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18.もう一度、貴方の隣で-3
店主は白髪交じりの男で、入ってきたセレンを見ると「買取かい」と短く尋ねた。
「はい。……こちらを」
鞄を開き、セレンは一冊の本を丁寧に取り出す。
グランディオへ向かう前、ルミナリアの書庫から持ち出した兵站に関する本だった。何度も読み返したため角は少し擦れていたが、大切に扱ってきた一冊でもある。
店主は本を受け取ると、頁をめくり、装丁を確かめる。
「悪くない本だが、古いな。それに専門書は欲しがる客が少ない」
棚の奥から秤を持ってきてなにやら帳面を見比べると、申し訳なさそうに金額を告げた。その額を聞いたセレンは、わずかに息を詰める。
パンが数個は買える。けれど、グランディオまで辿り着くには到底足りなかった。
「……お願いします」
それでも、このまま本を抱えて店を出ても意味はない。そう自分へ言い聞かせ、代金を受け取った。
店主は本を棚へしまいながら、「他にはないのかね」と尋ねた。
「なにか値が付きそうなものがあれば、一緒に見よう」
本棚を見つめていたセレンは、もう一度荷物を見下ろした。
着替えは旅を続けるために必要で、外套も靴も手放せない。小物はどれも使い古したものばかりで、金になるとは思えなかった。
だがその様子を眺めていた店主の視線が、ふとセレンの髪へ留まる。
「その髪留めは、銀か?」
そう言われて、セレンは反射的に髪留めへ手を添えた。
「っ、これは、売れません」
考えるより先に口から出た言葉だった。店主は肩をす竦め、困ったように腕を組んだ。困り果てたセレンもまた、自分の髪を手櫛で梳かす。
その時、その指が不意に止まった。
店内にある、異国の装飾が施された鏡台に自分の姿が映る。腰まである白灰色の髪が、肩から胸元へ流れ落ちた。
数年前から切るのが億劫になり、そのままにしていた髪。
静かな店内で、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
髪留めは手放したくない。これだけは、駄目だ。
これを失えば、あの日リヴァルが髪へ触れた記憶まで、自分の手から零れ落ちてしまうような気がした。
けれど、このままではグランディオへ着けない。
どうすればいい。
セレンは髪留めを握る手へ少しだけ力を込めると、ゆっくり息を吸った。
「……髪、なら」
掠れた、小さな声が静かな店内へ落ちる。
店主はなにを言われたのかわからないという顔をしたが、すぐに視線がセレンの長い白灰色の髪へ向いた。
「髪か」
椅子から立ち上がると、店主は窓際まで歩み寄り、光へ透かすようにその髪を眺める。
「なるほど」
髭を蓄えた口元に、商売人らしい笑みが浮かんだ。店主はセレンの後ろへ回り、長い髪を一つにまとめる。
「これはいいな。こんな色の髪は滅多に入ってこない。あんた、ルミナリアの者か?」
そう言いながら指先で毛先をそっと持ち上げ、艶や長さを確かめていく。店主の問いに、セレンは「い、一応……」とぎこちなく笑った。
「傷みも少ないし、手入れも行き届いてる。これだけ長さがあれば、鬘師も喜ぶだろう」
「……どのぐらいまで切れば、よろしいでしょうか」
セレンが尋ねると、店主はすぐに帳面を引き寄せ、計算盤を弾き出した。
「うなじあたりまで切れば、これぐらいになる。いい取引だと思うぞ」
示された金額を見て、セレンは思わず目を見開いた。本を売った時とは比べものにならない。この額なら宿代を気にしながら歩き続ける必要もなく、途中で乗合馬車を利用しても、十分グランディオまで辿り着ける。
セレンは鏡の中の自分を見た。リヴァルが知っている自分とは、きっと違う姿になる。
けれど、会いたい。それなら、これくらいは惜しくない。
「……わかりました。お願いします」
店主は帳面を閉じると、満足そうに頷いた。
セレンは髪留めへ手を伸ばした。それをゆっくりと外すと、束ねられていた白灰色の髪が肩を滑り、背中まで流れ落ちる。
リヴァルが梳いて、褒めてくれた髪。ミハイルの子供たちに編まれた髪。グランディオの戦場に吹く風を知っている髪。
髪などまた伸びる。わかっていても、一つ一つを思い出すたびに胸がちくりと傷んだ。
店主は奥から鋏を取り出す。
セレンは椅子に座り、手にした髪留めの輪郭を指でなぞる。
やがて、鋏が入る。
乾いた音と金属の冷たさを、うなじに感じた。
髪はあっという間に切り離された。首筋に触れる空気に妙な涼しさを感じ、セレンは無意識にそこへ手を添えた。
店主から代金を受け取ると、セレンは硬貨を一枚ずつ確かめた。
髪を失った寂しさは残っている。それでも、この金があればグランディオまで行ける。
セレンはそれを確かめてから、リヴァルがくれた髪留めをそっと鞄の中にしまった。
店主は包んだ髪を帳面の脇へ置きながら、セレンの首元を見た。髪がなくなったことで、うなじを守る金属の首輪が以前よりはっきりと見えている。
「……しかし、その首輪もずいぶん立派だな。細工もいい。それなら髪より高く売れるんじゃないか?」
「これは、売りません」
今度は迷うことなく答えた。髪留めと同じように、これも手放せない。店主は「そうか」と頷いたものの、まだ首輪から目を離さなかった。やがて訝しむように目を細め、セレンの首輪を改めてしげしげと見る。
店主は首を傾げながら、首輪の紋章と、切り落とされた白灰色の髪を交互に見た。それから、なにかに気づきかけたように眉を上げる。
「アンタ、オメガか?」
「え、あ……はい」
「その髪に、その首輪の紋章……ルミナリア王家の? アンタ、まさか」
「ひ、人違いです」
「まだ最後まで言ってねえだろ」
店主は呆れたように笑い、目の前の男を改めて眺めた。
「いやでも、勘違いだよな。病弱で城からほとんど出たことのない殿下が、こんなところで髪を売るわけがねえ。しかも先月離縁して戻ってきたって話だしな、ハハハ」
そこまで言ってから、店主は自分の言葉に引っかかったらしい。笑い声が少しずつ弱くなり、白灰色の髪とセレンの顔をもう一度見比べる。セレンは慌てて乾いた笑みを浮かべた。
「そ、そうですよ。あのような軟弱な王子と一緒にしないでください」
言ってしまってから、胸の奥が妙に痛んだ。けれど店主には悟られないよう、セレンは首輪へ触れた。
「……でも、どうやら最近は、塔から出られたようですよ」
店主はきょとんとしたあと、「へぇ、そうかい」と笑った。けれど、その目はまだ首輪に残っていた。セレンはそれ以上なにも言わず、髪留めの入った鞄を抱え直した。
店を出て、店主へ向き直って再度静かに頭を下げる。
「ありがとうございました」
「おう。アンタも気を付けな」
「はい」
もう、後戻りはしない。
そう決めた足取りで、セレンは再び北へ続く街道へ向かった。
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