56 / 74
16.祖国にて-3
廊下へ出ると、伸ばしていた背筋が少しずつ緩み始める。今になって、唇が冷たく、手の内が妙に汗ばんでいることを知る。セレンは震える拳をぎゅっと握り、再び歩き始めた。
少し歩いたところで、待っていた従者が告げた。
「王妃陛下がお会いになるそうです」
「母上が? ……わかりました」
次に案内されたのは、母の私室だった。
扉の前で名を告げると、中から入室を許す声がした。
「失礼いたします」
母は窓辺の椅子に座っていた。セレンが入ると、手にしていた本を閉じる。セレンは母の前まで行き、礼をした。
「ただいま戻りました、母上」
「ええ」
母はすぐには続けなかった。顔から肩、身体へと目が移る。セレンはその視線を受けながら待った。
「……ずいぶん、変わりましたね」
「父上にも言われました。自分では、あまりわかりませんが」
「顔色が違います。以前より痩せてもいない」
「グランディオでは、よく食べるよう言われましたので」
「食事を?」
「はい。肉も、きちんと食べるようになりました」
母はセレンを見ていた。
「向こうでは、なにをしていたのですか」
そう問われて、なにから話せばいいのか考えて、セレンはグランディオで過ごした日々を思い返した。
「図書室へ行きました。とても広くて、本がたくさんありました。……あんなに大きい図書室は、初めてでした」
母はなにも言わなかった。セレンはその沈黙の意味を考えず、続きを話した。
「グランディオでは、好きな本を読んでよいと言われました。政治や兵站について書かれたものもありました。知らないことが多くて、面白くて……時間も忘れて読み耽ってしまって、昼食を忘れることもありました。私が持っていたのは、一冊だけだったので」
「そう……」
「それから、剣も教えていただきました」
「あなたが?」
「はい。上手くはありません。ですが、身体の使い方を覚えるのは面白かったです。戦場にも行きました」
母が意外そうな顔をする。
「……戦場へ? なぜそんなところへ」
母の顔に、はっきりと驚きが現れる。セレンは笑いながら答えた。
「リヴァル様たちと同行しました。前へ出て戦えるわけではありませんでしたが、魔法を使って、戦いました」
セレンは自分の手を見る。
魔法そのものが強くなったわけではない。使える範囲は狭く、長く保つこともできない。それは昔から変わらなかった。
「母上のようには、なれませんでしたけれど」
セレンはふっと笑う。
幼い頃に見た母の魔法を、今でも覚えている。城一つ護れるほどの防護壁を張れる魔法。有事の際の、最後の砦や城の皆を守るためにあるそれを、かつて期待されていたし、セレンも憧れた。
「私の魔法では、大勢を守ることはできません。ですが……大切な人を、少しでも守ることはできました」
セレンは背筋を伸ばす。
「私は、誇らしかったです」
母は答えなかった。セレンも返事を求めなかった。部屋はシンとなる。母は、しばらくセレンを見つめていた。
「……立派になりましたね」
思いがけない言葉に、セレンは思わず母を見た。
「私が、ですか」
「ええ。魔法のことではありません。自分で戦場へ行くと決め、大切な人を守って、今こうして帰ってきたあなたのことです。……私の知らないところで、こんなにも立派になったのですね」
母の言葉を聞きながら、セレンはなんと返せばいいのかわからなくなる。嬉しいといえば嬉しい。ずっと、そんな言葉を望んでいた。自分を見て欲しかった。だけどいざそうされると、どう返したらいいかわからなくなる。
「……ありがとうございます」
母は膝の上の本へ手を添えた。
「あなたがオメガだとわかった時、私はあなたの将来が閉ざされたように思いました。発情期が来ないとわかってからは、なおさらです」
セレンは黙って聞いていた。
「王にもなれない。子を成すことも難しい。魔法にも恵まれなかった。だから、あなたが塔へ移されても仕方がないのだと、自分に言い聞かせていました」
母の指が、手元の本の表紙をなぞる。そしてゆっくりセレンを見た。
「申し訳ありませんでした、セレン」
「なぜ、母上が謝るのですか。私はこの王家に、オメガとして産まれたことを──」
母に静かに首を振られて、セレンの声がわずかに上擦る。
