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10.秘密-3

 執務室を出ると、廊下には昼下がりの光が差し込んでいた。扉が閉まれば、つい先ほどまで国家間の問題について話していたことが嘘のように、城内はいつもと変わらず静かだった。  セレンはリヴァルと並んで歩きながら、何度か口を開きかけたものの、結局なにも言えなかった。ルミナリアへ正式な照会が送られる以上、今の自分にできることはない。それでも、すぐに気持ちを切り替えることは難しかった。 「これからどうする」  不意に尋ねられ、セレンは隣を見る。 「……図書室へ戻ろうかと思います」 「そうか」  リヴァルはそれ以上、先ほどの話には触れなかった。  階段を下りたところで、訓練場へ続く廊下と図書室へ向かう廊下に道が分かれる。リヴァルは訓練場の方へ足を向けた。 「俺は訓練に行く。夕食はいつも通りでいいか」 「……はい」  あまりにも普段と変わらない問いかけに、セレンは一瞬返事が遅れた。昨夜、自分の体質について話した。今日になって、この婚姻が自分の知らないところで事実とは異なる説明によって結ばれていたこともわかった。  それでも、リヴァルの態度はなにも変わっていない。それだけで、なにか救われるような気持ちになった。 「では、またあとで」 「ああ」  リヴァルと別れ、セレンは図書室へ向かった。  いつもの席に座り、途中まで読んでいた本を開く。初めのうちは文字を追っていても先ほどの話が頭に入り込んできたが、時間が経つにつれて少しずつ内容に集中できるようになった。  窓の外では雪が降り始め、司書が暖炉へ薪を足していく。頁をめくる音と、時折薪の爆ぜる音だけが静かな室内に聞こえていた。  今すぐなにかが変わるわけではない。ルミナリアから返答が届くまでは、自分にできることもないのだろう。  そう思えるようになった頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。  夕食の席でも、リヴァルは普段と変わらなかった。昼間の訓練の話をして、セレンが図書室でなにを読んでいたのか尋ねる。セレンも答えているうちに、昼間から残っていた緊張が少しずつ薄れていった。  食事を終え、二人で廊下を歩く。それぞれの部屋へ向かう道が分かれるところまで来た時、リヴァルがセレンを呼んだ。 「セレン。……今夜はどうする」  セレンはすぐには答えられなかった。  リヴァルの部屋へ行きたくないわけではない。むしろ、昼間ずっと普段と変わらず接してくれたことに安心していたし、今もこのまま別れることを惜しいと感じている。  けれど、昨夜子供のことを話してから、リヴァルと過ごす夜を以前と同じようには考えられなくなっていた。 「……少し、考えてもよろしいでしょうか」  リヴァルは理由を尋ねなかった。 「来たければ来い。……待ってる」 「……はい」  それだけ告げると、リヴァルは自室へと引き返した。  セレンも自分の部屋へ戻り、湯浴みを済ませると昼間の続きを読もうと机に本を広げた。けれど今度は、頁をめくってもほとんど内容が頭に入ってこなかった。  しばらくして時計を見る。まだ遅くはない。ここからリヴァルの部屋までは、歩いてもそれほどかからない。  そう思いながら、セレンは本へ視線を戻した。  やがて、昨晩リヴァルの部屋へ向かった時刻を過ぎても、セレンは自室にいた。時計を見る回数だけが増え、本の頁はほとんど進んでいなかった。  リヴァルは、待っていると言っていた。今から向かったとしても、きっとリヴァルはなにも言わずに迎えてくれるだろう。それでも、セレンは部屋を出なかった。  リヴァルと一緒にいたくないわけではない。触れられることが嫌になったわけでもない。それならなぜ行けないのか。  考えてもうまく答えにはならないまま、セレンはずっと同じところばかり読んでいた本を閉じた。  それから数日後、ルミナリアから照会への返答が届いた。呼び出されたセレンがミハイルの執務室へ向かうと、すでにリヴァルとノエが来ていた。呼び出された理由はわかっていた。 「先に読んだ方が早いかな」  ミハイルから渡された書状に目を通し、セレンは途中で指先に力を込めた。  そこには、婚姻相手の変更はセレン本人の希望によるものであり、体質についても本人からすでにグランディオへ説明したとの報告を受けていたため、王家からは伝えなかったと記されていた。 「……な、なんですかこれは」  セレンは顔を上げ、ミハイルとリヴァルを見ては首を横に振った。 「私は、そのようなことは申し上げておりません。婚姻を希望したことも、自身の身体について説明したと父上に申し上げたこともありません」 「だろうね」 「わかってる」  ミハイルとリヴァルがそれぞれそう答える。 