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13.暗雲-1

 フィルとの茶会から数日、セレンは決まったような一日を過ごしていた。  朝食を終えると図書室へ向かい、今まで以上に昼まで本を読む。調べるものは魔法に関するものだけではなくなっていた。グランディオの法律、王宮の制度、北部で採れる鉱石について書かれた本にも手を伸ばした。 「殿下、先日お探しだった魔力循環について、新しい資料が返却されました」  顔馴染みになった司書が、何冊かの本を抱えてやってくる。 「本当ですか」 「はい。こちらです。ただ、かなり古い研究ですので、現在とは術式の表記が異なります」 「ありがとうございます。読んでみます」  読書に至っては、昼になるまで夢中で読み、気づけば食事の時間を過ぎていることもあった。  午後はいつものように練習場へ向かった。まだ剣に振り回されることもある。それでも、最初に教わった頃よりは足運びも安定してきたし、体力もついた。城に残った兵士との手合わせではまだまだ負け続きだが、それでもあともう少し、という実感も湧いてきた。  練習場から戻る途中で子供たちに捕まれば、その日の予定は多少変わった。 「セレンでんか、髪やらせて!」 「駄目です」 「なんでー?」 「これから湯浴みをしますので」 「じゃあ明日!」 「……明日なら、いいですよ」  また約束が増えた。  フィルと顔を合わせれば茶に誘われることもあった。ヤオは以前と変わらず必要な時だけ傍にいて、セレンが本を抱えすぎていれば半分を無言で取り上げ、練習場から戻るのが遅ければ廊下で待っていた。  夜になれば春の雲に霞む月を窓から見上げ、時折リヴァルのことを考えた。  今、彼はどこにいるのだろう。戦いは続いているのだろうか。怪我はしていないだろうか。  帰ってきたら話したいことが、少しずつ増えていた。  子供たちにまた髪を編まれたこと。北部の古い魔法について、面白い記述を見つけたこと。剣を五十回振っても、翌朝まで腕が痛まなくなったこと。  どれも、手紙に書いて戦地へ送るほどのことではないと思った。だから、帰ってきた時に話したい。前みたいに一緒に食事をしながら、これまでのことを話して。戦地ではどうやって過ごしていたのか、戦局はどうだったのかも聞きたい。  そうしているうちに、十日ほどが過ぎた。  最初に変化を感じたのは、いつもの図書室だった。  その日、セレンは魔法関係の書架から一冊を抜き、貸出を頼むため受付へ持っていった。 「こちらをお借りしても?」 「……どうぞ」  司書は受付に置かれた本を見ると、必要な手続きをすぐに済ませてくれた。 「ありがとうございます」 「いえ」  司書はセレンを見ないまま本を返す。セレンは本を受け取り、いつもの席へ向かった。  椅子へ腰を下ろしてから、ふと受付を見る。  以前なら、新しく入った資料のことを教えてくれたり、セレンが探している分野について尋ねてくれたりした。  今日は忙しいのだろうか、となんとなく思う。  利用者も何人かいる。そういう日もあるのだろうと考え、本を開いた。  翌日、廊下を歩いていると、前方から従者が二人やってきた。 「それ、本当なの?」 「だって、正式な回答が──」  目が合った瞬間、二人の声が途切れた。セレンが近づくと、揃って壁際へ寄る。 「王妃殿下、こんにちは」 「失礼いたします」  礼の仕方にも言葉遣いにも、失礼なところはない。  セレンも軽く一礼して、そのまま通り過ぎた。なぜか、言葉は出なかった。  少し進んだところで、背後から先程の従者の話し声がまた聞こえた。  今度は、内容まではわからなかった。自分とは関係のない話だろう。城には多くの人間が暮らしている。セレンが近づいた時に、たまたま話が終わっただけかもしれない。  その翌日の昼、セレンは食堂を訪れた。けれどその日、料理を運んできた従者が、皿を置いたあともその場を離れなかった。 「王妃殿下」 「はい?」  従者は周囲を気にしてから、声を低くした。 「どうか、お気を強くお持ちください」  セレンは匙を取ろうとしていた手を膝へ戻した。 「なにを、でしょうか」 「……あ、いえ」 「なにかあったのですか?」 「申し訳ございません。余計なことを申しました。……失礼します」  従者は深く頭を下げ、足早に去っていった。  セレンはその背中を見送り、しばらくしてから食事へ向き直った。  今度は、気のせいとは思えなかった。  それからは食堂にいる人々を意識して見るようになった。  兵士たちが数人、離れた卓で食事をしている。普段なら気に留めることもない声がところどころ耳に入り、時折視線を感じる。  