2 / 3

第2話 手の甲の勿忘草

 ルドガーの黒紺の制服の胸に、銀糸で刺繍された紋章が光っていた。  六方へ根を伸ばす水晶樹は、王立属性管理局の職員の証だ。  ヴィートの胸の奥に、苦い嫉妬が滲んでいく。 (俺だって、本当は――)  その時、左手の甲に、今まで感じたことのない不思議な感覚がふわりと開いた。  花弁が肌の下からほどけるような、奇妙な感覚だった。  何気なく視線を落とすと、手の甲に小さな花の模様が浮かび上がっているのが目に入った。 「……え?」  黄色い芯を抱いた、青紫の小さな五弁花。 「ちょっと! なんだよこれ?」  慌てて右手でゴシゴシと擦ってみたが、まるで肌の上にしっかりと刻印されているかのように、その花は掠れも滲みもしなかった。  怒ったように花の模様を擦っているヴィートに、ルドガーが怪訝そうに目を細める。 「なんだよって……供給痕だ。水属性から水を受ければ、植物属性の肌に出ることがあると、局で習ったことがある。キリアンにも出されたことがあるんじゃないのか?」 「ねえよ! こんなの初めて見た」  それを聞いて、ルドガーは微かに目を見開いた。 「……なんだと?」 「キリアンにも何度か同じ場所から水をもらったけど、模様なんかなんにも出てこなかった!」 「花が咲かなかったのか?」 「咲くってなんだよ? ただの模様だろ?」  ルドガーは何かを言いかけたが、結局口を閉ざした。  やがて、彼は決心したように顔を上げると、ヴィートの左腕を掴んでぐいっと自分の方へと引き寄せた。 「ちょっ、ルドガー?」 「お前、しばらく俺の屋敷に来い」 「はぁ?」  反射的に手を振りほどこうとしたが、ルドガーは掴んだ腕にぐっと力を込めて、離そうとしなかった。   「屋敷に来いって……いきなりなんだよ?」 「その花をキリアンに見られるのはまずい」 「え、なんで?」 「お前、あいつの婚約者だろ? 他の人間から水を供給されたと分かったら、いい気はしないはずだ」  そう言ってルドガーは軽く身を屈めると、ヴィートの手を自分の唇に近づけるふりをしてから、上目遣いにこちらを見た。 「やり方がやり方なだけに」 「なっ!」  今度こそ、ヴィートはルドガーの手を思いっきり振り払った。じわじわと頬に熱が上がってくるのを止められない。 「そ、そんなの、手袋か何かで隠せばいいだろ」 「一日ならな。キリアンからいつも同じ場所に水をもらってるなら、模様が消えるまで手を隠し通せるわけがない」    ルドガーは体を起こすと、ヴィートを見下ろしながらひょいっと肩をすくめた。 「一週間もすれば綺麗に消えるはずだから、それまではうちで大人しくしていろ。キリアンには、何か説明を俺が考えるから」 「なんて言い訳するつもりだ? あいつは金が――」  うっかり本当のことを言いそうになって、ヴィートは慌てて口をつぐんだ。  日雇いで働いているだけでも十分惨めなのに、婚約者に水を餌に金を要求されているだなんて。  これ以上ルドガーの前で恥を晒すのは、自分のプライドが許せなかった。   「金?」  急に低い声を出したルドガーの前で、ヴィートは誤魔化すようにコホンと咳払いをした。 「そう、金をちょっと借りてて。早く返せって言われてるから、ここで働いてたんだ」 「いくら必要なんだ?」 「た、大した額じゃない。でも、返すのがさらに一週間も遅れるのは――」 「なら、それも俺が立て替えてやる。とにかく一旦俺の所に来るんだ」 「いや、そこまでしなくても――」 「いいから」  ルドガーの口調が苛立ったように鋭くなった。ヴィートのよく知る、いつもの彼の姿だ。 「会うのは学院以来なんだ。積もる話もあるだろ」 「俺はお前に話すことなんか何もないんだけど」 「俺は聞きたいことが山ほどある」  二人の視線がバチッとかち合って、今にも火花が飛び出しそうだ。  だが、今は明らかにヴィートの方が分が悪かった。 (キリアンは別に俺のことなんかどうでもいいだろうけど。この花が本当に水を与えられた証拠になるなら、不貞を働いただとか言って騒いで、また金を巻き上げるのに利用してくるかも)  水を押さえられているヴィートはキリアンに逆らえない。当然相手の名前も言わされるだろう。  このままキリアンのもとへ戻れば、助けてくれたルドガーまで巻き込むことになる。ここで意地を張る方が、よほど無責任だった。 (まぁ……とりあえず言われた金額だけ渡せば、一週間くらい俺がいなくてもあいつは何も言わないだろ)  合理的な決心を固めてから、ヴィートはようやくルドガーに向かって頷いた。 「分かった。悪いが一週間だけ世話になる」 「最初からそう言えば良かったんだ」 「借りた金は必ず返すから」 「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ」    ぶっきらぼうにそう言うと、ルドガーは左手にはめていた白い手袋を外してヴィートに差し出した。 「とりあえずこれで隠せ」 「いや、丸太を運ばなきゃならないし、汚れるって」 「今日は早退しろ。視察を終えたら迎えに来るから、日陰で大人しくしてるんだ」 「はぁ? そんなわけには――」 「うるさい。黙れ」  ルドガーは指先でくいっとヴィートの尖った顎を持ち上げた。きつい口調の割に、優しい手つきだった。 「こんな顔色の悪いやつを働かせて事故でも起こせば、監督責任を問われる。俺が報告書に書けば、面倒になるぞ」 「ええっ!?」 「今回は俺の判断で報告しない。だから、お前は言われた通り休んでろ。現場監督にもそう伝えておく」  ぱっと顎にかけていた指を離すと、ルドガーは言葉通りに現場監督の元へと歩いて行ってしまった。  片手だけ素肌になったルドガーの指先が、妙に目につく。  その場にぽかんと突っ立っていたヴィートだったが、チラッと振り返ったルドガーに睨まれて、慌てて近くに転がっていた木材の上に座り込んだ。 (なんなんだ、あいつ……)  上等な制服で身を固めたルドガーは堂々と落ち着いていて、学院時代よりずっと大人びて見えた。  それなのに、少し話すと昔のままの短気さが垣間見えて、見た目とのギャップに困惑する。  ルドガーの手袋は、ヴィートの手には少し大きかった。 (……むかつく)  手袋の口を指で摘んでずらすと、青くて可憐な花がチラッと顔を覗かせる。  忘れようとしても忘れられないほど、鮮やかな勿忘草だった。 (なんで花の模様が咲いたんだろう?)  キリアンの時は一度も咲かなかったから、水を与えられれば必ずしも咲くわけではないらしい。  考えているとだんだん頭が痛くなってきて、ヴィートは壁にもたれかかって目を閉じた。  応急処置的に水をもらったが、一ヶ月近く乾いた体にはまだまだ不十分だった。 (悔しいけど……あいつの言う通り、休んで正解だったかも) ◇ 「……ト、ヴィート。起きられるか?」  耳元で囁かれて、眠りの底に落ちていたヴィートははっと目を覚ました。 「えっ? 俺、寝ちゃってた……?」 「だから俺が言った通りだったろ」 「……確かにそうだけど、あえて言われるとむかつく」 「減らず口叩ける元気は残ってるみたいだな」  ルドガーは微かに口角を上げると、ヴィートの前でくるりと背を向けて屈んだ。そのままヴィートの両腕を肩へ回し、膝裏を抱えて立ち上がった。 「えっ? ちょっと――!」 「仕事は終わった。さっさと帰るぞ」 「いや、自分で歩けるから――」 「ちんたら歩いてるやつに付き合えるか。俺の時間は貴重なんだ」  立ち上がった拍子に、ヴィートの胸と腹が、ルドガーの広い背中にぴたりと密着した。 (……あれ、怖くない――?)  昔から、ヴィートはルドガーに触れるのが怖かった。  火は植物を焼き尽くす。  彼に触れても火傷するわけではない。それでも、植物属性者の本能に刻み込まれた恐怖は消えなかった。  恐れながらも、常に一番近くでやり合っていたのだ。彼の匂いを覚えているくらいには。  さっき後ろから受け止めてもらった時は、咄嗟のことで恐怖を感じる暇もなかったのだと思った。  背中越しに伝わる体温は、昔と同じように熱い。  それなのに、その奥に冷たい水脈のようなものが流れている。  焼かれる、という恐怖を感じなかった。  むしろ、乾いた根が勝手にそちらへ伸びようとするような感覚があった。 (なんでだろう……俺も大人になって、強くなったとか?)  夕日の中で、ルドガーの赤毛に混じった銀の一房だけが、冷えた水のように光っている。 「……それで?」  石畳の道を早足に歩きながら、不意にルドガーが低い声で言った。 「そもそもお前、試験に合格したのに、どうして王立属性管理局に来なかったんだ?」

ともだちにシェアしよう!