「つまり先方は、婚姻相手の変更も、体質について説明されていなかったことも、すべてセレン殿下ご本人の判断だったと主張しているわけです」  ノエの言葉に、セレンはもう一度書状へ目を向けた。  婚姻を望んだのも自分。  体質を伝えなかったのも自分。  グランディオとのあいだに問題を生じさせたのも、自分。 「……父上は、私がそうしたとおっしゃっているのですね」 「そういうことになる。こちらには、セレン殿下がそう言った私信を発信した記録はない。……私信だからこそ記録が残ってない、と言い張ることもできるけど」 「ずっと塔にいたのに、どうして私にそのようなことができるのですか」  セレンはそう反駁する。けれど誰も答えられる者はいなかった。  代わりに、リヴァルのため息が聞こえた。 「そこまでして、こいつを嫁がせたかったのか」  呆れた様子のリヴァルに、セレンは父王の思惑を推察する。 「……グランディオは大国です。グランディオの庇護が得られれば、ルミナリアとしても受ける恩恵は大きいです。それに、先の戦でルミナリア側の兵士はまだ癒えていません」 「そんなことをすれば、また矛先が向くのはそっちの国だろ」 「その通りです」  今度はミハイルが口を開く。 「言った言わないの水掛け論にしたいんだろうね。……困ったな」  父王が自分を必要としていないことはとっくにわかっていた。けれど、それとこれとは話が違う。いくらなんでも、と言いかけたが、結局口をついたのは 「……申し訳ありません」  それだけだった。  それ以上、なにを言えばいいのかわからなかった。 「陛下」  ノエが口を開き、ミハイルの元に膝をつく。 「ここまで先方の説明と事実に相違がある以上、婚姻そのものについても検討が必要かと存じます」 「どういう意味だ」 「婚姻の解消も、選択肢として考えるべきかと」  それを聞いて真っ先に浮かんだのは、それが一番正しいのかもしれないという思いだった。寂しさはあるけれど、致し方ない。本来であれば、処分されても仕方ない。 「必要ない」  リヴァルが即座に言った。 「殿下。しかし──」 「セレンを残す理由ならある。こいつは実戦で使える」  思いがけない言葉に、セレンは顔を上げた。 「前の戦でも俺の魔法に合わせて防壁を張った。それだけじゃない。戦術や兵站の話も理解する。まだ実戦経験が少ないだけで、使えるようになる余地はあるはずだ」  使える。その言葉が、セレンの耳に強く残った。  ルミナリアでは、自分になにができるのかを問われたことさえなかった。けれどリヴァルは、自分が戦場でしたことを覚えている。そして、それを必要なものとして数えてくれている。 「ノエの進言は政治的にはもっともだよ」  ミハイルが口を挟んだ。 「ただ、今すぐ婚姻を解消すると決める必要もない。ルミナリアへの対応も含めて、こちらで改めて検討する」 「承知いたしました」  話はそこで収まったが、セレンには一つだけ気になることが残った。 「……でしたら、側室をお迎えになるという方法もあるのではないでしょうか」 「いらん」  あまりにも早い返事だった。 「ですが、私ではお子を望めない可能性があります。婚姻を維持するのであれば、その方が──」 「いらんと言っているだろう!」  リヴァルの眉間に皺が寄った。いつも以上に不機嫌そうな顔に、セレンは一瞬口を噤む。 「俺は、お前に子供ができるから一緒にいると言った覚えはない」 「……ですが、先ほどは、私が戦場で役に立つからと」 「お前、俺が戦場で使えるからお前を妻にしておくと思ったのか」  セレンは答えに迷った。 「……違うのですか」 「違う。ノエが政治の話をするから、政治の話で返しただけだ。お前を残したいことと、お前が戦場で役に立つことは別だ」  リヴァルは苛立ちを隠さないまま続けた。 「俺は離婚するつもりも、側室を迎えるつもりもない。勝手に俺との婚姻から自分を外そうとするな」 「……申し訳ありません」 「すぐ謝る癖もやめろ」 「も、申し訳……」  謝りかけて、セレンはああまた、と嘆息した。リヴァルも同じ反応だった。 「まあ、今ここで側室まで考える必要はないよ。子供についても、できないと決まったわけじゃない。今はそれでいいだろう」  ミハイルが二人のあいだに割って入る。 「……はい」  セレンは頷いた。リヴァルは、自分との婚姻を続けたいと思っていることは理解できた。けれど同時に、別の言葉も残っていた。戦場で役に立った。まだ使えるようになる余地がある。  それが自分を妻として望む理由ではないと言われても、初めて自分にもできることがあると認めてもらえた事実は変わらない。  ならば、もっと役に立てるようになりたい。  少なくともその時のセレンには、それが間違った願いだとは思えなかった。

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