50 / 74
14.隣で-3
その夜、湯浴みを終えたセレンは寝衣に着替え、鏡の前で髪を梳いていた。昼間は髪留めでまとめていた髪も、今は背中へ流している。鏡台の隅には、リヴァルからもらった銀細工を置いていた。青い石が灯りを受けて光るたび、今日のことが頭に戻ってくる。
帰ってきたリヴァルを見た時は、それだけでよかった。けれどミハイルの執務室で聞いた話は、時間が経つほど重みを増していた。自分を庇うことまで、リヴァルが正常な判断を失っている証拠として扱われる。そんな噂が他国にまで届き始めている。
考えても答えは出ないまま、髪を梳き終えたところで扉が叩かれた。
「俺だ」
セレンは椅子から立ち、扉を開けた。
「リヴァル様」
彼は昼間とは違う簡素な衣服に着替えていた。髪もまだ完全には乾いていない。戦場から戻ったばかりだというのに、こんな時間まで起きていたらしい。
「どうされたのですか」
「入るぞ」
「あ、はい」
身体を退けると、リヴァルは部屋へ入り、後ろ手に扉を閉めた。
「今日はもう、お休みになった方がよろしいのではありませんか」
「そのつもりだ」
「でしたら、お部屋へ……」
「ここで寝る」
「……ここで?」
セレンは寝台を見た。
「嫌か」
「いいえ。そうではありませんが」
むしろ嬉しい。そう答えるのは気恥ずかしく、セレンは別の理由を口にした。
「戦から戻られたばかりでしょう。お疲れなのではないかと」
「疲れているから寝ると言っている。なんだ、妻の部屋に夫が来るのはいけないのか」
「いえ……」
リヴァルはそれ以上説明する気もないらしく、寝台へ向かった。
セレンも灯りを落とし、反対側から寝台へ入った。久しぶりに隣へ感じる人の重みで、寝具が沈む。
「リヴァル様。本当に、お怪我はないのですか」
「昼にも聞いただろう。ない」
「そうですか」
同じやり取りをした覚えがある。けれど本人がそう言うなら、これ以上確かめようもない。けれどそこでなにを思ったのか、ふとリヴァルが体を起こした。
「もしかして、見たいのか? わかった、俺が服を全部脱ぐから、確認しろ」
そして衣服に指を掛ける。セレンは慌てて止めた。
「お待ちください! そ、そういう意図ではございません!」
「なんだ。そういう誘いなのかと思ったが、違うのか」
「そ、それであればもっとまともな誘いを考えます!」
「そうか」
顔が熱い。リヴァルはわずかに肩を落とした。すぐに気を取り直したようにセレンに向き直る。
「お前は。俺がいないあいだ、なにしてた」
口調はぶっきらぼうだったが、そう問いかける目は優しかった。セレンはリヴァルが帰ってくるまでのあいだに話そうと思っていたことを、訥々と話す。ちゃんと食事をしていたこと、鍛錬に励んだこと、ミハイルの子供たちに髪を遊ばれたこと、フィルとお茶会をしたこと。リヴァルは黙ってそれを聞きながら、時折相槌を打ったり、小さく笑ったりした。
静かな夜だった。
一通り話し終わったあとで、今度はリヴァルが口を開いた。
「……大丈夫なのか」
なにを尋ねられているのかわからず、セレンは暗がりの中でリヴァルの方を向いた。
「私は、どこにも怪我はしておりません」
「そういう話じゃない」
そこで、ようやくわかった。
「……噂のことですか」
赤い瞳が、じったこちらを見ている。
「大丈夫……だと、思いたいです」
答えると、リヴァルは黙った。
なにか付け足すべきか迷った。ミハイルが事実を明らかにしてくれた。フィルもヤオも変わらず接してくれている。今日からはリヴァルもいる。それなら、大丈夫になれるはずだった。
「お前はここに来て、まだ大して経っていない」
「はい」
「従者も連れてきていない。家族もいない。知っている奴もほとんどいなかっただろう」
「……そうですね」
言われてみれば、その通りだった。出発前には行き先すら知らず、着いたその日に知らない男と婚礼を挙げた。城の中で名前を知っていた人間など一人もいなかった。
「そんなところで、今度はあれこれ言われている」
「ですが、ミハイル陛下も、フィル様も、ノエも、ヤオもおります。食堂の方々もよくしてくださいます」
「今はな」
短い返事だった。
「最初はいなかった」
セレンは返す言葉を探した。自分はずっと、戦場へ向かったリヴァルの方を案じていた。剣や魔法が飛び交う場所へ行く人なのだから、心配するのは当然だと思っていた。
まさかリヴァルの方から、自分が一人で異国へ来たことを案じられるとは思わなかった。
「俺は兄上みたいに雄弁じゃない」
唐突にリヴァルが言った。
「……はい」
「ノエみたいに小難しい話がわかるわけでもない」
「それは……ノエに聞かれたら怒られるのでは」
「知るか」
いつもの返事だった。
「だから、今日の話をどうにか説明しろと言われても無理だ。国同士がどうだとか、他国からどう見えるとか、そういう話は兄上とノエに任せる」
「はい」
「だが、自分のことくらいはわかる」
セレンはリヴァルを見た。暗がりの中でも、赤い瞳がこちらを向いているのがわかった。
「お前が、最初から知っていたとは思っていない。ルミナリアと示し合わせて俺たちを騙したとも思っていない」
「はい」
「フェロモンで俺がおかしくなっているとも思わん」
そこまで言われ、セレンは返事ができなかった。
「俺がお前を信じているのは、俺がそう決めたからだ」
リヴァルの手が伸びてくる。頬に触れた指は、剣を握り続けていたせいか硬かった。
「お前をここから追い出さないのも同じだ」
「……リヴァル様」
「誰かに操られて決めたことじゃない。お前がオメガだからでもない」
頬にあった手が髪へ入り、長い灰色の髪を指の間に通す。
「俺が、お前にここにいてほしいと思っている」
セレンはなにも言えなかった。
ここへ来たばかりの頃なら、そんな言葉を向けられても、どう受け取ればいいのかわからなかったかもしれない。今は、わかる。
嬉しかった。
「私も……」
続きを口にしようとしたところで、リヴァルの顔が近づいた。
唇が重なる。婚礼の日に交わしたものとは違った。あの時は誓約に必要な儀式として触れただけだった。今は誰かに求められたわけでも、大司祭に命じられたわけでもない。
離れたあとも、リヴァルの手はセレンの髪に残っていた。
「……私も、リヴァル様が帰ってきてくださって、嬉しかったです」
「ああ」
「髪留めも、嬉しかったです」
「それはもう聞いた」
「手紙も」
「……あれはノエが書けとうるさかった」
やはりそうだったらしい。
「では、髪留めもノエが?」
「違う。あれは俺が買った」
「そうですか」
それを聞けただけで、セレンの胸にはあたたかい物が満ちていた。
セレンはリヴァルの胸元へ額を寄せた。腕が背中へ回り、身体を引き寄せられる。その瞬間、もう一度唇が重なる。今度は、さっきよりさらに深く。衣擦れの音が、やけに耳に残る。
「リヴァル様……」
このまま眠って、朝になっても隣にいてほしい。
明日も、明後日も、その次の日も。
今夜だけは、それを願ってもいいと思いたかった。
ともだちにシェアしよう!

