利いた口説き文句でも、甘い囁きでもない。それでもリヴァルの拳はわずかに震えていて、言葉もどこか歯切れが悪かった。けれど、それがリヴァルの本心なのだとわかった。  セレンは小さく息を吸い、薄く微笑む。 「……ありがとうございます」 「礼を言うほどのことじゃないだろう」 「いいえ。ちゃんと、言葉にしてくださったので」  セレンは首を横に振る。リヴァルは一瞬だけ眉を動かした。 「私は、その方が安心できます」  その答えに、リヴァルは頷いた。 「なら、言ってよかった」  再び静かな間が流れる。どちらも急かそうとはしなかった。暖炉の火が揺れ、部屋の空気だけが穏やかにあたたまっていく。  リヴァルは椅子から立ち上がり、セレンの前まで歩み寄った。 「もう一度聞く」  低い声が静かに響く。す、と差し出された手が、セレンの前に置かれる。 「この先へ、進んでもいいか」  セレンはまっすぐにリヴァルを見上げると、迷いなく頷いた。 「はい」  そう返事をしてから、セレンはようやく手を差し出した。剣を握ってばかりの無骨な手が、静かに自分の手を重ねる。ややあって、リヴァルはそれを握り込む。壊れ物でも触れるくらいの優しいその仕草に応えるように、セレンも握り返す。  暖炉の火だけが、二人を柔らかく照らしていた。

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