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第24話

 圧倒的な力を前に、優勝者は壁ぎわ、恐怖で震えていた。  彼は何度、降参すると叫んだだろう。だが俺は闘技場を破壊するためにその言葉をあえて無視し、娯楽に飢えている観戦者達は彼に向かって闘え! 続けろ! と叫び、彼に闘うことを強要し続けた。 「ももももう無理、無理、怖い。怖い。怖くてたまらない。あんたの顔を間近で見たかっただけなんだ。傷付けるつもりなんかまったくなかった。悪かった。何でもするからお願い、許して」  がちがちと鳴る歯の音が自分のものだと理解しているのか。  優勝者の涙で濡れた頬を、そっと手のひらで優しくぬぐった。優勝者の顔が一瞬で赤く染まる。何故そんな顔をするのか、不思議に思いながらも悠然と微笑んだ。 「安心しろ。これは試合だ。終了の合図が鳴れば終わる」 「そ、そうか!」  安堵と喜びで飾り立てられた優勝者の顔のなんという美しさだろう。流石竜人と言うべきか。恍惚と微笑めば、優勝者の美しい顔が赤くなるばかりか、陶然と蕩けた。  恐怖の緊張も極限に達すればおかしくなるのかもしれない。 「ああ、待て、そういえばこの試合、開始の合図がなかったな?」  優勝者の美しい顔が戦慄と恐怖で過度に混交していく。 「そう、いい子だ。よく分かったな。始まりがなければ終わりがない」  優しく、冷酷な言葉を放てば、優勝者の意識が朦朧とし始めた。  流石にまずい。遊び過ぎた。  地面に倒れそうになった優勝者を抱き止めれば、割れるような歓声が闘技場を包みーー俺の腕の中にいた優勝者を誰かに奪われた。 「ヴォルフ」  この世にも美しいこの声は、神授の美貌を持つリアムだ。  瞬間移動したのか。そもそも俺に瞬間移動を教えたのはリアムだ。出来て当然か。  リアムはやり過ぎだと俺を怒り出すかと思ったが、意外にも何も言わず、俺が抱きとめていた優勝者をそっと地面に寝かせた。その手は震えている。  少しの違和感。  リアムと俺の周囲に結界が張られている? これは認識できない結界か?   リアムの今の姿は俺にしか見えていないし、声も俺にしか聞こえていない。何故そんなことを。 「ヴォルフ、頼む、私の目の前で、他の誰かに触らないでくれ」  リアムは震える自分の指先に口付けると、それを俺の唇に押し当てた。  ビリッと唇が痺れる。  痛みに指先でその唇を押さえると、リアムが俺の手を奪い、己の唇に俺の指先を触れさせた。    強く、リアムに奪われた手を振りほどいた。 「リア」 「声を出さない方がいい。貴方の婚約者が見ている」  はっと観覧席を見上げようとして、肩を強く掴まれた。身体が反転して壁に押し付けられる。  肩を掴まれたリアムの手を乱暴に振り払い、リアムを睨みつけた。 「動かないで。不自然な動きを見せない方がいい。私が貴方の運命の番だと、あの男に知られたくなければ」  言葉をなくして愕然とリアムを見れば、リアムの手がぎこちなく俺の頬を撫でようと動いた。睨んでそれを拒否する。  この男は何しに来たのか。  リアムは困ったように微笑んでその手を下ろし、掛け値なしの真っ青な瞳で俺を覗き込んだ。 「ヴォルフ、許して。もうこんな形でもなければ、貴方に近づくことさえできないのかもしれない」  リアムの低く掠れる声が俺の唇に触れた。とっさに顔を背ける。 「ヴォルフ……ッ! 貴方と離れると無性にさみしい気持ちが押し寄せてくるんだ。婚約者がいると分かっていても、私を選んでくれないとわかっていても、もっとそばにいたくて、たまらなくなる。運命の番を見つければみんなこんな風に相手を特別に感じるんだろうか……私は……今日、貴方本来の香りを嗅ぐまで、そんな呑気なことを考えていた」  リアムは震える手で俺の頬をそっと撫でた。 「貴方が闘技場を破壊してくれて良かった。闘えばあの男を殺していた」  本能が逃げろと訴えた。瞬間移動で逃げようと術を発動する前、リアムが乱暴な仕草で俺の両肩を掴み、俺の首筋をきつく吸い上げた。 「…………!!」  ビリビリと熱く痺れる感覚に身体をビクビクと震わせ、目を白黒しながら息を飲む。 「私の運命の番のくせに、どこもかしこもあの男にマーキングされるからそうなる」  リアムが何をしたいのか分からないまま、痛みに目を白黒させたままでいると、リアムの指先が俺の鎖骨から胸元まで辿り、俺の心臓の上で止まる。  観客はこの状態をどう見ているのか。わぁわぁと未だ余韻に冷めやらぬ興奮した声を上げている。 「あの男だけだよ。貴方のこの状態を正しく認識できているのは。ああ、私の姿は見えていないけれど。他の者は貴方が観戦者達に手を振っている映像を見ている。おっと、口を開かないで。あの男に気付かれる」  リアムの淫らな息が俺の耳朶に触れ、熱い舌がゆったりと這う。