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第26話 もう触れてはいけない

 次の日、前日の騒ぎなど嘘のように、ルドガーはいつも通りの落ち着いた表情で仕事へと向かった。 「転居の手続きには少し時間がかかるが、父も数日時間をくれると言っているから問題ないだろう」 (数日以内に荷物をまとめて出ていけって言われた、あのことを言ってるのか? そんな前向きなセリフじゃなかったと思うんだけど……)  呆れていいのか感心していいのか分からず、ヴィートはどっちつかずの曖昧な表情で微笑んだ。 「どちらにしろ、引っ越しは休日になるから——」 「その話はもういいって。早く行かないと遅刻するぞ」  ヴィートにぐいぐいと部屋の出口まで押されて、ルドガーは少し戸惑ったように振り返った。 「今日はまだ余裕があるぞ」 「喋ってたらあっという間に出勤時刻になっちまう」 「行く前に、水を入れておかなくて平気か?」  大丈夫、と言いかけたヴィートだったが、やっぱり気が変わって、ルドガーの顔にぐいっと自分の顔を近づけた。 「……じゃあ、ちょっとだけ」 「どこから補給する? 少しでいいなら手の甲にするか?」 「いや……」  一瞬怯みかけたが、ヴィートは真っ赤になりながらもその場でぎゅっと固く目をつぶった。  欲しがってはいけない。  そう分かっているのに、今日だけはどうしても、その場所に彼の唇を受けたかった。  ヴィートの願いを瞬時に理解したルドガーは、荷物をどさっと床に落とすなり、ヴィートの唇を塞いだ。 「んっ……」  水の魔力と一緒に、ルドガーの想いが口から流れ込んでくるような心地がして、ヴィートは夢中で優しく触れてくる舌を吸い上げた。 「……ふっ、ちょっと!」  ルドガーはびくっと体を震わせると、少し狼狽した様子でヴィートの肩に手をかけ、そっと唇を離した。 「そういうのは、仕事前だからあんまり……」 「——っ! ごめん!」  ルドガーの代償を分かっていながら欲しがってしまった罪悪感が、一気に押し寄せる。 「ごめん、俺、分かってたのに、つい——」 「いや、そっちじゃなくて……」  珍しく歯切れの悪いルドガーの言葉に、ヴィートは軽く眉をひそめた。 「そっちじゃない?」 「あのさ……口よりももっと深い場所から水を供給したらどうなるか、お前知ってるか?」  思わずルドガーの顔をまじまじと見つめると、彼は気まずげにぱっと目を逸らした。  耳の先が赤くなっている——ヴィートの頭に浮かんだ内容で、間違いなさそうだった。 「……最も深く繋がった場所から水を受け入れたら、俺の中の根が活性化される。その根が繋がった場所からお前の中心に伸びて、魔力の根を張るんだ。俺の植物の魔力がお前に流れ込むのは、そういう形で深く繋がった時だけだよ」  そうして一度根を張ってしまえば、根を受け入れた水属性は、その植物属性以外の人間の体を受け付けなくなる。  植物属性が生き延びるために身につけた、いわば最後の防衛本能。  そう教えられてきた。 「……お前、もしかして——俺に縛られたいのか?」 「結果的に縛られることになっても、別にいいと思ってる」  それはつまり—— (縛られる代償を払ってもいいから、俺とそういうことをしたいって——)  ヴィートも思わず顔を赤らめながら俯き、二人の間にしばしの沈黙が流れた。 「……水の供給方法としても、最も効率のいいやり方だから」 「……うん」 「また考えておいてくれ」 「分かったから、早く仕事行け」  最後は照れ隠しもあって、いつものぶっきらぼうな調子に戻ってしまった。  ルドガーは軽く口角を上げてから、名残惜しそうに一度振り返ってバタンと扉を閉めた。  一人部屋に残されたヴィートは、静まり返った部屋の中で詰めていた息を大きく吐き出した。  先ほど触れ合った唇が熱い。その熱に呼応するように、体の中心もぞわりと疼いている。  まるで、唇に触れた人間の体に根を伸ばそうと、自分の根が疼いているかのようだ。 (……熱い)  思わず前屈みになって、ぎゅうっと体の中心を押さえた。  しかも、体の中心が潤って、下着が少し濡れるような感覚があった。  深く繋がって水を受け入れる時、植物属性の体は性別に関係なく、それを助けるように変化する。生き延びるために備わった本能だ。    でも、この熱を解いて欲しい人に、もう触れてはいけない。    熱がおさまった頃合いを見計らって、ヴィートはゆっくりと立ち上がった。  