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第29話 黒みを帯びた深紅の薔薇
一瞬の出来事だったが、避けようと思えば避けられた。
それでもルドガーが避けなかったのは、身をかわせば後ろにいるヴィートに唾がかかったからだ。
彼は避ける代わりに、その場でぱっと片手を上げた。
「——っ!」
むき出しの手のひらに唾を受けて、ルドガーが微かに顔をしかめる。
「キリアン!」
ヴィートが抗議の声を上げたが、そのまま彼は振り返ることなく、憲兵に扉の外へと引き出されて行った。
「ルドガー! 悪い、キリアンの奴が……」
「別に、このくらい平気——」
ルドガーはそう言いながら、ポケットからハンカチを取り出して手を拭こうとした。
パサリ、と白いハンカチが床に落ちて、ルドガーは目眩を起こしたかのようにぐらりと体を傾けた。
「おい!」
慌ててルドガーの手首を掴んだヴィートは、ぎょっとして弾かれたように顔を上げた。
制服の袖口から覗いている手首が、まるで氷のように冷たい。
「触るな。あいつの唾がつくぞ」
「何言ってんだ!」
こんな時にも、どうしてこの男は他人の心配ばかりするんだ?
半ば本気で怒りながら、ヴィートは床に落ちたハンカチを拾い上げて、ルドガーの手のひらをゴシゴシと擦った。
「どうしてこんな……こんなに冷たいんだ?」
「ごほっ! ごほっ!」
ルドガーが激しく咳き込みだしたため、ヴィートは慌てて彼をソファに座らせた。
(この症状……俺に水をくれた後と同じだ。でも、一体どうして——?)
その瞬間、キリアンの言葉が脳裏に蘇って、ヴィートの後頭部が冷たく痺れた。
——ヴィート、それは嘘だよ。
——そいつの目からは、今も私に対する恐怖を感じられるよ。
キリアンの水が——ルドガーの体に、害を及ぼしたのだとしたら……?
ルドガーは座っていることすらままならず、ソファに横になって咳き込み続けている。
(キリアンの唾液に含まれた水の魔力が——ルドガーの中の水を刺激した?)
ヴィートは彼に向かってかがみ込むと、激しく波打っている胸にそっと耳を当てた。
心臓の鼓動とは別に、激しく唸りを上げる水の魔力の存在がはっきりと感じられた。
いつも、ヴィートに向かって流れ込んでくる時は穏やかな優しい流れなのに、今は荒波のように激しく暴れ狂っている。
(間違いない。キリアンの水に影響を受けて、魔力が体内で暴走してるんだ)
属性転換に関する詳しい知識はなくても、ルドガーの水が体を巡っているヴィートには直感で理解できた。
なぜ、ルドガーがキリアンのことを密かに恐れていたのか。こんなふうに水の魔力を暴走させられたら、ルドガー自身の火が危険に晒されるからではないか?
(それって——水を得たことが逆に弱点になってんじゃねーか!)
「ルドガー! お前、嘘ばっかついてんじゃねーぞ! 属性転換したって、水属性の上司と対等になんかなれてないじゃねえか! それなのにどうして——?」
「げほっ! ……うるさい。俺が何者になろうが、そんなの俺の勝手だろうが」
この男はいつもこうやって、肝心な時に嘘をついたり、わざとぶっきらぼうな言い方で突き放そうとしてくる。
きっと意地でも、ヴィートのために水の属性を手に入れたとは言わないだろう。
ヴィートが、ルドガーに申し訳なさや引け目を感じることがないように。
ヴィートは悲痛な表情で、ルドガーの胸に自分の頬をそっともたせかけた。
「……やっぱりお前、自分の火の属性が嫌いで——それで属性転換したのか?」
ひどく辛そうで、悲しそうなヴィートの声に、ルドガーはわずかに顔を上げた。
「……違う」
そのまま力を振り絞って持ち上げた手を、ゆっくりとヴィートの頭に乗せる。
「お前のおかげで……俺は本当に、自分のことを嫌いにならずに済んだんだ」
そう言ってから、ルドガーは再び激しく咳き込んだ。
「ルドガー!」
「ごほっ! ……お前はすぐに、属性管理局へ行け。キリアンが逮捕されたから、緊急で水属性の人間を紹介してくれる。一時しのぎでいいから助けてもらえ。その後はちゃんとした相手を——」
「ふざけんな! 中途半端に俺に道を示しやがって! 責任ならてめえで取りやがれ!」
激しい口調のヴィートに、ルドガーはかすかに目を見開いた。
「……悪いな」
「口先だけの謝罪とか、お前らしくねえよ! お前は黙って行動で示すタイプだろ!」
医師を呼んだところで、この魔力の暴走をすぐに止められるとは思えない。
どうすればいい? 一体どうすれば、体内で暴走している水の魔力から、彼の火を守ることができる?
(……守る?)
