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第7話 恋人って……?
朝食に向かう前、ルドガーの指示を受けた使用人が、湯気の立つ洗面鉢と清潔なタオルを持ってきてくれた。
「俺は先に行って両親に説明する。お前は体を拭いて、着替えてここで待ってろ。準備ができたら呼びに来るから」
「……分かった」
一人で他人の部屋に残るのがなんとなく落ち着かず、ヴィートは歯切れの悪い返事をした。
振り向きざまに、ルドガーが微かに眉を上げる。
「その程度の湯で溺れたりしないだろ」
「しねえよ! さっさと行け!」
「溺れんなよ」
ルドガーはニヤッと笑いながら、バタンと扉を閉めた。
彼の足音が遠のくのを確認してから、ヴィートははぁっと大きくため息をついた。
(一年以上会ってない間に、あいつ、なんか変わったな……)
出窓に置かれた植物に指先で触れると、瑞々しい緑の葉っぱがくすくす笑っているように微かに揺れた。
学院時代の彼はもっと短気で喧嘩っ早く、言葉も刺々しかった。
今でも時折、強い火が噴き出すことはあるが、なんというか、弱火の時間が増えたような気がする。
(仕事を始めたから、やっぱり大人になったのかな。やりたかった仕事に就いて……)
ルドガーの部屋は壁一面が本棚になっていて、分厚い背表紙の本がぎっちりと詰め込まれている。
自分だけがあの頃にぽつんと取り残されているような気がして、ヴィートは思わず足元に視線を落とした。
もう一度小さくため息をついてから振り返ると、先ほどエイムズ家の使用人が置いて行った洗面鉢が目に入った。
『溺れんなよ』
(いや、やっぱり変わってない! ああやって人を小馬鹿にするところとか!)
急に腹が立ってきて、ヴィートは足音も荒く洗面鉢に近づくと、昨日からずっと着たままの作業着をバサッと脱ぎ捨てた。
湯で濡らしたタオルを顔に当てると、ふわっとハーブのようなスッキリとした匂いに包まれる。
(あ、これ、殺菌作用のある薬草だ。あまり知られてない植物なのに、すごいな)
薬湯を含ませたタオルで全身を拭うと、さっぱりして気分も上向いてきた。
ヴィートはきちんとタオルを畳んで洗面鉢に掛けると、ルドガーが用意してくれた新しい衣服に袖を通した。
身長差はほとんどないはずなのに、やっぱり袖が少し余ってしまう。
(まあでも、今は逆に好都合だな)
右手の袖だけ折り返して、左手の方は手の甲の勿忘草を隠すため、伸ばしたままにしておく。
シャツのボタンも一番上まできっちり留めれば、首元の蔦を隠すことができた。
ルドガー自身は息苦しいのか、いつも上のボタンを二、三個外していたけれど。
ちょうど身支度が済んだ頃に、薬湯を持ってきてくれた使用人がヴィートを迎えに来た。
「エイムズ夫妻がお待ちです。食堂までご案内します」
ルドガーとは、学院の初等部の頃からずっと一緒で、エイムズ夫妻にも何度か会ったことがある。
それでも、このように後ろめたい状況で顔を合わせるのは初めてで、ヴィートは思わず背筋をピシッと伸ばしていた。
使用人は部屋に入ると、ヴィートが使い終わった洗面鉢とタオルを回収した。
「どうぞ、こちらです」
洗面鉢を持って歩く使用人の後ろを歩きながら、ヴィートはふと気になって彼女に尋ねた。
「あの、その薬湯はあなたが作ってくれたんですか?」
「はい。私がご用意いたしましたが」
「ありがとうございます。殺菌効果のあるお湯で、さっぱりしました。植物の効能に詳しいんですね」
すると、その使用人は不思議そうな表情で、背後のヴィートを振り返った。
「いえ、私はルドガー様の指示通りに調合しただけでして。体を清めるのに良さそうな香りだとは思っておりましたが」
(あいつが……?)
