22 / 26

第22話

 そして迎えた二週間後の武闘会、闘技場。  俺は匂いで苦しめられていた。  出場する竜人や観戦する人間が多く集まり、匂いは混ざり合っている。元々嗅覚は良かった。だからある程度覚悟はしていた。  だが、瘢痕化していた竜丹が修復され、正常に機能し始めた俺の嗅覚がこれほどのものだとは、まったく理解していなかった。  衣類に焚きつめたさまざまな香の香り、それに混ざる油臭、刺激的な発酵臭、腐敗臭、スパイス臭、むせるような甘酸っぱい匂い、わきがの匂い、むれた足の匂い、青臭い匂い、さまざまな体臭。匂いに酔う。酔う。酔う。吐く。  闘技場入りする前から既に溢れる匂いに苦しめられ、闘技場に入れば、要人への挨拶もそこそこにルイに連れられ賓客の席まで、まろび出ていた。  周囲の者はルイが追っ払ってくれていた。俺が匂いで苦しまないように。そんなことしていいのかと思わないでもなかったが臭いのだけは我慢できなかった。臭すぎて気分が悪い。 「大丈夫か? ヴォルフ?」  もう頼みの綱はルイだけだ。ルイの首筋にぴったりと頬をくっつけて深呼吸する。  身体もくっつけられるだけ、くっつける。安心する。ルイの匂いだ。もう離れられない。  迎賓館に引きこもり、外に出なかったのが悪手に出ていた。竜人として嗅覚は正常に戻っていたが、ルイ以外の外の匂いをほとんど知らなかった。 「ルイの匂い以外いらない」  ルイにしがみつけば、ルイは俺の耳朶に優しく唇を落として、大きな手で背中を撫でてくれる。その優しい香りで俺を包んでくれる。  ふと、ルイのいい香りを遥かに凌駕する馥郁(ふくいく)とした香りが鼻腔を直撃した。  驚いて顔を上げる。  数メートル先、神授の美貌をもつ涼やかな麗人が俺と同じように、驚きで息もできないような表情を浮かべていた。  滑らかな額には滲む汗、品のいい口元には軽く乱れた息。  その様子はまるで、慌てて駆けつけたかのようだった。  ああ、嗅覚と同じように俺の匂いも正常に機能し始めている。  いつだったか、俺の匂いが濃くなっているとルイが言っていた。リアムは|運命の番《おれ》の匂いを嗅ぎつけて慌てて駆けつけてきたのか。  俺の背中を撫でていたルイの手が俺の身体を強く引き寄せた。二人の身体がさらに密着する。唇をルイの首筋に押しつけて、ルイの優しい香りを吸い込むと、リアムから冷ややかな殺気を爆発的にぶつけられた。 「離れろ」  リアムの冷気さえ感じる声にルイの目がすうっと細まる。俺の身体に固く巻きつく腕からぴりぴりとリアムへの敵意が伝わる。  まずい。  ルイに俺の運命の番がリアムだと知られてしまえば、俺はルイに婚約破棄されてしまう。 「わ、悪かった!」  ルイの身体を引き剥がした。 「婚約しているとはいえ、こんな人前で。臭いが辛くて、つい。悪かった」  とっさに匂いを内外に一切遮断する結界を俺の周囲に張る。張れた。初めてだ。結界を張れたのは。  始めからこの結界を張っていれば良かった。いや、この切迫した状況だからできたのかもしれない。  ルイとリアムが驚いたように俺を見ている。  二人なら簡単に張れそうな結界だが。  小首を傾げると、リアムが見れば恍惚と蕩けるような笑みを浮かべた。 「素晴らしい。ヴォルフ…殿は結界に特化した能力を持っているのか」  リアムは何を言っているのか。ルイが俺の心を読んだかのように俺の疑問に答えてくれた。 「ヴォルフ、この闘技場は既に俺とヴレ殿で結界を真っ二つに分けて張っている。ふつうは結界の中に結界は張れないからだ。  ここはヴレ殿が張った結界の中で、お前が今張っているような結界を俺は張ってやれない」 「誰も張れませんよ。結界はどうしたって重ね張りできない。それが常識です」  待て。俺は非常識か。  そもそもその非常識な結界の重ね張りを先に俺に見せたのは、お前だ。俺は模倣しただけだ。  ルイが結界を張る迎賓館の中、お前は俺以外認識できない結界を重ね張りし、俺の所に来た。喋るなと大きな貼り紙を持って。忘れたとは言わさない。  リアムは涼やかな目元を細めて品よく微笑んだ。 「何はともあれ、問題は解決したようですね。ここは公共の場です。