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15.決意-3

 離縁が正式に決まってから、出立までは三日しかなかった。ルミナリアへはすでに使者が出され、セレンを送り届けるための馬車と護衛もグランディオ側で用意された。  荷物は驚くほど少なかった。  もともとルミナリアから持ってきたものがほとんどない。本は図書室へ返し、衣服も必要なものだけを選んだ。  最後まで迷ったのは、銀色の髪留めだった。  箱に収めたまま卓上に置き、蓋を開ける。青い石の嵌め込まれた銀細工の下には、あの短い手紙も入っている。  離縁したのだから、返した方がいいのかもしれない。そう考えて箱から出したこともあった。それでも荷造りを終える頃には、髪留めも手紙も荷物の中に収まっていた。  返せとは言われていなかった。そんな理由をつけたところで、手放したくなかったことに変わりはなかったし、リヴァルが返せと言ってくるとも思えなかった。  出立の朝、セレンが城の正面へ出ると、馬車はすでに支度を終えていた。ルミナリアから迎えが来たわけではない。御者も護衛もグランディオの者で、国境を越えて王都まで送り届けることになっている。 「セレン殿下」  声の方を見ると、フィルが子供たちを連れて立っていた。金色の瞳が、セレンを見つめる。 「本当に行っちゃうんだね」 「はい」 「……そっか」  フィルは唇を結び、それ以上は引き止めなかった。事情はミハイルから聞いているのだろう。けれど、寂しさを感じているのはわかった。 「また遊ぶって約束したのに」  フィルの子供が、涙ぐんだ目で言った。セレンはなんと言うべきか迷った。 「リヴァルおじちゃんのこと、嫌いになったの?」 「いいえ」  その答えに迷いはなかった。けれど今度「じゃあ、なんで行っちゃうの?」という問いには、最後まで答えられなかった。やがて、フィルが子供の肩へ手を置く。 「困らせないの。また会えた時にいっぱい遊んでもらえばいいだろ。ね?」 「……はい。またお会いすることがあれば、その時はぜひ」  約束とは呼べない言葉だった。それでも子供たちは頷いてくれた。  その後ろから、ヤオが近づいてきた。足音はほとんど聞こえず、いつものようにセレンの一歩手前で立つ。 「ヤオ」 「荷物。積載済み」 「ありがとうございます」 「食料。毛布。馬車内に」 「そこまでしていただかなくても大丈夫ですよ」 「……必要」  それで話は終わったらしい。ヤオは馬車へ向かい、扉を開けて中を確かめた。座席の下、荷物の固定、窓の留め具。それから御者台と護衛の配置まで順に見て、セレンのところへ戻ってくる。 「問題ない」 「……はい」  セレンはヤオを見た。明日からは、朝になってもこの人が部屋へ来ることはない。食事の量を確かめられることも、出かける前に必要なものがいつの間にか揃っていることもない。 「セレン殿下。今まで、ありがとうございました」  ヤオはなにも言わず、頭を下げた。今まででいちばん深いお辞儀だった。丁寧なその言葉遣いは、きっと練習してきたのだろう。セレンはヤオに言う。 「ヤオ。こちらこそ、ありがとうございました。貴方は優秀は従者です。……仕えてよかったと思える主であれば、嬉しいのですが」  そしてヤオに微笑みかけると、ヤオの、普段あまり動かない唇がきゅっと引き結ばれた。 「セレン殿下」  今度はミハイルに呼ばれた。国王自ら見送りに出る必要などないはずなのに、フィルの隣まで歩いてくる。 「道中の宿には連絡してある。護衛も、ルミナリア王都まで同行させるよ」 「ありがとうございます」 「なにかあれば彼らに言って。君を送り届けるところまでがこちらの役目だから」 「承知しました」  ミハイルはセレンを見たまま、少し間を置いた。 「……本当に、これでよかった?」  何度も考えた。  考えるたびに、よかったと思えたことは一度もなかった。  それでもセレンは頷いた。 「はい」 「そう。……なら、気を付けて」  ミハイルは問い直さなかった。 「陛下も、お身体を大切になさってください。