10 / 23
第10話 俺の仕事を手伝うってのはどうだ?
しん、とルドガーの寝室に、気まずい沈黙が落ちる。
石壁とルドガーの腕に阻まれて身動きの取れないヴィートは、気まずそうに足元へ視線を落とした。
(……ちょっと言い方キツかったかな? こいつは俺のために言ってくれてるのに)
ルドガーも俯いたため、額同士が軽くこつんと触れ合った。
「あっ」
「悪い」
ルドガーが体を引いて顔の距離が離れたため、ヴィートは止めていた息をようやくふーっと吐き出した。
何か言わなければと思い、ヴィートはとっさに右手を顔の高さまで持ち上げた。
「そういえば、やっぱり花は咲かなかったな」
白い手の甲を一瞬見てから、ルドガーはなぜかふいっと視線をそらした。
彼が何も言わないので、ヴィートは少し不安になっておずおずと尋ねた。
「ルドガー?」
「……ってなんだ」
「えっ?」
「夜着って何のことだよ」
まさかルドガーがそれを覚えているとは!
ヴィートは動揺を隠しきれずに、かっと頬に血を上らせた。
「や、それは、その……」
「あいつと楽しんでるなら、俺に触れられるのは嫌だったんじゃないか?」
「違う!」
思わず反射的に叫ぶと、ルドガーが軽く目を見開いた。
「前にも言ったけど、キリアンには手の甲からしか水をもらったことはない。夜着ってのはあいつの悪ふざけで——」
「あいつが言ってたことは本当なのか」
「何が」
「見られながらが、どうとか」
「だから違うって!」
「でも、いつもより良さそうだったって——」
「全然良くなかった! むしろいつもより不快っていうか……」
手の甲から滑り込んできたキリアンの水の感覚を思い出して、ヴィートは思わず身震いした。
「以前はそんなことなかったのに。あいつの水、気持ち悪いって思ったんだ」
ルドガーは、服で隠れているヴィートの首元を一度見てから、ゆっくりとした動作で彼の右手を取った。触れられた瞬間、ヴィートの右手がぴくりと跳ねたが、すぐに力を抜いてされるがままに任せた。
「……じゃあ、俺の水は?」
手の甲にルドガーの息がかかって、ヴィートの体がぞくりと疼いた。
キリアンに触れられた時とは、明らかに違っている。
「……お前の水は気持ち悪くないけど——なんかムカつく」
「なんだそれ」
ルドガーはようやく張り詰めていた糸が緩んだように、ふっと笑顔を見せた。
ヴィートもなんとなく嬉しくなって、小さく息を吐きながら目尻を下げた。
「まだ気持ち悪いなら、俺の水で上書きしてやろうか?」
「いや、跡がつくだろ」
「そうだった。花は正直だよな」
ルドガーはそこに口付けする代わりに、指で何度か擦ってからようやく手を離した。
「俺は少し仕事があるから、お前はここで休んでろ」
「えっ? 今日は休日だろ?」
「持ち帰ってる仕事があるんだ」
そう言うと、ルドガーは本棚に近づいて行って、分厚い本を何冊か取り出した。
「……別の部屋でするのか?」
「いつもはここでするが、お前が落ち着かないだろ?」
「いいよ。わざわざその本持って移動するの大変だろ」
ルドガーは一瞬黙ってヴィートの顔をじっと見たが、やがて抱えていた本を文机の上にどさりと置いた。
「……持ち帰ってまでやらなきゃなんないなんて、やっぱり属性管理局って忙しいんだな」
「やる気のない奴が多くて、その分こっちにしわ寄せが来てるんだ」
ルドガーは少しイラついた様子で、机に置いた本をパラパラとめくった。
「へぇ、わざわざ難しい試験を受けてまで、そこに勤めてるのに?」
「入ってみて分かったけど、俺たちみたいな試験組なんかほとんどいない。親の口利きで入局した貴族連中が大半を占める、腐った組織だ。属性持ちもほとんどいない」
「えっ、そうなんだ」
「まあでも、困っている属性持ちを助けたいって気持ちで入った人間も多少はいる。そういう上司と俺で、ただぬくぬくと給料をもらうためだけに来てる連中の尻拭いをしてるんだ」
ルドガーは確かに顔色があまり良くなく、疲れた表情をしていたが、本に向かっている視線は真剣そのものだった。何か難しい問題にぶち当たっているのか、眉間の皺を深くしている。
