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第8話 ルドガーの水、キリアンの水
エイムズ夫妻との朝食を終えた後、ルドガーは一旦ヴィートを連れて自室に戻った。
「バスク邸に行く前に、これを」
ルドガーはヴィートを椅子に座らせると、左手の甲にぐるぐると包帯を巻きつけた。
「ちょっと大袈裟じゃね?」
「怪我をしたって説得力が増すだろ? 花も隠せて一石二鳥だ」
痛々しい包帯姿の左手を持ち上げながら、ヴィートは上目遣いにルドガーを見た。
「……なぁ、やっぱりお前のせいで怪我したって言うのはやめた方が——」
「今さら何言ってんだ。もううちの両親もそう信じてるんだから、押し通すしかねえだろ」
「でも……」
いまだに躊躇しているヴィートに、ルドガーは苛立った様子で軽く舌打ちしかけたが、すぐに思い直したように口を閉じた。
「……別にキリアンに花を見られたくないってだけで、お前を引き留めてるわけじゃない」
「えっ?」
「植物属性の人間には稀に花が咲くことがあるって、知識としては知ってた。でも、こんなにはっきりと咲いてるのは、図鑑でも見たことがない。またとないチャンスだから、間近で観察させてほしいんだ」
そういう理由なら、後ろめたさが少しは緩和される。
ヴィートは内心ほっとため息をついてから、わざとからかうような口調で答えた。
「なんだよ。ちょうどいいサンプルが手に入ったってか」
「ああ、めちゃくちゃ貴重なサンプルだ」
「マジで仕事熱心なんだな。寝不足とか過労で倒れんなよ」
「お前と一緒にするな」
青白い顔にくっきりとクマを浮かべて言われても、説得力は半減だ。
「とにかく、キリアンの許可を貰わないことには始まらない。説明は俺がするから、お前は余計なことを言うんじゃねえぞ」
「余計なことって何だよ」
「さっきだって、俺の両親に言う必要のないことまで言おうとしてただろうが」
「だって……」
堂々と嘘をつくのは、言うほど簡単なことではない。
ましてや、他人に濡れ衣を着せるということは。
「いいか、目的を見誤るな。俺はキリアンといざこざを起こしたくないし、お前の花の観察もしたい。お前だって婚約者に詰められたくはないだろ?」
「それは、まぁ……」
「だったら余計な気なんか遣うな。面の皮を厚くして、目的を達成することだけ考えろ」
「……分かったよ」
ヴィートが渋々頷くと、ルドガーは微かに口角を上げた。
「お前のそういう固真面目なとこ、昔から変わってないよな」
(自分だって、平気で汚れ役を引き受けちまうとことか、ちっとも変わってないくせに)
思わず出かかった言葉をぐっと飲み込むと、それを見ていたルドガーはわざとらしく神妙な表情を作った。
「だけどなヴィート、真面目さを評価されるのは子供時代だけだ。大人は結果が全て。純粋なお前には難しいかもしれないが、目的のためには手段を選ばないしたたかさも持たないと」
「うるさい。俺に説教すんな」
ジロッと不満げな表情で睨みつけると、ルドガーは堪えきれなくなった様子でぷっと吹き出した。
◇
バスク邸は森と湖に囲まれた巨大な邸宅で、敷地内には人工の滝や川も流れており、いかにも水の一族が好みそうな景観を作り出している。
綺麗な水や緑の木々に囲まれた生活は快適ではあったが、一年暮らしてもヴィートはこの場所を“自分の家”とはどうしても思えずにいた。
水は十分すぎるほどある。
それなのに、ここにいるといつも喉の奥が乾く気がした。
(だって……一日ぶりに帰ってきた今もそうだけど、ここを“帰りたい場所”とは思えないから)
空気、匂い、待っている人々。そのどれを取っても、ヴィートがここに根を張りたいと思える要素が思い浮かばない。
「ヴィート! 昨夜は戻らなかったようだね」
ルドガーと並んで屋敷の正面玄関前に立っていたヴィートは、扉から顔を出したキリアンににこやかにそう指摘されて、ゾクッと鳥肌が立つような恐怖を覚えた。
(やばっ! やましいことがあるって見透かされて——)
「この度はこちらの失態でこのような事態になってしまい、申し訳ない」