自分の心臓を、まるで皮膚の上から守るように、ぐるりと囲んだ藤の花と蔦の模様。
まるで木々の隙間から陽光が差し込むように、ヴィートの思考を希望の光が照らしだした。
(そうだ——守るんだ)
一度得た水の属性を取り除く方法など分からない。そんな方法、そもそも存在しないのかもしれない。
だったら、火と水が同じ場所で共存できるようにするしかない。
「ルドガー、立てるか?」
ルドガーは、ヴィートの肩に腕をかけて上半身を起こそうとしたが、力が入らないのか数センチほどしか背中を浮かせられずにいた。
そこでヴィートはソファの前にかがみ込むと、ルドガーを背中に担ぎ上げて立ち上がった。
ルドガーの体の前面が、ヴィートの背中に重なる。
建設現場で再会した日、水切れで弱っていたヴィートをルドガーが背負ってくれた。
今度はルドガーの水で潤ったヴィートが、火の消えかけたルドガーを背負っている。
「ルドガー。お前さ……俺に縛られてもいいって、そう言ってたよな?」
バスク邸で自分にあてがわれた寝室に入ると、ヴィートは内側から扉を施錠した。
それから寝台の上にルドガーを寝かせて、自身もギシッと音を立てながらルドガーの上に乗り上げた。
「……ヴィート?」
(早くしないと——火の気配がさらに弱まってからじゃ、手遅れになる!)
恥じらっている余裕などなかった。ヴィートは素早くズボンと下着を脱ぎ捨てると、ルドガーのズボンも一気に引き下ろした。
「おい! 何やって——」
火が消えかけているというのに、ヴィートが触れると、ルドガーの体は微かに反応を返した。
(あ、やっぱりこいつ、俺のこと……)
「ヴィート!」
ルドガーが焦った様子で手を上げたが、ヴィートを押し返そうとする腕には全く力がこもっていない。
「こんな時に……お前、正気か?」
「正気でない状態で、誰かとこんなことするなんてまっぴらだね」
強がるように、不敵な笑みを浮かべたヴィートに、ルドガーの喉がごくりと鳴った。
「……ヴィート?」
「お前の火を守るために、俺の根をお前の中に張る。そのためには体を繋げなきゃならない。一度根を張ったら、もう二度と戻れないけど、それでも——」
最後の方はやはり躊躇して、ヴィートの声はだんだん小さくなっていった。
が、突然ルドガーがヴィートの両肩をぐっと掴んで、自分の方へと引き寄せた。
一体どこにそんな力が残っていたのか。ルドガーはそのまま両手をヴィートの首に回して、体全体を密着させた。
「男に二言はねえよ」
「ルドガー?」
「たとえ戻れたって、戻るつもりなんかないからさ。どうやって火を守るのか、首席合格者のお手並み拝見といこうじゃねえか」
そこまで一気に言ってから、ルドガーは苦しそうにハッハッと短く息を吐き出した。
これ以上の猶予は許されなかった。ヴィートは覚悟を決めると、跨っているルドガーの中心に向かって、ゆっくりと下半身を下ろしていった。
こいつには責任を取ってもらわなければならない。
体の中を、ルドガーのくれた水が、早鐘を打つ鼓動に合わせて勢いよく巡っている。
誰の水でもいいわけじゃない。自分はもう、ルドガーの水以外受け入れたくはないのだ。
「——っ!」
慎重に体を下ろしているつもりだったが、初めてその場所をこじ開けられる痛みに、ヴィートは思わず体を震わせた。
「——っ、ヴィート! いきなりは無理だって!」
「……って! 誰のせいで急いでると思ってんだ! お前が嘘ばっかついて、変な自己犠牲に走るから、慌ててこんなことする羽目になってんだろうが!」
憎まれ口を叩きながらも、ヴィートは自身の内側が濡れ、身体が受け入れる準備を始めていることに気づいていた。
ずくん、と奥まで届いた瞬間、ヴィートとルドガーが同時に呻き声を上げた。
「——っはぁ、ヴィート!」
「んっ……動くんじゃねえぞ。水を吸い上げるのが目的じゃないからな」
はぁ〜っ、と大きく息を吐き出してから、ヴィートはルドガーの胸の上に両手を乗せた。
それからゆっくりと目をつぶって、繋がっている体の中心に神経を集中させた。
(ほら、この火は大切なお前自身なんだからさ——消したらダメだろ)
ヴィートの体の中心からルドガーの体内に向かって、魔力の根がゆっくりと伸びていくのが感じられる。
より多くの水に触れようと、更に深い場所を目指して、ヴィートの根はルドガーの体に根を下ろしていく。
(……そこだ!)
ヴィートの根がほとんど恐怖を感じないほど、ルドガーの火は弱まっているようだった。
(よし。そうっと……集中して……)
感覚任せの繊細な作業だったが、不思議と不安はなかった。
昔から、恐れつつも正面からずっと向き合ってきたのだ。
慣れ親しんだルドガーの火の感覚は、目で見なくてもはっきりと感じ取ることができた。
本来、水を求めて伸びる根だ。ならば火へ向かう水を先に吸い上げて、自分の方へ流してしまえばいい。
ヴィートは、火の周りに魔力の根を何重にも張り巡らせ、水路のようなものを作り上げた。
それによって水の流れは制御され、守るべき火には届かず、水を必要としているヴィートの根へだけ流れていく。
「……よし、できた!」
根の水路の内側で、ルドガーの火が再び生気を取り戻して燃え始める。
浅かったルドガーの呼吸はだんだん深くなり、頬にも血色が戻ってきた。
「……体が熱い」
「冥土の入り口が寒かっただけだろ?」
「ヴィート」
ルドガーが掠れた声でヴィートの名を呼びながら、ゆっくりと手を上げて彼のむき出しの腹に触れた。
「ちょっ! ……本当に手が熱いな」
「花が」
「えっ?」
いつの間にか、下の方から棘のある蔦の模様が伸びていて、ヴィートの腹に黒みを帯びた深紅の薔薇が艶かしく咲き誇っていたのだった。
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