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13.暗雲-3

 ミハイルが帰ったあとも、セレンはしばらく髪留めを外さなかった。鏡の前へ戻り、白灰色の髪の間から覗く青い石を見る。不思議と馴染んで見えた。  リヴァルが帰ってくる頃には、噂も落ち着いているだろうか。少しだけ胸が締め付けられる。ミハイルが正式な説明を出すと言ってくれたのだから、少なくとも今より悪くなることはないはずだ。 「……大丈夫」  鏡の中の自分へ言い聞かせるように呟き、セレンは髪留めを抜いた。箱へ戻そうとして、少し迷う。結局もう一度髪へ差し込み、その日は夕食までつけたまま過ごした。  翌日、王宮内には国王から通達が出された。婚姻相手の変更はルミナリア王家の判断によるものであり、セレン本人には事前に知らされていなかったこと。体質に関する情報の不申告についても、セレンが関与した事実は確認されていないこと。事実と異なる噂を流布しないよう求める内容だった。  効果はあった。  少なくとも、城内で露骨に会話をやめる者は減った。廊下を歩けば以前と同じように礼をされ、食堂でも必要以上に気遣われることはなくなった。図書室へ本を返しに行った時には、司書の方から声をかけられた。 「殿下。以前お探しだった魔力循環についての資料ですが、昨日返却されました」 「……本当ですか」 「はい。お持ちいたしましょうか」 「お願いします」  以前と同じ。それだけのことが、嬉しかった。  セレンは借りた本を抱えて部屋へ戻った。途中ですれ違った従者たちも、いつも通り頭を下げた。こちらから挨拶をすれば返してくれる。  大丈夫なのだと思った。  ミハイルが事実を示してくれた。自分のことを知っている人たちもいる。時間が経てば、きっと元に戻る。  そう思える日が、二日ほど続いた。  その日、セレンは久しぶりに練習場へ向かっていた。部屋に籠もっていたせいで、剣を握るのも数日ぶりになる。身体が鈍っていないか確かめたかった。リヴァルが戻ってきた時、以前より下手になっていたらなんと言われるだろう。  そんなことを考えながら外廷へ続く回廊を歩いていると、正面から兵士が二人やってきた。セレンは端へ寄る。兵士たちもこちらに気づき、片方が足を緩める。 「王妃殿下」  もう一人が頭を下げた。セレンも軽く会釈を返し、その横を通り過ぎようとした。 「……よく平気な顔して歩けるな」  低い声が聞こえた。誰に向けられたものなのか判断できず、セレンは振り返った。  先ほど頭を下げなかった兵士が、こちらを睨んでいた。隣の兵士がその腕を掴む。 「おい、やめろ」 「なにが違うんだよ」 「陛下から通達が出ただろ」 「あんなもの、王妃を庇ってるだけかもしれないだろ」  セレンは二人を見ていた。  頭のどこかでは、離れた方がいいとわかっていた。護衛を呼ぶべきなのかもしれない。けれど足は、その場から動かなかった。  兵士がこちらへ顔を向ける。 「発情期が来ないことも黙ってたんだろ」 「それは……」 「おい!」  隣の兵士が強く腕を引いた。 「もう行くぞ」 「殿下はあんたを庇って死にかけたんだぞ! そんなお優しい殿下に、今まで大事なこと黙ってたのかよ!」  回廊に声が響いた。近くにいた従者や兵士がこちらを見る。 「王家ぐるみで騙しておいて、自分だけ知らなかったで済むのかよ!」  セレンは口を開いた。  違う。  自分は知らなかった。婚礼について知らされたのも、グランディオへ着いてからだった。発情期について隠すよう父王に頼んだこともない。  説明すればいい。  ミハイルが通達に書いてくれたことを、そのまま話せばいい。 「私は──」 「この嘘つき王妃! 俺たちを騙しやがって!」  その声だけは、はっきり聞こえた。  周囲が騒がしくなる。別の兵士たちが駆け寄り、男の両腕を押さえた。 「なにをしている! 王族への侮辱だぞ!」 「殿下の御前である、発言を慎め!」 「離せ! 本当のことを言ってなにが悪い! まだなにか隠してるかもしれないんだぞ!」  男は連れていかれながらもなにかを叫んでいた。けれど、セレンにはもう言葉として入ってこなかった。  嘘つき。  その一言だけが残った。 「殿下」  誰かに呼ばれた。近くにいた従者だった。けれど、上手く顔を上げることができなかった。 「王妃殿下、大丈夫ですか」 「……はい。大丈夫です」  答えは自然に出た。  怪我はしていない。兵士に触れられてもいない。だから、大丈夫。 「練習場へ行くところでしたので」  セレンは歩き出そうとしてようやく顔を上げたが、そこで周囲の人間がこちらを見ていることに気づいた。  心配そうにしている者がいる。先ほどの兵士を憤った顔で見送る者もいる。その中に、なにを考えているのかわからない顔もあった。  あの兵士だけなのだろうか。  ふいに、そんな疑問が浮かんだ。  ミハイルが命じたから口にしないだけで、本当は同じことを考えている人間がほかにもいるのではないか。  司書も。食堂の従者も。廊下ですれ違った人たちも。  そこまで考えて、セレンは首を振った。  違う。  司書は本を探してくれた。食堂の従者も心配してくれた。ヤオは噂が出る前となにも変わらない。フィルも、ミハイルも、自分の話を聞いてくれた。  わかっている。  わかっているのに、先ほどまで普通に歩けていた回廊が、急に居心地の悪い場所に思えた。 「……今日は、戻ります」 「護衛をお呼びします」 「いえ。部屋までは近いので」 「ですが──」 「大丈夫です」  また同じ言葉を使った。  今度は、自分でも少し無理があるように聞こえた。  部屋へ戻ると、セレンは剣を壁際へ立てかけた。結局、稽古場へ向かうことはできなかった。  卓の上には、リヴァルから届いた箱が置いてある。  蓋を開けると、銀色の髪留めと、折り畳まれた短い手紙が収まっている。  セレンは髪留めを手に取り、掌の上で青い石を眺めた。  リヴァルはこれを見た時、自分を思い出して、買ってくれた。それだけは、誰がなにを言っても変わらない。 「……大丈夫」  声に出してみた。けれど今度は、鏡の前で言った時のようにはいかなかった。声が震えて、尻すぼみになった。  自分が嘘をついたこともまた、変わらない。  国を、守りたかった。婚姻を破談にしたくなかった。あの時は、それしか思いつかなかった。そうすれば、自分が役に立てると思ったから。  けれど理由があれば、嘘でなくなるわけではない。本当は結婚したいかどうかも、わからなかった。  セレンは手紙を畳み、髪留めと一緒に箱へ戻した。  帰ってきたリヴァルに、これをつけたところを見せたいと思う。その気持ちは今も変わっていない。  ただ、その隣に自分が立つことで、リヴァルまでなにかを言われるのだとしたら。  その考えを、セレンは最後まで形にしなかった。  まだリヴァルは帰ってきていない。だから、今決めることではない。  そう思って本を開いたものの、その日は同じ行を何度読み直しても、ほとんど頭に入らなかった。

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