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13.暗雲-2

 ある日の午後、セレンは自室で本を読んでいた。図書室へ行かなくなってから、数日が経っている。借りたままになっている本が何冊かあったので、読むものには困らなかった。返却はヤオに代わりに行かせた。  扉が叩かれた。 「はい」 「私だよ。入っても?」  聞き覚えのある声に、セレンは本を閉じた。 「どうぞ」  扉を開けて入ってきたのはミハイルだった。護衛は廊下に残してきたらしく、一人で小さな箱を抱えている。立ち上がろうとすると、ミハイルは手で制した。 「そのままでいいよ。今日は公務で来たわけじゃないから」  そう言われても国王を立たせたままにはできない。セレンは向かいの椅子を勧め、自分も座り直した。 「今日は、どうされたのですか」 「君に渡すものがあってね」  ミハイルが持っていた箱を卓上へ置いた。 「前線から荷が届いた。リヴァルから君へ」 「リヴァル様から?」  思いがけない名前に、いつもより少し高い声が出た。セレンは箱を見る。 「開けてごらん」 「はい」  蓋を持ち上げると、中には髪留めが収められていた。長い棒のような銀色の細工の先に、小さな青い石が嵌め込まれている。華美な装飾はなく、長い髪をまとめるための実用的な作りをした、髪留めだった。 「……綺麗」  なぜ、リヴァルがこれを。  箱の中には、折り畳まれた紙も入っていた。セレンは取り出して開く。 『立ち寄った村で見つけた。お前にやる。追伸:ちゃんと肉食って寝ろ』  それだけだった。手紙にするようなことでもない。それでも太くて真っ直ぐな線で書かれたそれは、間違いなくリヴァルから自分へ宛てられたものだった。  こういうのをもらったのは、初めてだった。戦地からわざわざ書くほどの内容でもないような気がする。それでも、捨てる気にはなれなかった。 「彼にしては珍しいね」  ミハイルは向かいから手紙を眺めていた。セレンも頷く。 「ノエにせっつかれたのかもしれません」 「私も同じことを考えていた。……ノエか、ガルドかな」 「ガルド殿もでしょうか」 「可能性はあるよ。あれが自分から『手紙を書こう』と思ったのなら、それはそれで見ものだけど」  ミハイルがそう言って笑うと、セレンも釣られて笑ってしまった。  セレンは紙面へ戻した目を、そのまましばらく動かせなかった。誰かに言われたのだとしても、書いたのはリヴァルだ。村で髪留めを見つけた時も、自分の髪を思い出したのだろう。 「つけても、よろしいでしょうか」 「もちろん。君のものだよ」  セレンは箱から髪留めを取り出し、鏡の前へ向かった。長い髪をまとめ、銀の留め具を差し込む。初めて使うため少し手間取ったが、どうにか留めることができた。青い石が白灰色の髪の上に覗いているのを見て、ミハイルへと振り返る。 「似合っていますか」 「うん。リヴァルにしては悪くないね。ふふ、私が先に見たと知ったら、やきもちを焼かれそうだ」 「そうでしょうか」 「そうだよ。あれでいて負けず嫌いだしね」  それなら、帰ってくる日にもつけよう。セレンは鏡を見ながら、そう決めた。 「……セレン殿下」  背後から呼ばれ、鏡越しにミハイルを見る。先ほどまでとは違い、ミハイルは卓の上で指を組んでいた。 「少し、話しておきたいことがある」  セレンは髪留めに触れていた手を下ろし、席へ戻った。 「城内で広まっている噂についてですか」 「知っていたんだね。……いつから?」 「数日前からです。最初は、私のことだとは思っておりませんでした」  図書室の司書が以前ほど話しかけてこなくなったこと。廊下で、自分が通ると従者の会話が途切れたこと。食堂の従者から、気を強く持つよう言われたこと。そして、図書室で聞いた会話についても話した。  ミハイルは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。 「発情期が一度もないことも、知られているようです」 「そこまでか」 「はい。それから、ルミナリアがそれを隠していたことも。第四王女の代わりに私が来たことも」 「……思っていたより広いな」 「陛下はご存じだったのですか」 「噂が出ていること自体は、昨日報告を受けた。ただ、どこまで具体的な内容が流れているのかを調べているところだった」  セレンは髪留めの入っていた箱を見る。 「誰が漏らしたのでしょうか」 「まだわからない。調査に関わった人間は多い。ルミナリアとの書簡を扱った者もいれば、記録を洗い直した者もいる。どこから出たのかを断定するには早いね。──ただ、問題はそれだけじゃない」  ミハイルの声が低くなり、いつになく張り詰めたような面持ちになる。 「事実と憶測が混ざり始めている」 「……それは、どういうことでしょうか」 「君の発情期が一度も確認されていないこと。ルミナリア王家がそれを事前に申告しなかったこと。婚姻相手の変更について虚偽の説明をしていたこと。ここまでは事実だ」 「はい」 「けれど、君自身も最初からすべて知っていて、王家と示し合わせてグランディオを欺いたという話まで出ている。でも、それは事実ではない。私もそこは洗ったし、相違があることは認識している」  即座に言われ、セレンはミハイルを見た。 「私や私の国にいい印象を持たないのは、当然なのではないでしょうか」 「当然とは思わない」 「ですが、そう考える理由はわかります」  ミハイルはすぐには答えなかった。 「……そうだね。疑念を持つ人間が出る理由は理解できる。だからこそ、こちらも事実を整理して示す必要がある」 「公表するのですか」 「少なくとも、王宮内には正式な説明を出すつもりだ。放っておけば、人から人へ伝わるたびに別の話になる」 「そう、ですか」 「君に責任を負わせる内容にはしないよ」 「ありがとうございます」  礼を言ったものの、胸の中にあったものは消えなかった。ミハイルが否定してくれる。フィルも信じると言ってくれた。ヤオも変わらず傍にいる。それでも、説明を出さなければならないほど、自分は疑われている。その事実だけは変わらなかった。 「それから、リヴァルには私から伝える」  セレンは顔を上げた。 「……このことを、ですか」 「いずれ耳に入る。なら、妙な形で伝わる前にこちらから知らせた方がいい」  戦地にいるリヴァルの姿が頭に浮かんだ。今頃は、自分が髪留めを受け取ったことすら知らないだろう。城内で自分がなにを言われているのかも。 「わかりました。……お願いします」  セレンは髪に触れた。銀細工の形を、指先がなぞる。  遠い村でこれを見つけ、自分へ送ってくれた人に、次に届く知らせがこんな話になる。そのことが、なぜかひどく申し訳なく思えた。

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