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第3話 掴みかけた夢と、水の支配
「……あった!」
学院の卒業を間近に控えた一年前の冬。
その日、掲示板に自分の試験番号を見つけて、ヴィートは湧き上がる喜びにぱっと顔を輝かせた。
四年間、必死で積み重ねた努力が実を結んだ瞬間だった。
「その様子だと、お前は受かったんだな」
低い声に振り返ると、黒いコート姿のルドガーが硬い表情で後ろに立っていた。
「ルドガー……」
「全く、卒業後もお前と毎日顔を合わせなきゃならないのかよ」
そう言った後、結局堪えきれなくなったのか、ルドガーはぷっと小さく吹き出した。
「なんだよ! ギクッとさせんじゃねえよ」
「へぇ、俺のこと心配してくれてたのか?」
「いーや、これっぽっちも! 嫉妬されるのが嫌だっただけ」
こいつにだけは負けたくない。その思いも、辛い試験勉強を乗り越える確かな原動力だった。
(そこのところだけは感謝してるんだ。口が裂けても言わないけど)
だから、自分が落ちるのはもちろん嫌だったけど、ルドガーが不合格でも後味が悪いと思っていたのだ。
自分もルドガーも受かった。これ以上の結果はなかった。
「ごほっ! ごほっ!」
「ヴィート、風邪でも引いたのか?」
ルドガーが首に巻いていたマフラーをさっと外してかけようとするのを、ヴィートは涙目になりながら慌てて止めた。
「いいって! 風邪じゃない。俺、最近植物属性の症状が出始めたんだ」
それを聞いて、ルドガーが動きをピタリと止めた。
「……じゃあ、いよいよ水が必要になるってことか?」
「ああ。水が足りないと体調が整わなくて」
咳を鎮めようとしているヴィートを、ルドガーは感情の読めない顔でじっと見つめていた。
「……ヴィート、俺、実は――」
「ヴィート!」
遠くから自分を呼ぶ声に、ヴィートは勢いよく振り返った。
柔和な美貌の青年が、馬車の窓からこちらに向かってにこやかに手を振っている。
清廉な流れを思わせる銀髪は、紛れもなく水の魔力を持つ者の証だった。
「……婚約者か?」
「ああ。医師にも早く同棲するよう言われたから、来週には引っ越すことになってる――てか、今何か言いかけた?」
「……いや、なんでもない」
ルドガーは目を細めてキリアンを眺めながら、白いマフラーを自分の首に巻き直した。
「……良かったな。優しそうな婚約者で」
「うん、いい男だよ。子供の頃から婚約してるけど、正式な結婚は一年くらい一緒に住んでみてから決めようって。まあ、俺は水が必要だから、結婚以外の選択肢なんかないんだけど」
植物属性者は性別を問わず、男性の水属性者から魔力をもらうのが最も効率的だ。体の中心に近い場所から水を受け取るほど、より深く潤うことができる。そのため、植物属性者と水属性者の組み合わせに限って、男性同士の婚姻も認められていた。
さらっと言ったつもりだったが、ルドガーは微かに顔を歪めた。
「なんだよ、お前が辛気臭い顔すんなって! 俺は別に、水の一族に嫁ぐ運命だってちゃんと受け入れてるから」
「……別に。これから毎日惚気話でもされるのかと思って、げんなりしただけだ」
ルドガーはそう言ってため息をつくと、くるりと踵を返してヴィートの側から離れて行った。
ヴィートは彼の背中を一瞬だけ見送ってから、自分も婚約者の元へと向かった。
「キリアン! どうしてここに?」
白い息を弾ませながら近づくと、キリアンは相変わらず笑顔を浮かべたまま馬車の扉を開けてくれた。
「そろそろ水が要る頃かと思って。君の家に行ったらここにいるって聞いたから、馬車を回してもらったんだ」
「えっ、そんな。わざわざありがとう」
キリアンの正面に座ると、馬車はゆっくりと動き出した。
「それで、どうして管理局の建物の前にいたんだ?」
(あれ? 今日が試験の結果発表の日だって、確か言ったつもりだったんだけど……)
内心首を傾げながらも、先ほどの喜びの熱が冷めやらぬヴィートは、深く考えずに満面の笑みを浮かべながら報告した。
「さっき試験の結果が発表されて。俺、ちゃんと合格してたんだよ!」
「へぇ、それは良かった。なんの試験だい? 家政技能の資格とかかな?」
「違う違う! 資格の試験じゃなくて、王立官吏の試験だよ。王立属性管理局の職員になるのが昔からの夢で――」
その時のキリアンの顔を、多分ヴィートは一生忘れることはないだろう。
彼は一瞬驚いたように目を見開いてから、すぐにいつも通りに口角を上げた。
それなのに、普段の柔和さが欠片も感じられない。あまりの視線の冷たさに、ヴィートは背筋にゾワッと寒気が走るのを感じた。
「えっと……キリアン?」
「う〜ん、それは良くないね」
いつも通りの穏やかな声音だったが、笑っていない目元とのギャップが不気味で、ヴィートの腕にさあっと鳥肌が立った。
「よ、良くないっていうのは……?」
「バスク家に嫁ぐ人間には、主人を立ててもらわないといけない。伴侶が王立官吏というのはちょっと、私より目立ちすぎるんじゃないかな」
「え……」
「それに、責任の重い仕事に就いたら、家のことが疎かになるだろう? お金を稼ぐのは大事だが、それならもっと融通のきく仕事にしなさい。必要な時だけ雇われる仕事にすればいい。荷運びでも、倉庫番でも、君にできることはあるだろう?」
(この男は……一体何を言ってるんだ?)
