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第22話 蔦の先に咲く花と、胸元の開いた服

 バスク邸、キリアンの居室にて。 「珍しいな。君が自宅でこれを嗜むだなんて」  屋敷を訪れている友人にそう言われて、キリアンは手にしたグラス越しに、満足げに目を細めた。 「両親が一カ月ほど旅行で家を空けているんだ。いつもよそのお宅で振る舞われるばかりじゃ悪いと思ってね。それに今はヴィートもいなくて好都合だ。彼は植物に詳しいから、むしろ両親より厄介かもしれない」 「でも、彼は君がいないと生きていけないんだろう? ちょっとぐらい悪さをしたって、憲兵に突き出したりなんかできないだろ」 「もちろんそうだよ。でも、弱みは一方的に握る方がいいに決まってる」 「悪い男だな」  友人は笑いながらグラスを軽く回した。酒精に混じって、青臭い薬草のような香りが立ち上る。それを満足そうに嗅いでから、一気に飲み干す。  しばらくすると、彼の目元がとろりと緩んできた。   「そういえば今日、お前の婚約者を見かけたぞ。幼児院の前で」 「ヴィートを?」 「ああ。前に見た時とは別人みたいだった。顔色もいいし、随分生気に満ちてたな」  友人の言葉に、キリアンは微かに眉を寄せた。  生気に満ちていた?  最後に水を与えたのは、もう何日も前だ。しかもあの時、手の甲からほんのわずかに与えただけ。 (それだけで、他人が見ても分かるほど潤っていただと——?)  以前ヴィートを連れてきたルドガーの姿を思い出して、キリアンはグラスを机に置くと友人の方へと身を乗り出した。 「……誰と一緒にいた?」 ◇  初めて他人と——ルドガーと口付けを交わした日、ヴィートはその後もずっとそわそわして落ち着かず、夜もまともに眠ることができなかった。  一方のルドガーは、いつもと変わらず落ち着いているように見えたが、朝はヴィートよりもだいぶ酷い顔でもそもそと起きてきた。 「……おはよう、ヴィート」 「酷い顔だな」 「おい、おはようって言われたら、他に言うことがあるだろうが」 「こないだの仕返しのつもりかよ。おはよう」  ルドガーは青い顔で満足そうに目尻を下げると、座ったままうーんと大きく伸びをした。 「お前だってすごいクマだぞ」 「ルドガーほど酷くないってことぐらい、なんとなく分かるよ」 「俺は連日の仕事の疲れが溜まってるだけだ」  そのまま立ちあがろうとした瞬間「ごほっ!」と咳き込んで、ルドガーはやむなく寝台に座り直して体を丸めた。 「おい! 大丈夫かよ?」 「ごほっ! ごほっ!」  ルドガーはしばらく咳き込んでから、さらに青ざめた顔を上げた。 「なぁ、お前さ。今日ぐらい仕事休んだらどうだ?」 「別に休むほどのことじゃない」 「でも、顔色いつもよりだいぶ悪いぞ」  昨日の口づけのせいだろうか。  そう思った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。   「他の連中には任せられない案件を抱えてる。別に無理してるわけじゃなくて、俺自身が仕事に行きたいんだ」  そう言われて、ヴィートはそれ以上彼を止めることができなくなってしまった。  属性管理局での仕事は、ルドガーにとっても夢の仕事だった。だからこそ彼は親の反対を押し切り、難関試験を突破してその座を勝ち取ったのだ。  少々体調が悪くても休みたくはない——その気持ちは、ヴィートにも痛いほどよく分かった。    本当は、禁書に書かれていた「火が消える時」という言葉が気になって、頭から離れなかった。  けれど、それを口にすれば、自分があの本を読んだことまで知られてしまう。 「でもその代わり、帰りは早く上がらせてもらう」 「結局仕事持ち帰ってたら同じだぞ」 「そんなことはない。俺は他人と同じ部屋にいるだけでストレスなんだ。ここで作業する方がよっぽど気が楽だ」  それって——俺と同じ部屋にいるのは、ストレスを感じないってこと?  思わず聞きかけて、すんでのところで口を閉じた。  ルドガーが制服を着て部屋を出て行ってから、ヴィートはようやく大きく息を吐き出して、そのまま寝台にぽすっとうつ伏せに倒れ込んだ。 (あいつ……やっぱり俺のこと、好きなのかな?)  白いシーツに、まだルドガーの匂いが残っている。胸がぞわぞわと疼いて、ヴィートは思わず横向きに体を丸めた。 (好きでもない相手と、普通キスなんかするか? ……でもあいつ、好きでもないミレナのために濡れ衣まで被れるようなやつだしな)  悶々としながら寝台の上を転がっていたヴィートは、ふと仰向けになって左手の甲を掲げて見た。  ルドガーが言った通り、青い勿忘草はこの数日でだいぶ薄くなって、所々消えかかっていた。 (そういえば、蔦の方はどうなったんだろう……?)  ヴィートは寝台から起き上がると、ルドガーが貸してくれた前開きのシャツのボタンを上から一つずつ外して鏡の前に立った。 「あっ!」  他に誰もいない寝室に、ヴィートの声が響き渡る。 (花が……咲いてる?)  左胸の上まで伸びた蔦の先に、可憐な紫色の花房の模様が垂れ下がるように浮かんでいた。  