いつもの乱暴な口調が嘘のように、ルドガーの声は低く整っていた。
王立属性管理局の職員として、貴族の子息として、隙のない堂々とした態度だ。
「先ほど使いの者から聞いたよ。昨日仕事場で怪我をして、エイムズ邸で治療を受けたんだって?」
「俺の落ち度ですから、治療費はこちら持ちで。エイムズ家の医師が責任を持って経過観察も行います。それで、一週間ほど我々の屋敷で療養していただこうかと」
「いやいや! そこまでしていただく必要はありませんよ! そんな大した怪我でもないんだろう?」
ルドガーの指先がぴくりと震え、ヴィートは緊張で喉がカラカラに乾くのを感じた。
(落ち着け……)
ヴィートはごくりと唾を飲み込むと、包帯を巻いた手の甲を袖口からチラッと見せた。
「そ、それが結構痛くて。捻り方が悪かったかもしれないから、しばらく様子を見たいって言われたんだ」
「そうなのか? いつもより顔色は良さそうに見えるが」
それは、ルドガーが水をくれたからだ。
キリアン相手にも嘘をつくことに罪悪感を感じていたヴィートだったが、この無神経な発言を受けて一気に開き直った。
「エイムズ家の医師が、植物属性の外傷は経過観察した方がいいって。症例としても記録を取りたいらしくて」
怒りに背中を押されて、先ほどよりもスラスラと嘘を並べ立てられる。
「確かヴィートが、あなたにお金を借りていると言っていまして。一週間無収入になるのはこちらの責任ですから、怪我をさせた詫びも兼ねて俺が代わりに負担しようと思うのですが」
お金の話になって、少し不審げだったキリアンの表情が、途端に愛想のいいものへと変わった。
「症例の記録にも協力していただけるなら、その分の金額も上乗せさせて頂きますが」
「それは——助かりますね。早めに返してもらいたいと思っていたお金でしたので。婚約者を他家に預けるのは本来好ましくありませんが、怪我をした以上、責任の所在は明確にしておくべきでしょうね」
(こいつ、またギャンブルで失敗したな)
内心ギリギリと歯軋りしているヴィートの横で、ルドガーがお金の入った封筒をキリアンに手渡している。
片手で封筒の重さを確認したキリアンは、満足そうな笑顔を浮かべた。
「分かりました。ヴィートのためにも、今回はエイムズ家のご厚意を受けましょう」
手の中の封筒に夢中で、ヴィートのことなどすっかりどうでも良くなった様子のキリアンに、ここでルドガーが慎重に切り出した。
「それで、ヴィートはあなたのもとを一週間離れることになりますので、出発前に水を補給していただきたいのですが」
ルドガーがいるので、正直キリアンから水を補給しておく必要などない。
だが、後々キリアンに疑われないためにも、ここは儀礼的に彼から水をもらっておく必要があった。
「ああ! すっかり忘れていた。一週間も水なしじゃあ、乾いてしまうな」
(どの口が言ってんだ。まさか、自分の行いはすっかり忘れ去ってるとかじゃないよな……?)
そう疑いたくなるくらい、キリアンは人のいい笑みを浮かべながらヴィートを手招きした。
「いつも水を与えているのは左手だが……ちょうど怪我をしているんだな」
ゾワゾワッと背中に鳥肌が立って、ヴィートは思わず身震いした。
包帯の下の花がバレるのを恐れたわけではなかった。これからキリアンが行う行為を考えた瞬間、今まで感じたことのないほどの嫌悪感を抱いたのだ。
(……落ち着け。たかが手の甲だ。口付けされると言ったって——)
ふうっとこっそり息を吐いてから、ヴィートはおずおずと右手をキリアンに差し出した。
と、キリアンはいつものようにその手を口元に近づけず、いきなりぐいっと引っ張って距離を詰めてきた。
「左手が使えないなら、いつも通りとはいかないね」
そう言って、キリアンは楽しげに目を細めた。
「そうだな。今日は気分がいいから、口から水を与えてやろうか。婚約者らしいところを、ルドガー殿にも見せておかないとね」
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