よくわからない。けれど城の中で、自分についてのなにかが広まっているように見えた。  翌日、セレンはいつも通り図書室へ向かった。  受付にいた司書へ挨拶をして、書架の奥へ入る。探していた本は魔法ではなく、グランディオに生息する植物についてまとめられたものだった。  棚に並ぶ背表紙を追っていると、向こう側から声がした。 「発情期が一度もないんだって」  指が、探していた本の背を通り過ぎた。 「それを隠して嫁いできたって?」 「ルミナリア王家は知っていたらしいよ」 「じゃあ本人だけ知らなかったっていうのか?」 「そんなことあるか?」  誰の話をしているのか、考える必要もなかった。 「でも、第四王女の代わりに来たことだって、知らなかったって話じゃない」 「それも本人が言ってるだけだろ」 「婚礼の日には、自分から嫁ぎたいと言ったらしい  セレンは書架を挟んだ向こう側を見つめた。姿は見えないまま、声だけが聞こえる。 「だったら話が合わないじゃないか。ルミナリアは本人が望んだって説明してたんだろ?」 「じゃあ、最初から──」 「そこまでにしろ。誰に聞かれるかわからない」  足音が遠ざかって行く。セレンは、しばらくその場に立っていた。  言われていたことの大半は、間違っていなかった。  発情期が一度も来ていない。ルミナリア王家はそれを知っていて、グランディオには伝えていなかった。  第四王女の代わりに自分が送られた。  そして婚礼の日、自分はリヴァルに嘘をついた。  セレンは結局、本を借りずに図書室を出た。  それから二日ほどして、フィルが部屋を訪ねてきた。 「セレン殿下、いる?」 「はい」  いつもなら茶に誘われるところだったが、その日のフィルは一人だった。 「ちょっと、聞いていい?」 「なんでしょうか」  フィルはすぐには言わなかった。 「……発情期、一度も来たことないって、本当?」 「はい」  見開かれた金色の瞳に浮かんだのは、驚きだった。  それだけなら当然だったのかもしれない。けれど、その次にフィルがなにを考えたのか、セレンにはわからなかった。 「そうなんだ。ごめん、偶然聞いちゃってさ」 「お伝えしておりませんでしたね」 「うん。俺も聞かなかったし。……そもそも、そんな人前で言うもんじゃないしね」 「申し訳ありません」 「なんでセレン殿下が謝るの」  フィルは眉を寄せた。 「そのこと、リヴァル殿下は?」 「知りませんでした。私も、伝える必要があるとは考えていませんでした。てっきり伝わっているものかと思って……」 「婚礼の時も? ……ルミナリアが、グランディオに伝えてなかったことも?」 「知りませんでした」  フィルは黙って、セレンの話を一通り聞いてくれた。同盟がなくなると思って、嘘をついてしまったことも。  フィルは額を押さえた。 「……そっか。セレンも王子様だもんな。そりゃそう考えるか」  やがて顔を上げる。 「ごめん」 「なにがでしょうか」 「俺も、セレン殿下から話を聞くまで、一瞬だけ変なこと考えた。噂を先に聞いて、もしかして、って」  セレンはフィルを見る。そう思われても仕方ないと、セレンは「そうですか」と口にして飲み込もうとした。 「でも違った。ちゃんと聞けばわかることだった。……俺はセレン殿下を信じるよ」  真っ直ぐな声でそう言われて、ミハイルがなぜ彼に惹かれたのか、なんとなくわかる気がした。 「ありがとうございます」  フィルが帰ったあとも、その言葉は残った。  嬉しいはずだった。信じてもらえたのだから。  それなのに翌日、廊下ですれ違った侍女から「私は王妃殿下を信じております」と言われた時、セレンはすぐに礼を返せなかった。  別の従者には「どうかお気になさらず」と言われた。  食堂では、以前のように話しかけてくれる者もいた。  ヤオもなに一つ変わらなかった。朝になれば部屋へ来る。予定を聞く。本を運ぶ。練習場へ行けば付き添う。  誰も、セレンを追い出そうとはしなかった。  それでも「信じています」と言われるたびに、信じるかどうかを決めなければならない人間になったのだと思い知らされた。  なにも知らなかった頃には、そんな言葉を掛けられたことはない。  そのうち、図書室へ行く回数が減った。  食事も部屋で取ることが増えた。  子供たちは相変わらずセレンを見れば駆け寄ってきたし、部屋にまで押しかけてくることもあったが、やがて後宮に戻ったのか、城で見かけることもなくなった。  部屋にいれば、誰かの話が自分のところまで届くこともない。  その方が、楽だった。

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