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12.役立たずでも諦めない-5
ミハイルの執務室を出てから、セレンは自室へ戻るつもりで廊下を歩いていた。
同盟は維持される。ルミナリアの民に賠償が課されることもない。そして、自分とリヴァルの婚姻も、今すぐどうにかなるわけではない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
リヴァルの帰りを、ここで待ちたい。
それは国から命じられたことでも、王族として果たさなければならない務めでもなかった。
セレンが自分で、そうしたいと思ったことだった。
だからひとまず安心していいはずなのに、最後にミハイルから言われた言葉だけが、何度も頭の中へ戻ってきた。
『今後この婚姻を続けるかどうかは、君とリヴァルの意思で決めればいい』
続けたいのかと問われれば、答えはもう決まっているような気がした。リヴァルが帰ってくるのを待ちたいと思ったことも、その答えの一つなのだろう。
ただ、それを本人へどう伝えればいいのかまでは、まだわからなかった。
「セレン殿下」
呼ばれて振り返ると、少し離れたところに侍女が立っていた。何度か見かけた顔だった。
「フィル様より、お茶のお誘いでございます」
「……私に、ですか?」
「はい。本日のご予定に差し支えがなければ、ぜひ、と」
セレンは少し考えた。図書室へ寄るつもりではいたものの、今日中に調べなければならないことがあるわけではない。
「わかりました。伺います」
「では、ご案内いたします」
連れて行かれたのは、以前子供たちと会った中庭に近い一室だった。後宮に行けばいいのかと思っていたが、どうやらセレンを招くため、フィルの方がこちらへ出てきたらしい。
侍女が扉を開ける。中庭のよく見える部屋に通され、セレンは中に入る。
「来た来た。どうぞ」
窓際の卓についていたフィルが、セレンを見るなり向かいの席を示した。
「お招きいただき、ありがとうございます」
「そんな堅くしなくていいって。お茶飲もうって誘っただけだから」
言われるまま腰を下ろすと、すでに卓には茶器と菓子が並べられていた。焼き菓子のほかに、干した果実や木の実もある。
フィルは自分で茶を注ぎ、セレンの前へ置いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「この前、子供たちの相手してくれたでしょ。そのお礼も兼ねて」
「お礼をいただくようなことはしておりません。髪を差し出していただけですので」
「髪を差し出す」
フィルが妙な顔をした。
「いやまあ、間違ってないけどさ。あの子たち、気に入った人には遠慮ないから」
「また遊ぶ約束もしました」
「してたね。聞こえてた」
セレンは茶を一口飲んだ。ルミナリアで飲んでいたものとは香りが違う。少し渋みが強いが、焼き菓子には合いそうだった。
「そういえば俺、前から聞いてみたかったんだよね」
フィルが頬杖をつく。
「なんでしょうか」
「リヴァル殿下と、どう?」
「……どう、とは」
「仲良くやってる?」
セレンは茶器を持ったまま考え込んだ。
「仲良く……ですか?」
「そんな難しい質問した?」
「いえ。結婚するのは初めてで、比較するものがありませんでしたので……」
「普通そうだよ」
フィルがとうとう吹き出した。
なにかおかしなことを言ったらしい。セレンはわからないまま茶器を置いた。
「でも、意外だったんだよなあ」
「なにがでしょうか」
「リヴァル殿下が結婚生活してること」
「……しております」
「それが意外なの」
フィルは焼き菓子を一つ取った。
「俺と陛下の婚礼にも来てくれたけど、儀式が終わったらすぐいなくなったし。宴でも必要な挨拶だけして、気づいたら消えてた。あの人、そういうことに本当に興味ないんだと思ってた」
「私の時も、婚礼が終わってすぐにいなくなりました」
「ほら」
「稽古へ行かれました」
フィルの手から、焼き菓子が皿へ戻された。
「待って。婚礼終わって、そのまま?」
「その前にも一度お会いしました。控え室の扉を間違えて入ってこられて」