どうか節度ある行動をお願いしますね」  リアムの機転のきく腹黒さに内心、拍手喝采を送った。  リアムは運命の番である俺の匂いに反応し、駆けつけた訳ではなく、主催者としての立場でここに来たように見せかけてくれた。  もしあのまま俺が匂いを結界で遮断できなければどうなっていたか。優雅な足取りで去っていくリアムに心の底から感謝した。  トーナメント戦は着々と進んでいくが、あんなに楽しみにしていた試合にはまったく集中できなかった。  今は結界で遮断しているが、運命の番でであるリアムの心胆揺さぶるあの香りを嗅いでしまったせいだ。  あれが運命の番の香り。ルイを仰ぎ見る。ルイが自分の運命の番を嗅ぎつけてしまわないかどうかを確かめるために。  だが今のところ、ルイにそんな様子は見られなかった。  豪奢な白金の髪をふわりと風に舞わせ、ルイは明媚な琥珀色の瞳で武闘場で闘っている二人を真剣に追っている。美しいのに愛らしい、この矛盾する二つを抱えて。  辺りに舞う砂埃は身の程を弁えているのだろう。ルイの白い陶器のような肌を自ら汚してしまうのを厭って避けているようにも見える。  俺達の周りにいる者は試合を見ずにルイを見ていた。  こんな美貌の主がこの世にいるなんて迂闊だったというような顔もいれば、変な薬でも打ったかのようにうつろな表情を揺らめかせている者もいる。蝕まれているのは何も女だけではない。男もやられている。  まったくもって俺とは似合わない。そう思いながらぴたりと鍛え上げられたたくましい身体を持つルイに寄り添った。何故ならルイは俺のものだからだ。  ルイがそれに気が付いて、眩しいものを見るような、愛しくて仕方がないというような眼差しを笑みと共に俺に向ける。  運命の番の匂いは強烈だった。心胆揺さぶるものだった。理屈じゃなかった。あの香りを嗅げば、こんなに俺を愛しんでくれるルイでも、俺のことなんか、あっさり忘れてしまうだろう。  リアムでさえ我を忘れて俺に突っ込んできたくらい強烈な香り。  気が気じゃない。いや、ここには多くの竜人が集まっている。匂いが混じり合っている。ルイは易々と運命の番を見つけられないはずだ。  ルイが自分の運命の番の香りを今にも見つけて俺から離れていってしまいそうで、そわそわ、そわそわと、落ち着かない。 「ヴォルフ」  膝の上、いつの間にか握りしめていた拳の上にルイのあたたかな手が重なった。  見れば沈鬱な表情を浮かべるルイが俺を瞬きもせずに見ていた。  俺を呼んだはずなのにその形のいい唇は動かない。  心臓が破れるほど大きく鳴る。  見つけたのか。ルイは自分の運命の番を。  その時、大きな歓声が沸いた。司会が優勝者の名前を叫んでいる。  ふっとルイが哀(かな)しげに微笑んだ。 「次は俺の番だな」 「あ……ルイ」  そっとルイの白皙の頬に触れた。 「待て、何か、辛そうだ」 「ヴォルフ……覚悟を決めたつもりだった」  でも譲りたくない。例えお前に一生恨まれても。許してくれ。  ルイの呟きはあまりに小さく、周囲の歓声は大きく、俺はルイが何を言ったのか聞き取れなかった。  ただルイの貌が歪んで泣きそうなのは分かった。気が付けばルイの頭を自分の胸に抱きこんでいた。  ルイは俺のもので誰にもそんな貌を見せたくなかった。 「あ……結界か……」  ルイはこの闘技場に結界を長い時間、張り続けていた。竜気が底をつきかけているのかもしれない。  遠く佇むリアムとルイの竜気を比べて見てみれば、ルイの竜気の総量はリアムより圧倒的に少なくなっている。  ここに来たばかりの時、ルイとリアムの竜気はほぼ同等だった。ルイが無駄に竜気を使っているのか、リアムが効率よく竜気を扱っているのか……質の違いもあるが、このままルイがリアムと闘うのは困難を極めるのが目に見えている。 ・ルイだけに聞こえる声で囁いた。 「試合を棄権すればいい。理由は俺の具合が悪くなったことにすればいい」  ひゅっと風の音が鳴り、ルイが動いた。真っ直ぐ伸びたルイの手の先には剣。軌道上には遠く、闘技場舞台の上にいる優勝者がいた。 「この男娼が。人の楽しみを奪う気か」  聞いていたのか。流石竜人戦の優勝者。聴力が半端じゃない。

ともだちにシェアしよう!