「あなたをオメガに産んだからではありません。あなたがオメガだったことを理由に、あなたにはなにもないのだと決めて、目を離したからです」
セレンはすぐには答えなかった。
父と同じく、母のことも、恨んだことがなかったわけではない。ただ、それよりも長く覚えているものがあった。
「……私は、母上の魔法が好きでした。幼い頃に見た防護壁を、今でも覚えています。私もいつか、あんなふうに誰かを守れたらと思っていました」
母がセレンを見る。わずかに皺のある目元は優しくて、ずっと、こんな眼差しがほしかったのだと、今になって思い出す。
「そうでしたか」
「はい」
同じ魔法は使えなかった。けれど、それでいいと思えるようになった。
「でも、私には、私にできることがありました」
母の眼差しは優しい。それも、残酷なほど。沈黙の中で、セレンはそれを感じた。
「……失礼します、母上」
やがてセレンは立ち上がり、母へと背を向ける。
「セレン」
扉へ向かいかけたところで呼ばれ、セレンは振り返った。母はなにかを言おうとしているようだった。
「……身体を冷やさないように」
「はい。母上も、どうか」
セレンは部屋から退出する。
抱き締められることも、撫でられたことも、記憶に薄い。
それでも、自分の両親だった。
翌朝、セレンは地下の部屋で目を覚ました。
窓がないため、朝になったことは扉の向こうから聞こえてくる人の気配で知った。やがて朝食が運ばれてきて、セレンは卓についた。
パンと野菜を香辛料で煮込んだスープ、それから薄く切られた肉を果実のソースで味付けしたものが二切れ載っている。以前なら、なにも考えずに食べていた食事だ。けれど、皿を見た途端に思い出す。
『ちゃんと肉食って寝ろ』
セレンは肉を一切れ食べた。もう一切れも食べる。それでも、グランディオで食べていた量にはずいぶん足りない。
食器を下げに来た従者へ、セレンは声をかけた。
「すみません。次の食事から、肉の量を増やしていただくことはできますか」
従者はセレンを見る。
「肉、でございますか?」
「はい。もう少し、食べたくて」
「承知いたしました。厨房へ申し伝えます」
「ありがとうございます」
そう言うと、従者は食器を持って退出した。
セレンは閉じた扉を眺めた。
断られるかもしれないとは思っていなかった。ただ、頼んだこと自体が妙に新鮮で、グランディオよりずっと慣れ親しんでいる食事のはずなのに、胸がどきどきしていた。
着替えを済ませると、セレンは部屋を出た。階段を上がり、昨日と同じ城内へ出る。
向かう場所は決めていた。道は覚えている。正確には、途中までだった。角を二つ曲がったところで、昔の記憶と景色が重なった。
あの日も、ここまで来た。
一冊しか持っていなかった本を何度も読み終えて、ほかのものを読んでみたくなった。塔を出て、図書室へ向かった。
そこで従者と鉢合わせた。
悲鳴を上げられた。
なぜここにいるのかと問われて、謝った。そのまま塔へ戻ってから、もう二度と近付こうとはしなかった。
セレンは廊下を進んだ。
向こうから侍女が二人歩いてきた。二人ともセレンに気づき、端へ寄って頭を下げる。
「おはようございます、殿下」
「おはようございます」
その横を通り過ぎた。悲鳴は聞こえなかった。
おもむろに図書室の扉を開ける。中にはいくつもの書架が並んでいて、セレンは思わずため息をついた。
グランディオの図書室とは蔵書の傾向も違う。南方諸国の歴史や農業、水運についての本が多く、ルミナリア国内の地誌もまとまっている。それに、詩や戯曲、物語が驚くほど多かった。グランディオでは政治や兵站の棚ばかり見ていたせいもあるのだろうが、これほど多くの物語が書かれていることを、セレンは知らなかった。
「セレン殿下?」
司書らしい男が驚いたようにこちらを見る。
「はい」
「失礼いたしました。なにかお探しでしょうか」
「まだ、決めておりません。……見てもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます」
セレンは礼を言って、書架の間へ入った。背表紙を一冊ずつ見ていく。知らない本がいくらでもあった。
まずはこの国の政治を学ぶことにしようと思った。自分の仕事を見つけるのは、きっとそれからだ。
昼近くまでそこで過ごして、部屋に戻る。次の食事には、皿の上の肉が増えていた。
ともだちにシェアしよう!