衣装戸棚を開けると、襟元の大きく開いたシャツが目に入って、思わず顔をしかめる。  二度と袖を通すつもりなどなかったが——キリアンの機嫌を取るには、これを着て帰るのが最も確実だろう。  眉根を曇らせながらシャツを身につけ、鏡の前に立つと、緑色の蔦が首元から胸元へ曲線を描きながら枝葉を伸ばしている様が目に入った。  先ほどルドガーからもらった水のおかげか、鮮やかな緑が生きる喜びに輝いているように見える。  ヴィートは小さくため息をつくと、昨日ルドガーが巻いてくれたストールを手に取って、光に向かって葉っぱを広げている蔦を隠すようにそっと巻きつけた。  建設現場での仕事中にそのまま連れてこられたため、まとめるべき荷物も持っていなかった。  今すぐにでも、簡単にこの場から去ることができる。  これ以上長居すれば、うっかり決心が揺らいでしまうかもしれない。ヴィートは後ろ髪を引かれる気持ちを押し殺して廊下に出ると、振り返ることなく後ろ手に扉をバタンと閉めた。    数日暮らしたおかげで、エイムズ夫妻はこの時間はまだ食堂でお茶を飲んでいることを、ヴィートはちゃんと把握していた。  遠慮がちに食堂の扉を叩くと、すぐに使用人の女性が扉を開けてくれた。 「すみません、お食事中に」  ヴィートの姿に気がついて、夫人が驚いたような表情でこちらに近づいてくる。 「ヴィート、何かあったの? 顔色が悪いわよ」 「突然申し訳ありませんが、バスク邸に帰る馬車を手配してはいただけないでしょうか?」  夫人は戸惑った様子で夫を振り返ったが、伯爵は固い表情で新聞に視線を落としたままだ。 「でも、まだ一週間の療養期間中よ。手の傷はもう平気なの?」  夫人にそう聞かれて、ヴィートは躊躇うことなく左手の包帯をさっと外した。  手の甲に咲いた勿忘草はほとんど消えかかっていた。それでも、その模様を目にした夫人ははっと息を呑んだ。 「これって……!」 「すみません。お二人のことを騙すような真似をしてしまって。仕事中に水切れを起こした俺を、ルドガーが初めて救ってくれた時に現れた模様です。キリアンに見られるのはまずいと思って、これが消えるまでここに寄せてもらっていたんです」 「そんな小さな花より、首元の蔦の方がよっぽど目立つのではないか?」  伯爵の声は無愛想で表情も固いままだったが、ヴィートのことを気遣うように声音がかすかに揺れていた。 「キリアンに肌を見せる機会はないと思っていましたので。俺の思惑通りにはいきませんでしたけど」 「ヴィート。あなた——キリアンとはあまり関係が良くないの?」  夫人のその質問には答えず、ヴィートは二人に向かって深々と頭を下げた。 「俺のせいで、ルドガーがエイムズ家の家名を汚すような結果になってしまい、申し訳ありませんでした」 「ヴィート、それはあなたのせいじゃ——」 「俺がいなくなれば、ルドガーが水の魔力を使う必要はなくなります。少しでも長く、あいつの火を守れると思います。時間さえあれば、後天的に得た水の属性を眠らせる方法か、火を削らずに済む方法が見つかるかもしれません」  戻れば、きっとただでは済まないだろう。  それでも、ここに残ってルドガーの命を削らせ続けるよりはましだ。    ヴィートへの申し訳なさと、息子の命の狭間で、夫人の心が揺れているのが手に取るように分かる。  そんな彼女を安心させるように、ヴィートは精一杯の笑顔を作って見せた。 「ルドガーのいないうちに出て行きます。あいつは優しくて、自分より他人を優先してしまう癖があるから——顔を合わせたら、きっとここから出してもらえなくなると思うので」  ヴィートの言葉に、夫人はようやく決心したように頷いた。 「分かったわ。でも人を付けさせてちょうだい。うちの使用人の中でも、特にしっかりしてて賢い子よ」 ◇    エイムズ邸を離れる馬車の窓から、ヴィートは見送ってくれている夫妻に向かって再び深く頭を下げた。 (ああ、ポスターの仕事——結局できずじまいだったなぁ)  一瞬心残りが胸をよぎったが、ヴィートはそれを追い払うように大きく息を吐き出した。  哀愁に浸っている余裕なんてない。のこのこ帰ってきた自分に、キリアンがどんな仕打ちをしてくるか——想像しただけで、寒気が足元から這い上がってくる。  ヴィートは自分の体を守ろうとするかのように、まだルドガーの匂いが残っているストールにぎゅうっと鼻先を埋めた。

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