ついでのように甘噛みされた。 「…………ッ!」  ビリビリとした熱い痛みで、呼吸すらままならない。だが痛みよりルイを裏切るような行為をされていることが悔しくて、視界が滲む。  リアムが軽く目を見開き、どこか興奮したような眼差しで俺に微笑んだ。 「同じ顔だ。私は夢で貴方を何度、無理やり抱いたか分からない。貴方は私の夢の中で痛みに泣き叫んで、それは、それは、とても、哀れで、可哀想で……とても現実で実行しようと思えなかった。夢を見るたび罪悪感に苛まされた。でも所詮は私の夢。現実での貴方の表情に快楽と痛みの区別はないんだね。貴方はあの日と同じこと顔をしている」  あの日のことが何をさしているのか、一瞬分からなかった。 「婚約披露宴の五日前、私がこの国に到着したその日のことだ。貴方とグレイグ殿は迎賓館のバルコニーで愉しんでいた」  俺とルイの情事を覗いていた日のことだと気が付いて、羞恥で真っ赤に顔が染まる。何をどこまで見られたのか。顎をすくわれた。 「秒を切る一瞬だった。あの男が貴方を見せつけたのは。見られたのはそこに転がっているその優勝者と私くらいだ。あとの者は香りだけ知ったくらいだ。あの時、貴方は熱っぽく淫らに顔を歪め」  講釈を遮るようにリアムの手を思いっきり払い退けると、リアムが覆い被さるように俺の唇を塞いだ。 「…………ッ! んーーーーッ!」  痺れどころの騒ぎじゃない鋭い痛みが唇に走った。  ぎゅっと閉じた唇の狭間にリアムの熱い舌が潜り込もうとしてくる。唇の皮膚は薄く、痛みは響くように伝わる。  リアムは唾液を流し込むように舌を差し込んでくる。  あまりの痛さに身を固くする俺の身体をリアムが抱き込んだ。離せとも言えない。痛い。痛くてたまらない。唇に雷が落ち続けているようだ。  唇と唇の隙間から悲鳴じみた声を漏らし、リアムの腕の中でぶるぶると震えた。痛すぎて生理的な涙がこぼれてくる。  リアムはそんな俺を労るように俺の上唇を優しく噛み、舌で俺の舌の狭間を優しく辿る。俺の唇はリアムの舌で優しく何度も何度も舐められて、変化が訪れた。  ぞくぞくする愉悦を感じ始めている。少しずつリアムが侵食してくるのをまざまざと感じる。  身体にじんわりと馴染んでくるリアムの熱が怖いにもかかわらず、妙な安堵感に包まれる。とろんとしてくる。  リアムのフェロモンだ。匂いは遮断しているが、しっかり機能している。  リアムは俺が痛いだけでなく、感じ始めているのに気が付いたようだ。  俺がまずいと思う間もなく、舌で俺の唇を無理やりこじ開けようとするのをやめ、熱い唇を重ね合わせ、軽く吸い、俺の快楽をより多く引き出そうとしている。  全身を襲う甘い痺れに四肢を引き攣らせ、目を見開いた。  強制的に、発情、させられた。  力の入らない拳でリアムの背中を殴れば、唇と唇がゆっくり離れ、軽く乱れた息がお互いの唇を行き来する。  リアムが情欲に濡れた苦しげな息を吐き、俺の額に額を重ねた。 「私を選んで、ヴォルフ。選んでくれなければ、私はここで貴方を攫(さら)う」  結果、同じじゃないか。一気に疼く熱が冷めた。  瞬間移動して逃げようとする俺をリアムの腕が強く囲い込み、リアムが俺もろとも瞬間移動する前、出来るだけ小さな声で、リアムだけ聞こえる音量で囁いた。 「お前が俺を攫えば俺は死ぬ。前にも言ったはずだ。俺はルイと番えなければ死ぬと」  動揺するリアムの腕の中、迷っている暇なんかなかった。助けを呼び求める。 「ルイ!」  呼べば、瞬間移動で尋常じゃない竜気を使い、息遣いを乱すルイが現れた。驚くリアムを跳ね除け、ルイの胸に飛び込む。 「ヴォルフ!? 何があった!? 楽しそうに手を振っていただろう!?」 「それは俺じゃない!」  ルイは他の観客と同じように俺が手を振っている映像をリアムに見せられていたのか。どうりで。ルイはリアムの姿が見えなくても、俺の様子がおかしければ駆けつける。今みたいに。  リアムの脅しは俺を身動きさせなくさせるための嘘だ。  ルイにしがみついて振り返ればリアムの姿はすでに消えていた。闘技場内に気配もない。  すんっとルイの鼻が俺の匂いを嗅ぐように小さく鳴り、心臓を鷲掴みされたかのように身体が跳ねた。  俺にはリアムの匂いがべったりついている。ルイから飛び離れた。ルイが愕然とした表情で俺を見ている。 「汗、かいたから、その」 「……匂いを遮断する結界を張っておいて?」 「あ」  そういえばそうだ。まだ匂いを遮断する結界を俺は解いていない。  そうか、良かった。  湯浴みすれば、俺にべったりついたリアムの匂いは消え――ない。  俺はリアムにマーキングされてしまっている。

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