属性管理局に勤めているから、植物属性の特徴に詳しいというのは納得できたが、植物そのものにまで詳しいというのは意外だった。
考え事をしながら歩いていると、大きな両開きの扉の前に立った使用人の女性が、恭しく一礼した。
「こちらが食堂でございます」
ヴィートは軽く深呼吸すると、彼女が開けてくれた扉から食堂へと足を踏み入れた。
白いテーブルクロスの掛かった長テーブルに、エイムズ家の三人が着席して朝食を取っている。
テーブルの一番端の上座に、ルドガーの父親であるエイムズ伯爵が腰掛け、その両隣に夫人とルドガーが向かい合って座っている。伯爵は燃えるような赤毛で、火の一族であることが一目瞭然だ。夫人は金髪の優しそうな女性で、属性発現のない家系から嫁いできた人だった。
三人の視線を受けながら、ヴィートはぎこちない足取りで、銀器の用意されているルドガーの隣の席へと歩いて行った。
「ヴィート、久しぶりね」
さっそく夫人がにこやかに声をかけてくれて、ヴィートはその場で深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております。エイムズ伯爵、夫人」
「ルドガーのせいで怪我をしたんだって?」
「あ……」
伯爵に聞かれて、ヴィートは一瞬言葉に詰まった。すかさずルドガーがフォローに入る。
「別に大した怪我じゃない。でもこいつが酷く痛がったから、念のためうちの医者に様子を見させたいんだ。後になってバスク家から文句を言われても厄介だからな」
「お前な、他人に怪我をさせたくせにその言い方は何だ。しかも相手は、バスク家嫡男の婚約者だと? お前の軽率な振る舞いが、エイムズ家の名に傷をつけるとは考えなかったのか」
厳しい口調で叱責する父親を、ルドガーは挑戦的な目で睨みつけた。
「あの程度で騒ぐ方がおかしいんだ」
「ルドガー!」
「は、伯爵! ルドガーは——」
さすがに聞いていられなくて口を開きかけたが、ルドガーがそれを遮るようにヴィートの腕を引っ張った。
「いいから早く座れ」
「ルドガー……」
彼の目が「余計なことは言うな」と訴えかけている。ヴィートは出かかった言葉をぐっと飲み込んで、大人しくルドガーの隣に座った。
「でも、ヴィートはキリアンの婚約者でしょう? 一週間も家を空けて大丈夫なの?」
夫人にそう指摘されて、ヴィートは手に取ったばかりの銀器をうっかり落としかけた。
「や、それは……」
「この後バスク邸に行って俺から説明する。医療費はこちら持ちだし、納得してもらえる条件を提示するつもりだ」
「条件って……そういうことじゃなくて」
夫人は腑に落ちないといった表情で、ヴィートに視線を移した。
「恋人と一週間も離れるなんて、お互い平気なものかしら?」
恋人、という夫人の言葉に、ヴィートはパンをちぎっていた手をピタリと止めた。
そういえば、キリアンのことを恋人だと思ったことが、自分には一度でもあっただろうか。
その領域に踏み込む間もなく、水を盾に彼の支配下に置かれてしまったから。
「こないだバスク伯爵に会ったが、キリアンは素行を改めたようだと喜んでいたぞ。以前は少し金遣いが荒いと悩んでいたのだが、婚約者と暮らすようになってからは金を無心することが無くなったようだ」
隣のルドガーが微かに身じろぎする気配が伝わってきて、ヴィートの背中から冷や汗が噴き出した。
(頼むから、気づかないでくれよ……)
一緒に住むようになって知ったのだが、キリアンには賭け事にのめり込む悪癖があり、自分の稼ぎを超える金額を注ぎ込むこともしょっちゅうあった。
以前はあれこれ言い訳して親から無心していたようだが、最近その必要が無くなったのは——代わりにヴィートから金を搾り取るようになったからだ。
「結婚を意識すると、人は自然と責任感を持つようになるものだ。それに比べてルドガー、お前ときたら、休みの日はずっと部屋にこもりっぱなしで。浮いた話の一つも無いのか?」
「勉強熱心なのはいいことだけど、誰か気になる人はいないの?」
エイムズ伯爵夫妻と一緒に、ヴィートも思わず隣の色男をじっと見つめていた。
子供の頃、短気な彼は男女問わず敬遠される存在だった。だが、学院の高等部に入る頃になると、一部の女子生徒から熱い視線を向けられるようになっていた。
(当然だよな。家柄も顔もいい男だ。それに性格だって多少キツイところはあるけど——)
今さらだが、ルドガーに恋人はいないのだろうか?
そう考えた瞬間、服の下で首筋の蔦がちくりと疼いた気がして、ヴィートは無意識に右手で胸を押さえていた。
(……ん? 何だ、今の)
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