フィル様も」 「うん」  フィルが答える。  セレンは城の方を見た。  探すつもりはなかった。それなのに、正面玄関から出てくる者がいるたび、そちらへ目が向いた。  リヴァルはいなかった。  あの日以来、必要な手続きについて話したほかは、二人きりでは会っていない。離縁を申し出たのは自分だった。リヴァルのそばにいることより、噂から逃れるために帰りたいのだと、自分の口で言った。だから、見送りに来てほしいと思える立場ではない。 「……リヴァル様は」  それでも名前が出た。ミハイルが城へ目をやる。 「来ないつもりなのかもしれないね」 「そうですか」  きゅ、と心臓が音を立てた。締め付けられるようなその心地をごまかして、セレンは馬車へ向き直った。 「では、よろしくお伝えください」 「それでいい?」 「はい」  護衛が馬車の扉を開けた。  足をかけようとしたところで、背後から声が届いた。 「セレン」  振り返る。  城の方から、リヴァルが歩いてきていた。黒い外套を羽織っただけで、見送りのために礼装へ着替えた様子もない。いつもと変わらない姿だった。 「……リヴァル様」  来てくれた。  胸に浮かんだものは、それだけだった。来ないのも当然だと自分に言い聞かせていたのに、姿を見つけただけで、帰りたくないという気持ちまで一緒に戻ってくる。けれど、セレンはリヴァルへと踏み出さなかった。  リヴァルはセレンの前まで来ると、馬車と積まれた荷物を見た。 「それで全部か」 「はい」 「少ないな」 「元々、あまり持っておりませんでしたので」 「ああ」  それきり、どちらも次の言葉を出せなかった。  フィルもミハイルも黙っている。ヤオは馬車の脇へ控え、こちらを見ているのかどうかもわからない。 「……お見送りに来てくださったのですか」 「悪いか」 「いいえ。ありがとうございます」 「また礼か」  リヴァルが鼻を鳴らす。赤い瞳がこちらを見る。セレンは言い直すことにした。 「来てくださって、嬉しいです」 「ああ」  今度は、それで通じた。  言いたいことはいくつもあった。戦場では無理をしないでほしい。怪我をしたらきちんと治療してほしい。食事も睡眠も、取ってほしい。  どれも、もう会わない人へ残す言葉のように思えて言えなかった。 「髪留めは」  リヴァルが先に口を開いた。  セレンは髪へ触れた。今日は挿していない。 「持っております。……お返しした方がよろしいでしょうか」 「なぜ返す」 「離縁しましたので」 「お前にやったものだ」 「では、持っていても?」 「好きにしろ」 「……はい。大切にします」  リヴァルの眉間に皺が寄った。  手が伸びてきた。大きな掌がセレンの髪へ触れ、長い髪を一度だけ撫でて離れていく。 「向こうで、ちゃんと食え」 「はい」 「寝ろ」 「はい」 「寒いなら暖炉を使え」 「……はい」 「我慢するな」  ルミナリアへ戻れば、以前の部屋へ帰れるのかもわからない。暖炉がある場所で眠れるかどうかなど、なおさらわからなかった。  けれど、そんなことを今ここで言う必要はない。 「はい」  リヴァルはセレンを見ていた。怒っているのかもしれないし、まだ納得していないのかもしれない。それでも、もう「残れ」とは言わなかった。 「行け」  セレンはその言葉を聞いた。  さようならではなかった。もう、戻ってくるなという言葉とも違った。 「……はい」  セレンは頭を下げる。 「行ってまいります」  馬車へ乗り込む。扉が閉じられ、御者が馬を進ませた。  窓の外で、城がゆっくり遠ざかっていく。  フィルと子供たちが手を振っている。その隣にはミハイルがいた。ヤオは姿勢を崩さず、馬車が動き出してからもその場に立っていた。  リヴァルだけは手を振らなかった。  ただ、セレンを見送っていた。  セレンも窓からその姿を見続けた。  やがて馬車が城門を抜け、道が曲がる。黒い外套が城壁に隠れ、とうとう見えなくなった。  それでもしばらく、セレンは窓から離れようとはしなかった。

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