58 / 74

16.祖国にて-5

 リネアはセレンの前まで来ると、なにか言おうとして唇を開いた。けれど声になる前に、セレンの頭から足元までを確かめるように何度も見た。 「……本当に、兄上なのね」 「はい」 「帰ってきたって、手紙が届いて……すぐに発ったけれど、三日で来れるところを、ここまで一週間もかかって……」 「そうだったのですか」  セレンは跳ねた泥のついた馬車を見て納得した。辺境伯領から急いで来たのだろう。 「お疲れでしょう。まず中へ──」 「どうして、帰ってきたの?」 「離婚したからです」 「それは聞いたわ!」  リネアの声が庭に響いた。ソフィアが驚いてセレンの袖を掴む。 「……リネア。ソフィアが驚いています」 「あ……ごめんなさい。……場所、変えましょうか」  リネアの提案に、セレンはこくりと頷いた。  セレンとリネアは中庭に向かった。長卓と椅子が置かれそこに座る。しばらくすると、茶と菓子が運ばれてくる。セレンはフィルとの茶会を思い出していた。 「グランディオでなにがあったの?」  茶会の用意ができて間もなく、リネアは単刀直入に聞いてきた。 「第二王子になにかされた? ひどい扱いを受けたんじゃないでしょうね」 「いいえ」 「本当に? だって、あの第二王子でしょう?」 「あの、というのは?」 「知っているでしょう。気性が荒くて、気に入らない者はすぐ殺すとか……前の婚約者だって──」 「ああ。それでしたら、私も道中で聞きました」 「それでよくそんな顔をしていられるわね」 「リヴァル様は、そのような方ではありませんでしたから」 「……リヴァル様?」  リネアが訝しげにセレンを見る。 「最初は私も怖かったですよ。ですが、実際には噂と随分違いました。理由もなく人を傷つける方ではありませんし、私が嫌がることを無理にさせられたこともありません」 「……そうなの?」 「はい。食事もよく食べるように言われましたし、剣も教えてくださいました。馬にも乗りましたし、戦場にも──」 「待って。戦場?」 「私が行きたいと申しましたので」  リネアは言葉を失った。 「兄上が、自分から?」 「はい」  話しているうちに、セレンは自分がいつになく饒舌になっていることに気づいた。グランディオでのことなら、話したいことがいくらでも出てくる。  リネアはそんなセレンをしばらく見つめていた。 「……兄上。第二王子のこと、好きなの?」 「ええ。好きですよ」  答えはすぐに出た。グランディオを離れる前には言えなかった言葉なのに、口にしてみれば思っていたより簡単だった。 「だったら、どうして離婚なんて──」 「リネア。その前に、私からも聞いてよろしいですか」 「……なに?」 「私がグランディオへ行くことになったのは、あなたが婚姻を断ったからだと聞きました」  リネアの顔から血の気が引いた。 「……ええ。私、好きな人がいたの。今の夫よ。だからグランディオへは行きたくないって、お父様に何度も言った。第二王子の噂も知っていたし、怖かった。でも、兄上が代わりに行くなんて知らなかったの」  リネアはそこで言葉を切った。 「知った時には、もう……」  婚礼の日のことだろう。リネアも大聖堂で、自分の代わりに誰が立っているのかを初めて知ったのだ。 「ごめんなさい。私が嫌だなんて言わなければ、兄上はあんなところへ行かなくて済んだのに。私だけ好きな人と結婚して、兄上は私の代わりに──」 「リネア、謝らないでください」  セレンは妹をまっすぐ見た。 「あなたが嫁ぎたくなかったのでしたら、断ってよかったのだと思います。私も……今なら、嫌なことには嫌だと言います」  それを教えてくれたのも、グランディオで過ごした日々だった。 「それに、あなたが断っていなければ、私はリヴァル様に会えませんでした。ですから、そのことについては、むしろ感謝しています」 「感謝って……離婚して帰ってきたのに?」 「……これでよかったのです」  口にすると、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。 「婚姻の始まりから、間違っていました。リヴァル様には、本来なら背負う必要のなかったものまで背負わせてしまいました。自分で離婚を決めたのですから、これでいいのです」  誰かに命じられたわけではない。自分で考えて、自分で選んだ。  だから、これでよかった。むしろ、そうでなければならない。  リネアはまだなにか言いたそうだったが、それ以上は尋ねなかった。  セレンも、グランディオを出てから何度リヴァルを思い出したのかは話さなかった。朝食の席で向かい側を見てしまうことも、剣を握れば教えられた声が蘇ることも、本を読んでいて話したいことが増えていくことも。  会いたいと思うことと、戻ることは別だ。  少なくとも今は、そう考えていた。

ともだちにシェアしよう!