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第9話 そんなに好きなのかよ

 一瞬、キリアンが何を言ったのか分からず、ヴィートはされるがままに彼の腕に引き寄せられていた。 (……えっ?)  キリアンの長い指がヴィートの顎に掛かり、至近距離で目が合う。  くいっと顎を引き上げられた瞬間、首筋から後頭部にかけて、ぞわっと寒気が走った。 (……っ! 口って——)  ぐいっ、と左肩を引っ張られて、ヴィートの上半身が後ろに傾いた。 「うわっ!」  次の瞬間、たくましい腕と心地良い匂いに包まれた。  ルドガーはキリアンから引き離したヴィートを抱き止めた後、すぐに手を離して一歩前に出た。  まるでヴィートの盾になるかのように、ルドガーは二人の間に体を滑り込ませてキリアンと向き合った。 「いくら親密な間柄とはいえ、人前でそういうことをするのは下品だとは思いませんか?」 「へぇ、そうかな?」  キリアンは挑戦的な笑顔を浮かべながら、目の前に立つ赤毛の若者を眺めている。 「少なくとも、俺は不快です」 「私たちの行為に性的な意味はないよ。あくまでヴィートに水の魔力を補給するための行為だ」 「それなら手の甲からで十分なはずです。口からの供給は、巡りが速くて体に負担がかかることがある。これからしばらく慣れない場所で生活することになるので、そのような危険は避けるべきかと」  ルドガーの口調は淡々としていて、傍目には落ち着いているように見える。  だが、微かに震える拳を見た瞬間、ヴィートははっと彼の癖を思い出した。 (親指が、内側に入ってる……)  ルドガーは本当に怒ると、親指を中に折り込む癖があった。  その握り方では、力を込めすぎれば自分の親指を痛める。  それでも、外へ向かいそうな怒りを自分の手の中に閉じ込めるみたいに、昔からそうやって拳を握っていた。 「妙に植物属性に詳しいんだね。君には関係ないのに」  キリアンは相変わらず笑顔だったが、珍しく言葉の端々に棘を仕込んでいる。 「属性管理局の職員ですから。こいつとは一応同期になる予定だったんですよ」 「ああ、そういうこと」  王立官吏だと聞いて、キリアンの視線がすっと冷えた。  ルドガーはそれに怯むことなく、さらに一歩キリアンに詰め寄った。 「キリアン殿、こいつは寝る間も惜しんで勉強して、属性管理局の試験を首席で突破したんですよ。なのに入局式の日、こいつは現れなかった。婚約者のあなたなら理由をご存知なのでは?」  キリアンは笑顔だったが、その青い目は氷の張った湖のように冷たかった。 「バスク家に嫁ぐ者は、バスク家に従い、バスク家のことを第一に考えるべきだ。ルドガー殿、属性管理局での仕事は忙しくて大変でしょう? 家のことが疎かになるのは目に見えている」 「……それで、彼の輝かしい未来を奪ったと?」  ルドガーの低い声に呼応するように、ヴィートの体を巡る水の魔力が、ドクン、ドクン、と大きく脈打った。  自分の感情なのか、元々ルドガーの一部だった魔力の反応なのか分からないが、煮えたぎるような悔しさが全身を駆け巡っていく。 「愛する主人にその身を捧げる人生というのも、輝かしい未来だとは思いませんか?」 「少なくとも、俺やこいつにとっては違うと断定できますね。生涯を共にする伴侶とは本来、対等な立場であるべきでしょう?」  押し殺したようなルドガーの言葉をあしらうように、キリアンはふっと鼻で笑った。 「私が水を与えてやらないと生きていけない。その時点で、既に対等な関係とは言えないでしょう。こちらが与えるものの方が断然多いのですから、あなたの言う対等な関係だと、私の方が損してしまいますよ」  その瞬間、ルドガーの内側で見えない炎が一気に燃え上がったのを感じ、ヴィートは反射的に彼の前に出た。 