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14.隣で-2
久しぶりに歩くその横は、記憶していたよりも近く感じた。
ミハイルの執務室へ入ると、すでにノエがいた。セレンはその姿を見て、前線から一緒に戻ってきたのだと知った。
「お帰り、リヴァル。予定より随分早かったね。あと四日はかかると聞いていたけど」
「そんなにかける必要がなくなった」
リヴァルは答えながら椅子へ腰を下ろした。ノエが眼鏡の位置を直す。
「殿下が当初の作戦を途中で変更されましたので」
「余計なことを言うな」
「事実です」
「結果は同じだ」
「兵站を預かる側としては、過程も重要です」
いつものことなのか、ミハイルは止めなかった。
セレンだけが話についていけず、二人を見比べる。
「作戦を変更されたのですか?」
「必要だった」
「なぜ?」
リヴァルがセレンを見る。
「お前の話を聞いた」
なんのことか、尋ねる必要はなかった。セレンは袖を手の内に握り込む。
「……まさか。それだけで、作戦を変更して、帰ってこられたのですか」
「別に。向こうはほぼ片づいていたからな。残りを潰して戻った」
リヴァルは当然のことのように言った。
「それだけ、ですか」
「そう言っているだろう」
セレンはノエを見る。ノエはなにも言わなかった。けれど否定もしなかった。ミハイルも口を挟まない。
つまり、本当に自分のことを聞いて、帰還を早めたのだろう。
「……ありがとうございます」
「だから、なぜ礼を言う」
「帰ってきてくださったので」
リヴァルの眉が寄った。
今度はセレンにも、その理由が少しわかった。
「……お帰りなさいませ」
「ああ」
リヴァルはいつもみたいに頷いてくれたのを見て、セレンはわずかに頬を緩めた。
ミハイルが机の上の書類を一つ脇へ退ける。
「再会したばかりで悪いけれど、本題に入ろうか。リヴァルにも詳しい状況を共有しておきたい」
室内の空気が変わった。
ミハイルは、王宮内で始まった噂がすでに城外へ流れていることを説明した。
酒場や市場でも、ルミナリアが婚姻相手を直前になって第四王女から第一王子へ変更したことや、その経緯について虚偽の説明をしていたこと、セレンの体質についてまで話す者が確認されている。国王名義で事実関係を示したものの、王家がセレンを庇っているだけだと受け取る者もいる。
そして二日前の兵士の一件まで話が及んだところで、リヴァルの眉間に深い皺が刻まれた。かと思えば突然立ち上がり、剣を持ってどこかへ行こうとする。その足音は物々しく、激しい。
「リヴァル、どこに行く」
ミハイルの声が飛ぶ。いつになく硬い声に、扉を開けようとしていたリヴァルが止まる。
「その兵士はどこだ」
「処分はこちらで決める。君が出るところじゃない」
「俺の伴侶に手を出した」
「手は出されておりません」
セレンが訂正すると、リヴァルがこちらを向いた。
「同じだ」
セレンはそれ以上言えなくなった。ミハイルは二人のやり取りを聞いてから、話を続けた。
「それから、もう王都だけの問題とも言い切れなくなってきている」
「どういうことですか」
セレンが尋ねる。
「周辺国の使節から、今回の婚姻について遠回しな照会が来ている。こちらの内情を探っているんだろうね」
「他国にも……」
「噂というのは国境で止まってくれないからね。今のところ大きな動きはない。ただ、グランディオ王家とルミナリアの間に亀裂があるのか、リヴァルの婚姻が王家内部の問題になっているのか。その辺りを探ろうとしている国はある。西の隣国のイオネスや、東国のペルカも──」
リヴァルが舌打ちをする。
「……それだけではありません」
ノエが口を挟んだ。ミハイルが彼を見る。
「セレン殿下にも共有しておくべきかと」
「なんでしょうか」
セレンが尋ねると、ミハイルはすぐには答えなかった。
「リヴァルには、君の前にも婚約者がいたことは知っているね」
「はい」
グランディオへ来る道中でも、その噂は聞いた。前の婚約者を激しい寵愛の末に死なせたという、今となっては事実とは思えない話だった。
「実際には、あの婚約も他国との関係を結ぶためのものだった。ただ、相手が我が国の情報を国外へ流そうとしていたことが発覚して、婚約は破棄された。しかも、王妃に成りすました影武者の間者だった。未遂に終わったこともあって、公になっているのはそこまでだけど」
セレンは隣のリヴァルを見た。
「ですが、その後について記録がない」
ノエが続ける。
「そのため、以前から様々な憶測がございます。国民へは、婚姻は解消されたとの発表を行いました。ですが、城内には実際の処遇を知る者がまったくいないわけでもありません」
「……それと、今回のことになにか関係が?」
「比較されているんだよ」
ミハイルが答えた。
「以前は、外国から迎えた婚約者がグランディオを欺こうとして婚約を破棄された。今回は、ルミナリアが婚姻交渉で実際に虚偽の説明をしていた。それなのに、君は今もリヴァルの伴侶としてここにいる」
「それは、私が関与していなかったからでは……。それに、私はルミナリアの正当な第一王子です」
「私たちはそう判断している。けれど、全員がそう受け取るわけではない」
ミハイルはそこで言葉を切った。
「なぜ、あの第二王子が今回だけ相手を庇うのか、とね」
セレンはなにも言えなかった。
「君がオメガであることと結びつける者もいる。発情期がなくとも、フェロモンになんらかの特殊な作用があり、リヴァルの判断に影響を与えているのではないか。そういう憶測まで出始めている」
「くだらん」
戻ってきたリヴァルは音を立ててソファに座り、そう吐き捨てた。
「はい。根拠はありません」
ノエも即座に言った。
「ですが、問題は真偽だけではございません。第二王子殿下が外国の王族によって正常な判断を妨げられているのではないか、という疑念そのものが利用されかねないことです」
「はぁ? 俺が誰をそばに置くかくらい、自分で決める」
「私もそう思っているよ」
ミハイルはリヴァルを見た。
「けれど、外交では君が実際に正常かどうかより、正常ではないと他国に思わせる余地があること自体が問題になる」
セレンは黙って、手のひらに爪を立てた。
前の婚約者は、国を欺こうとしてリヴァルの傍から排除された。
自分の国も、グランディオを欺いた。
それなのに自分だけは、今もここにいる。
その理由を、リヴァルが自分を信じているからだと考えていた。
けれど外から見れば、それすら別の意味を与えられる。
自分を守ってくれることまで、この人が正常な判断を失っている証拠にされる。
「俺たちがどうしていようが、他国には関係ない」
リヴァルが吐き捨てる。
「本来ならね」
ミハイルは否定しなかった。
「でも、利用できると思えば利用する。それが外交だよ。……どの国だって、自分の国を豊かにしたいし、自国に有利な条約を作りたいさ」
セレンは隣に座るリヴァルを見た。
この人は、自分のために予定を早めて帰ってきた。髪留めを見つければ、自分を思い出してくれた。噂を聞いても、なに一つ疑っていない。
それが嬉しかった。
嬉しいと思えるからこそ、ミハイルの話を聞き流すことはできなかった。
これはもう、自分が我慢すれば済む話ではない。
グランディオ王家への信頼に関わり、第二王子であるリヴァルの立場に関わり、その隙を探る国まで出てきている。
セレンは髪に挿した銀細工へ触れた。
リヴァルが帰ってきたら、見せたいと思っていたし、ちゃんと見てもらえた。
それだけで、昨日までよりずっと息がしやすい。
だから今はまだ、別の答えを考えたくなかった。
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