「それが初対面?」
「はい。血まみれでした。戦場から戻られたばかりだったそうです。従者が悲鳴を上げていました」
数秒、フィルはなにも言わなかった。
やがて卓へ片手をつき、肩を揺らし始める。
「ちょっと待って。血まみれで花嫁の控え室に入って、婚礼して、そのあと稽古に行ったの?」
「はい」
「最悪じゃん!」
「そうでしょうか」
「そうでしょうかじゃないって!」
フィルはしばらく笑いが収まらないらしく、目元を指で拭っていた。
セレンはそんなにおかしな話だっただろうかと考えながら、焼き菓子を一つ取った。
「婚礼の儀の時は大人しそうな人だと思って大丈夫かと思ったのに、ずいぶん肝が据わってるんだね……」
「はぁ」
やがてフィルが落ち着きを取り戻す。
「それで、セレン殿下はあの人のどこが好きなの?」
焼き菓子を割ろうとしていた指に、わずかに力が入った。
「……好き?」
「違った?」
「いえ」
否定しようとは思わなかった。むしろ、なにを好きなのかと尋ねられたことがなかった。
セレンはしばらく考えてから、ゆっくり口を開いた。
「お優しいところ、です」
フィルが首を傾げた。
「リヴァル殿下が? あんなおっかないのに?」
フィルの、蜂蜜色の目が丸くなる。
「はい。私が魔力を使いすぎて倒れた時も、ずっと傍にいてくださいました。戦場でも、私が危険な時には助けてくださいます。それに、私がなにかをしたいと言えば、最初から無理だとは仰いません」
一つ口にすると、次が浮かんだ。
「私の魔法も、役に立つと言ってくださいました。剣も教えてくださいます。わからないことを尋ねれば、言葉は少ないですが、きちんと答えてくださいます」
「……うん」
「それから」
セレンは少し迷った。
「私が、自分を大切にしていないと叱られました」
フィルはもう笑っていなかった。
「怒るんだ、意外。怖くなかった?」
「いいえ。ちゃんと、嬉しかったです。私がどうなっても構わないのではなく、私自身も守るべきものの中に入れてくださったので」
セレンは首を振った。口にしてみて、初めて自分でも腑に落ちた。
フィルはしばらく、セレンをじっと見ていた。
「……そっかあ。あの無愛想で堅物で色恋沙汰なんて全然興味なさそうだったのがねぇ」
それから茶器へ手を伸ばす。
「愛されてるねえ」
「え」
「いや、なんでもない」
「今、なんと──」
「なんでもないって」
フィルは茶を飲んで誤魔化した。
セレンは納得できなかったものの、それ以上追及することもできず、自分も茶器へ手を伸ばした。
今度はフィルが口を開く。
「じゃあ、俺の話もしようか」
「フィル様の?」
「そう。俺ばっかり聞くのも悪いし。聞きたい? 陛下のどこが好きか」
フィルの目が好奇心で輝く。興味のあったセレンは、こくりと頷いた。
「ぜひ」
「そこは即答なんだ」
フィルは茶器を置くと、にやっと嬉しそうに笑った。
「いっぱいあるよ。俺は王族でも貴族でもないし、魔法も使えない。最初なんか礼儀も全然わかんなかったし。でも陛下は、最初から俺をそういうので扱い変えなかった」
そこでフィルの指が、無意識のように自分のうなじへ触れた。そこにはミハイルと番になった時の名残だろう噛み跡が残っていた。フィルのしなやかな指が、それを愛おしそうになぞる。
「俺がオメガだからってだけでもない。子供を産めるからでもない。俺だからここに置いてくれてるって、ちゃんとわかるんだよね」
セレンは黙ってその話を聞いていた。
「それにさ」
フィルが声をわずかに落とす。セレンは肩を寄せ、フィルの声に耳を傾ける。
「普段あんなになんでも余裕そうにしてる人が、俺の発情期になるとちょっとだけ余裕なくなるのも好き」
「……余裕が、なくなる? 陛下が、そのようになるのですか? ……あまり想像できません」
「でしょ? だからいいんだよね〜」
フィルはそう言ったあとで、口元に人差し指を当てて笑った。
「あ、本人には絶対言わないでね」
「はい」
「絶対だよ?」
「承知しました」
セレンは真面目に頷いた。
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