いつもなら優しげに見えるその顔から、笑顔のまま残酷な言葉がこぼれていく。
「あの……でも、俺、ずっとこの仕事に就きたくて。自分が植物っていう厄介な属性持ちだから、生まれ持った属性で苦労してる人々を助ける仕事がしたくて――」
「世の人間全てがやりたい仕事をできるわけじゃない。嫁ぎ先に従うのは当然の義務だ」
「お、俺、キリアンより目立たないように気をつけるから! 家のことだってちゃんとやるし――」
「私の言うことが聞けないなら」
キリアンは凄みのある笑顔を浮かべながら、舌で唇を軽く潤した。
「水を与えるわけにはいかないな」
ヴィートはぽかんと口を開けて、呆然と目の前の美しい男の顔を見上げた。
愛し愛される関係であるはずの、将来の伴侶。その相手に、いきなり自分の一番弱いところを握られてしまった。
霜が降りるように、感情がどんどん冷えていく。それなのに――
「ほら、乾いてきたんだろう? 物欲しそうな顔をしている」
気づけば、ヴィートの視線はキリアンの濡れた赤い唇に釘付けになっていた。
キリアンは彼を潤す救いであり、同時に縛る呪いでもあった。
「私の言っていることが理解できたかな?」
キリアンがヴィートの左手をそっと取り、口元に近づけてからギリギリのところでピタッと止めた。
「あっ……」
「はい、と頷くまで、水はお預けだ」
その唇から水を得たくて、反射的にビクッと手首が跳ねる。
こんなに酷い相手なのに、体が本能的に彼の水を欲してしまう。
ヴィートは微かに息を荒げながら、屈辱に顔を歪めた。
「ほら、返事は?」
「……はい」
「理解が早くて助かるよ。君は賢い」
キリアンの冷たい唇が手の甲に触れて、久々に水を得た体が意思に反して歓喜する。
「ふっ……!」
「大人しく従っていれば、もっとたくさんの水を注いでやる」
濡れた舌が手の甲をなぞって、ヴィートの腕がビクッと痙攣する。
「あっ……!」
「だからこれから一生、お前は私に尽くすんだ」
手の甲から流れ込んでくる魔力の水で、乾いていた体が潤されていく。
それなのに、心は満たされずにカラカラのままだった。
(苦しい……)
キリアンが離した左手が、力無くだらんと垂れる。
先ほどよりも水分を含んで弾力の戻った手の甲の肌は、しかし真っ白で綺麗なままであった。
◇
ヴィートが黙っていると、ルドガーは苛立ったような口調で質問を繰り返した。
「答えろ。どうして属性管理局での仕事を蹴って、建設現場で働いていた?」
「別にいいだろ。お前には関係ないことだ」
「ヴィート、俺は――」
「疲れた。ちょっと静かにしてくれよ」
ルドガーはまだ不満そうに何か言いかけたが、結局黙ってヴィートの体を背負い直した。
少し体勢が楽になって、ヴィートはルドガーの肩口に頬をもたせかけた。
赤毛の中に一筋だけ混じる銀髪が、夕日を弾いて煌めいている。
手袋に覆われた左手へ視線を落とし、ヴィートはその手をぐっと握りしめた。
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