それは、絡みつく蔦の先に咲く藤の花だった。 (口からだと新しい跡は付かないって言ってたけど……元々あった蔦に水が届いて、その先に花が咲いたってことかな?)  最初に現れた時は戸惑った花の模様。だけど今は——すぐにでもルドガーに見て欲しかった。  その理由は、明らかに知的好奇心だけではなかった。 (だって、ルドガーが水をくれた時だけ咲く花って、まるで——)  その時、コンコンと部屋の扉を叩く音が聞こえて、ヴィートは慌ててシャツの前面をかき合わせた。 「ラナーク様。伯爵ご夫妻がお呼びでございます。すぐに応接までいらして下さい」 (ルドガーの両親が? 彼の留守中に、一体何の用だろう?)  不思議に思ったが、ヴィートはすぐに了承の返事をして、先ほど外したボタンをもう一度きちんと止め直した。左手の甲にも包帯を巻いてから扉を開けると、いつもの使用人の女性が応接室まで案内してくれた。  エイムズ邸の厳つい石造りの廊下の壁には、歴代の当主たちの肖像画が等間隔に飾られている。  全員厳しそうな表情の赤毛の男性で、かっちりとした軍服姿で描かれているものばかりだった。 「……伯爵、ラナーク様をお連れしました」 「おお、来たか。早く入りなさい」  いつもは低いエイムズ伯爵の声が、なぜだか今日は緊張しているかのように少しだけ高い。  不審に思って眉をひそめたヴィートの目の前で、使用人の女性がガチャリと扉を開いた。 「ヴィート!」  その来客の姿が目に飛び込んできた瞬間、ヴィートの背中をさあっと冷たいものが走った。  エイムズ伯爵夫妻の正面に、銀髪碧眼の美しい男性が優雅に腰掛け、ヴィートに向かって笑顔で手を振っている。 「キ、キリアン! どうしてここに……?」 「どうしてって。ヴィートがお世話になっているんだから、ご挨拶に伺ったまでだよ」  伯爵は背筋を伸ばしていたが、指先だけが膝の上で強張っていた。  火の属性を持つ体が、本能的に水属性のキリアンを警戒しているのだ。  しかし、ヴィートの正式な婚約者であり、水の供給者でもあるキリアンを、エイムズ家が門前払いできるはずもなかった。 (キリアンが俺のことを気にするだなんて——絶対に有り得ない。何か目的があるはずだ)  ヴィートの警戒心に気づいているのかいないのか、キリアンは相変わらず柔和な笑みをヴィートに向けている。   「何か不自由していることはないかい? 例えば——水とか」  つうっ、と冷たい汗が、こめかみから首筋へと伝っていく。 「……だ、大丈夫。まだキリアンから水をもらって、一週間も経ってないし……」 「ふうん、そうか。確かにいつもより潤って、肌も瑞々しく見えるね」  ヴィートは口元が引きつりそうになるのをなんとか堪えながら、無理矢理笑顔を取り繕って見せた。 (こいつ……必要な時は水をくれなかったくせに、どうしてこんな時だけ——) 「ああ、そうだ! こっちは不自由してるんじゃないかと思ってね」  キリアンは急に思い出したようにそう言うと、ソファの横に置いていた包みを開いて見せた。 「ちょうど服飾店に寄る用事があったから、君に似合いそうなものを見繕ってきたんだ。ルドガーの服じゃあ大き過ぎるみたいだし」 「まぁ! あそこのお店の服、センスがあっていいのよねぇ。ヴィート、さっそく着て見せてちょうだいよ」  無属性の夫人はキリアンに緊張している様子はなく、純粋に洋服に興味があって目を輝かせていた。 「あ、でも……」 「ほら、私が着替えを手伝ってあげよう。どこか部屋をお借りしてもよろしいですか?」 「もちろん! 着替えたらぜひ私にも見せてちょうだい。すぐに部屋へ案内させるわ」  夫人に目配せされて、先ほどの使用人が応接室の扉を開ける。  ヴィートは半ば強引にキリアンに腕を掴まれて、そのまま廊下へ連れ出された。  扉が閉まる直後、「キリアンって本当に気が利くのね」という、夫人の感心したような声が漏れ聞こえてきた。  案内されたのは客間の一つで、ルドガーの部屋に比べるといささか手狭だったが、鏡台や机の他に寝台もきちんと備え付けられていた。 (別にルドガーの部屋で一緒に寝なくても、この部屋を貸してくれれば十分だったのに……)  その事実に今さら気づいてしまい、妙に落ち着かない気分になった。  そんなことを考えながら鏡台を眺めていたヴィートだったが、不意にキリアンが背後に立ったのが鏡越しに見えて、思わずばっと後ろを振り返った。 「キリアン! 何を……!」 「どうしてそんなに警戒してるんだ? 何かやましいことでもあるとか?」 「そ、そういうわけじゃ……」 「ほら、この服結構高かったんだぞ?」  キリアンは楽しげにそう言うと、白いサテンのシャツを鏡の前でヴィートの上半身に当てがって見せた。 「夫人も楽しみにしていらっしゃる。早く着替えたらどうだい?」  鏡の中の自分を見ながら、ヴィートは言葉を失っていた。  高価そうな刺繍の入った白いサテンのシャツは——首元が広く開いたデザインになっていた!

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