「そ、そんな過去の話はもういいから! ほら、キリアンもルドガーも忙しいだろ? さっさと用事を済ませよう。立ち話してる時間が勿体無いよ」  ヴィートは右手を後ろへ回してルドガーの手首を押さえた。   「ほら、金は受け取ったんだから。水もくれなきゃ対等じゃないだろ?」  そう言ってルドガーから手を離し、そのまま右手をキリアンの前へ突き出す。  キリアンはルドガーをチラッと見てから片方の眉を上げたが、仕方がないと言わんばかりの表情でヴィートの右手を取った。  ヴィートの予想通り、予定外の大金を手に入れた彼の頭の中は、既に賭け事のことで大忙しになっているようだ。これ以上、目の前のどうでもいい二人に構う必要はないと判断したのだろう。  キリアンの唇が右手の甲に触れた瞬間、冷たい魔力が流れ込んできて、手の先から潤ってくるのを感じた。  だが、乾きが癒えてほっと息をつくような、いつもの心地よさは感じられなかった。 (気持ち悪い……)  むしろ、濁った水に浸っているような不快感しか感じない。  ルドガーの体がピクッと痙攣して、彼がさっと目を逸らしたのが分かった。 「ふっ……」  ゾワゾワと湧き上がる気持ちの悪さに、ヴィートは堪えきれずに喘ぎ声を漏らした。  キリアンはそんなヴィートをチラッと見ると、いつもより執拗に口付けしてからようやく手を離した。  確かに潤った感じはするのに、右手の甲に新しい花は咲かなかった。  ルドガーもそれに気がついたらしく、ヴィートと同じ場所にじっと視線を置いている。 「……ヴィート、実は見られながらするのが好きなのか?」 「は?」 「いつもより良さそうだった。そんな顔ができるなら、あの夜着など用意する必要もなかったかな」  ピキッ、と小さく骨の鳴る音がして、ヴィートははっと小さく後ろを振り返った。  強く握り込みすぎたルドガーの親指が悲鳴を上げている。爪が掌に食い込み、今にも血が滲みそうだ。 (やばっ……!)   「あ、ありがとう! 十分潤ったから、それじゃあ一週間ルドガーのところでお世話になるわ!」  これ以上は誤魔化し切れる自信がなかった。何より、本来瞬間噴火型のルドガーがここまで耐えているのが奇跡みたいなものだ。  ヴィートはルドガーの腕を掴むと、脇目も振らずに玄関前の馬車へ向かった。  帰りの馬車の中で、ルドガーは一言も喋らなかった。  その沈黙の方が、怒鳴られるよりよほど恐怖を感じさせた。  エイムズ邸に着くなり、今度はルドガーがヴィートの腕を掴むと、強い力で自室まで引っ張っていった。  バタン、と部屋の扉が閉まった瞬間、硬くて冷たい石壁がヴィートの背中に当たった。  片手を壁についたルドガーが、燃えるような瞳でこちらを覗き込んでいる。  彼の怒りがまだ収まっていないことに気づき、ヴィートは小さく息を呑んだ。 「どうして言わなかった!」  ルドガーの声はまだ抑えられていたが、キリアンと対峙した時とは比べ物にならないほど、声音から感情が(ほとばし)っていた。 「キリアンのせいで、属性管理局で働けなくなったって!」  ルドガーの体内で燃え上がる炎を感じ取って、ヴィートは一瞬怯んだ。  だが、彼はすぐに顔を上げると、叫ぶように言い返した。 「そんなこと言えるわけないだろうが! 俺はずっと、キリアンに見捨てられたら生きていけないって思ってたんだぞ!」  ヴィートの言葉を聞いて、ルドガーは微かに目を見開いた。  燃え上がっていた怒気が、一瞬で萎んでいく。 「……そんなに好きなのかよ」  ルドガーがボソッと何か呟いたような気がしたが、消えかけた灯火のような小さな言葉を上手く拾うことができなかった。

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