「……ごほっ」
「なぁ、お前やっぱり調子悪いんじゃないか?」
「寝不足なだけだ」
寝不足にしては、咳のあとに唇まで血の気を失ったように見えた。
けれどルドガーは、ヴィートが追及する前に本へ目を落とすと、ぶつぶつと口の中で何か呟き始めた。
「どうしてこの結果になるんだ? 計算式が間違っているのか?」
ヴィートはルドガーの邪魔にならないよう、もそもそと寝台によじ登った。
首元から水をもらった後の気怠さはすでに消え、意識はすっかり冴えていた。
休めと言われたものの、とても横になる気になどなれなかった。
「……なぁ、それまだ解けないのか?」
「お前は寝とけって」
「元気になって眠れないんだ。それ、ちょっと見てもいい? 機密情報とかでなければ」
それを聞いて、ルドガーはようやく本から顔を上げた。
「個人名は伏せてある、持ち帰り用の症例記録だから別に問題ないが……属性管理局の仕事が気になるのか?」
「そりゃあ、やっぱり今でも未練はあるし」
ルドガーは本を持って立ち上がると、ヴィートの隣にギシッと音を立てながら腰掛けた。
「いや、わざわざこっちに持ってこなくても。いいよって言ってくれれば俺が行ったのに」
ルドガーはそのヴィートの言葉は無視して、手元のノートをヴィートに開いて見せた。
「風の属性持ちの案件を持ってるんだ。彼らは風の影響で気分や体調が変わりやすいから、個人や症状に合わせた薬を調合しないといけないんだが、あまり効いてないみたいで」
びっしりと文字や数字が書き込まれたノートから、ルドガーの仕事に対する真剣さが伝わってくる。
「……この人、寒い時期に頭痛が酷くなるって?」
「ああ。他の連中は、そんなの属性に関係なくよくある症状だからって気にも留めないけど、俺はこの人に関しては風属性の影響があると思ってる。上司もこの薬草でいいって教えてくれたし、この配合で間違いないはずなんだが……」
ヴィートはルドガーのノートと本を交互に覗き込みながら、書き込まれている文字を丁寧に目で追っていった。
(計算式は間違ってなさそうだな。指定された薬草も合ってるみたいだし……)
そこでふっと気になることがあって、ヴィートは隣でノートを睨みつけているルドガーを振り返った。
「ルドガーが担当してるのって、女の人?」
「いや、男性だ」
「小柄な人なのか?」
「いや? 一般的な男性の体格だと思うが——」
「だったら、この薬草の量を増やさないと」
ヴィートはそう言いながら、ルドガーのノートに書かれている薬草名を指差した。
「えっ? でも、それだと本に書かれてる量と違うんじゃ——」
「風属性に関する古い文献は、女性の症例に偏ってることがあるんだ。風属性は女性の発現例が多いから、記録に残ってる標準量も小柄な女性を基準にしてる。この人が一般的な成人男性なら、同じ量じゃ足りないはずだ」
ルドガーは軽く驚いた様子でヴィートを見た。
「お前、よく覚えてたな。キリアンの屋敷でも勉強してたのか?」
「まさか。そんなことさせてもらえるわけないだろ。あれだけ勉強したんだから覚えてるよ」
ルドガーはしばらく黙って、ヴィートの指先を見ていた。
建設現場で丸太一本支えられず、震えていた指。
その指が今、正確に薬草の名前を指し示している。
「……お前さ、俺が立て替えた金って、どうやって返すつもりなんだ?」
「また建設現場で働いて返すよ。それしかさせてもらえないし」
「俺は別に、返して欲しいとは思ってない」
ボソリと呟いたルドガーの言葉に、ヴィートは驚いて目を見張った。
「何言ってんだ? そんなわけにはいかねえよ」
「だったらさ、俺の仕事を手伝うってのはどうだ?」
ルドガーはそう言いながら、ノートをパタンと閉めてヴィートの目の前にかざして見せた。
「俺はこうやってしょっちゅう仕事を持ち帰ってんだ。局のポンコツどもより、お前の方がよっぽど役に立つ。それで俺への借金はチャラにしてやるよ。これでどうだ?」
ともだちにシェアしよう!

