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16.祖国にて-1
ルミナリア王都の城壁が見えてきたのは、グランディオを発ってから十二日目の午後だった。
セレンは馬車の窓から、次第に近づいてくる白い城壁を眺めていた。雪はもうない。街道の両脇には草木が生い茂り、その向こうには草花が咲き乱れた、緩やかな丘陵が広がっている。
国境を越えた頃から、気温も変わっていた。馬車の中に用意されていた毛布を使うこともなくなり、今日は外套さえ脱いでいる。
城壁を抜けると、石造りの家々の間を馬車が進んでいく。市場には香辛料や果実が並び、開け放たれた店先から焼いた平たいパンの匂いが流れてくる。道を行き交う人々の服も、グランディオで見慣れた厚手のものではない。
やがて王城が見えてきた。
幼い頃から何度も眺めてきた尖塔と、淡い色の外壁だった。生まれてからグランディオへ向かうまで、ほとんどの時間をあの城の中で過ごした。
帰ってきた。
そう思ってみても、不思議なほど実感がなかった。
馬車が正門を抜けた時、セレンは窓の向こうを見た。
誰もいなかった。
正確には、出迎えの者がいないわけではない。馬車の到着を待っていたらしい役人が二人と、数人の従者が並んでいる。けれど、父も、母もいなかった。
馬車が停まり、扉が開けられた。セレンは踏み台へ足を置き、久しぶりにルミナリアの王城へ降り立った。
「お帰りなさいませ、セレン殿下」
役人が頭を下げる。
「はい。ただいま戻りました」
口にしてから、少し妙な気分になった。
ただいま。
以前ならグランディオでなにも考えずに使っていたはずの言葉なのに、今は誰に対して言っているのかわからなかった。
「長旅、お疲れでございましょう。お部屋を用意しております」
「ありがとうございます。その前に」
セレンは馬車の反対側へ回った。
ここまで同行してくれたグランディオの護衛たちが、帰路の準備を始めている。隊を率いていた兵士もセレンに気づき、姿勢を正した。
「長い道中、ありがとうございました」
「任務ですので」
「それでも、皆様のおかげで無事に帰ることができました。陛下にも、よろしくお伝えください」
「承知いたしました」
兵士は一礼した。
「セレン殿下も、お健やかに」
「……はい」
返事をしてから、セレンは付け加えた。
「皆様も、どうかお気をつけて」
やがて馬車が動き出した。
ここまで十二日間、自分を運んできた馬車だった。御者も護衛も、グランディオで何度か顔を見たことのある者たちだった。
蹄の音と車輪の音が遠ざかっていくのを、セレンはその場から見送った。
やがて馬車が正門の向こうへ消える。護衛の背中も見えなくなり、しばらく待っても、もう戻ってはこなかった。
これで、グランディオの人間は一人もいなくなった。
「殿下。お部屋へご案内します」
呼ばれて、セレンは振り返った。セレンはこくりと頷くと、役人は城内へ入る。
廊下も、壁に掛けられた絵も、窓から見える中庭も覚えていた。自分がいなかった間に変わったものもあるのだろうが、それを見つけられるほど、この城のことをよく見て暮らしてはいなかった。
セレンは自然と、かつて自分が暮らしていた塔へ向かうものと思っていた。
ところが、途中で役人が別の廊下へ曲がった。
「……こちらですか?」
「はい」
「私の部屋は、塔にあったはずですが」
役人は歩きながら答えた。
「塔は現在、物置として使用されております」
「物置……」
「殿下がお戻りになるとの知らせを受け、別のお部屋を用意するよう申しつけられております」
「そうでしたか」
自分がいなくなったのだから、使われていない部屋をそのままにしておく必要はない。塔そのものを別の用途に使うのも、おかしなことではなかった。頭ではそう理解できる。けれど、もう自分の部屋ではないのだと思うと、帰ってきたはずの城の中で、どこへ向かっているのかわからなくなった。
役人は階段を下りた。セレンも後に続く。一階を通り過ぎ、さらに下へ向かう。石造りの階段は次第に狭くなり、壁に設けられた窓もなくなった。代わりに一定の間隔で灯された松明が、薄暗い通路を照らしている。
食料庫や備品庫が並ぶ一角を抜けた先で、役人が一枚の扉を開けた。
「こちらをお使いください」
中には寝台と小さな卓、それから椅子が一脚。壁際には衣装箱が置かれていた。窓はなく、暖炉もない。掃除だけはされているらしく、埃の匂いはしなかった。
グランディオで使っていた部屋より、ずっと狭い。けれど、それを口にはしなかった。
「お荷物は後ほど運ばせます。夕食は鐘がなりましたらこちらへお持ちいたします」
「はい」
役人が退出し、扉が閉じられた。
セレンは部屋の中央に立ったまま、周囲を見渡す。静かすぎて、耳が痛い。
ヤオが後ろに控えている気配もない。廊下からフィルや子供たちの声が聞こえてくることもない。窓から顔を覗かせて、戦地に向かう夫を見送ることももうないし、月を見上げて過ごすこともできない。
寝台へ近づき、端に腰を下ろす。その時になって、馬車の中へ置いてきたと思っていた寒さを感じた。
セレンはふと、リヴァルの言葉を思い出す。
『寒いなら暖炉を使え』
壁を見る。暖炉はなかった。今朝まで何度も思い出した声が、また頭に浮かんだ。
「……ありませんね」
誰もいない部屋で答える。
セレンは自分の荷物が届くまで、そこで待つことにした。
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