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第32話

 逃げ切った先は小さな島国。ルエティアという世界。  俺を助けた蜂蜜色の竜人――レイモンド・ダイスは影ひとつない、自らが燦々と輝く太陽のような男だった。  威風堂々とした風格に、己が拾った命なら己が救って当然と疑わず、死にかけている俺の面倒をとことん見てくれた。  元気になった俺はルエティアの片隅、ルイに見つからないように影に隠れて生きた。  執着心の強いルイはきっと俺を追ってくる。  あの「飽きた」の一言に怯え、ルイの爛熟した香りで強制的に発情させられ、金を積まれる屈辱的な日々を送るのはもう、たくさんだった。  だが、俺の思惑に反してルイは俺を追ってこなかった。  桃源郷。花桃咲き乱れる庭を背に、ルイにこれでもかと甘やかされた記憶が俺にはある。 「お前がいると花がすべて色褪せて見える」  まるでルイに愛されていると錯覚するような日々。気が付けば記憶は都合よく美しい物だけ残して、嫌な記憶は消えていた。  よく考えなくても、俺はルイに飽きたと言われて、婚約解消されている。  もうルイと俺との関係を結ぶものは何もない。婚約は解消されている。あの時、ルイが俺を追いかけたのは、狩猟本能だ。俺が逃げたから追いかけた。それだけだった。  だからルイはもう俺を追ってこない。  その考えに行き着くと、世界の色は消失し、音は鈍く、匂いは断絶し、味は分からなくなり、食べることをやめた。  ただ日がな一日、ぼんやりと日陰で過ごした。水をもらえない植物のようにこのまま枯れて死んでしまうと、分かってはいたが、もう世界のすべてのことが、何でもどうでもよくなっていた。  レイモンドが俺を心配している奴がいるだろう、と言ってきた。  リアムは俺を心配し、探しているだろうと思った。俺はルイに婚約解消され、そこから消息を絶っている。  それこそ躍起になって俺を探しているような気がした。だが俺はリアムに俺を見つけて欲しくなかった。  リアムに見つかり、本能に絡めとられ、ルイとの優しい思い出がすべて消えてしまうくらいなら、このまま枯れて死ぬ方がよほど幸せだった。  ルイがそばにいない今でも、ルイは俺のすべてだった。  どうしてこんなにルイが好きなのか分からない。ただ一目見た時から強烈に惹かれていた。  レイモンドはルエティアの片隅、影で燻る俺に事情は聞いても慰めの言葉はくれず、代わりに精巧な道化の仮面を俺にくれた。  被れば顔を変えてくれるだけでなく、声や匂いまで変えてくれるそうだ。 「これで生まれ変わればいい」  レイモンドがどうして俺にここまで優しくしてくれるのか不思議に思った。  聞けば死にそうになっている奴を放っておけるほど無情にはなれないと言われた。  確かにその通りだ。せっかく助けたと思った相手、俺が死ねばレイモンドは後味の悪い思いをするだろう。  俺は恩人のレイモンドに後味の悪い思いをさせたくなくて、少し、前を向くことにした。  精巧に創られた道化の仮面を被る。  精巧な道化の仮面を被った俺は、一人称を道化者らしく『僕』に変え、口調も変え、身ぶりを変え、掴みどころのない滑稽な態度を取るようにした。  とっても、楽しかった。  僕は生まれ変わった。  ルエティアの片隅で影のように生きてきたのが不思議なくらい、外に出てふらりふわりと遊ぶことができた。だって僕はもう、抑圧され続けた俺じゃない。  異世界転移を繰り返したことによって僕の瘢痕化は完全に癒えていた。  日がな一日、ルエティアにいる猛者と遊んであげる日もあれば、餌のない釣り糸を垂らして魚を釣ることもあった。  ルイを想う気持ちは僕の中でずっと疼いていたけど、その気持ちに蓋をせず、道化らしく馬鹿だと笑い飛ばせば、一人芝居をしているようで、おかしくて一人で笑った。  この仮面を被れば、僕の顔は隠れ、匂いは変わり、僕を見つけて欲しい人が僕を見つけてくれないのではなく、見つけられないのだと、自分に言い訳することができた。心を守ることができた。  もう俺なんか捨ててしまえばいい。  幸いこのルエティアに俺を知る者は誰一人としていない。  だけど仮面を被り、どれだけの年月を過ごしても僕の中でルイの嫣然とした笑みは色褪せることなく存在し、ルイに会いたい気持ちと相反するルイに会いたくない気持ちが混在したままだった。  そうして気が付けば、レイモンドはこの国の王に匹敵する貴族の最高位を賜っていた。  要はこの国ルエティアが頼りがいのあるレイモンドを囲い込みたかったのだろう。  レイモンドは自らこの国ルエティアに反旗を翻すつもりはないと意思表示するために、生真面目に中央の軍団に身を置いた。僕も暇に任せて、その尻馬に乗り、軍団に入団した。  するとそれだけで僕にも王に匹敵する貴族の最高位がもらえた。暇つぶしで爵位がもらえるとか、なんてちょろい人生。金も権力も思うがまま。誰にも指図させないで、ふわんふわん遊んだ。  ある日のこと。  朝から酒が飲みたくなり、適当に異世界転移して店を探せば、異世界転移先の雑踏の中に高身長で容姿が整った目鼻立ちのくっきりしている竜人を見かけた。懐かしい。声をかけたのは気まぐれか。 「やぁ、優勝者じゃないか」  優勝者は驚いて目を丸くした。それもそうだ。今の僕は精巧な道化の仮面を被っている。匂いも声も以前とは別人のもの。  くすくすと笑って、手をひらひらと振った。 「僕を覚えてなければ、いいよ。じゃあね」  腕をグッと掴まれた。 「覚えています。あんたの名前は変わっていませんか? ヴォルフさん」 「驚いた。ヴォルフでいいよ。どうして僕のことが分かったの?」 「あんたの身体はしなやかで、何を着てもよく似合う」 「ふふふ、いやらしい。僕のこと身体で覚えていたんだ」 「え……っ!? あ、いや、そんな、違う。第一、そんな、言い方」  優勝者のくっきりとした男らしい美貌がみるみる朱に染まっていく。 「相変わらず、見た目の男らしさにそぐわず、可愛らしいリアクションするね」  ま、番のいない竜人はたいてい童貞だ。そんなものかもしれないが。  くすくすと笑いながら優勝者の頬を撫でた。 「もう一度、俺の裸、見る?」 「……むしゃぶりついても、いいのなら」  すっと距離を取る。 「冗談ですよ。できるわけないでしょうそんなこと。あんたが変なことを言うからちょっと言い返しただけです。負けず嫌いなんですよ。竜人は。知っているでしょう? 売られた喧嘩は知らず知らず買ってしまうものです。それが例え口喧嘩でも。それとあんたがヴォルフさんだと気が付いた本当の理由は別にあります。あんたは俺のことを”優勝者”と呼んだ。あんただけです。俺をそんな風に呼ぶのは」 「ふふ、してやられた」 「してやったのはあんたですが。俺の名前は、ジル・デュカス。名前覚えて下さいね。次、会えば酒を一杯奢ってくれる約束、覚えていますか?」 「ふふふ、ひとつ確認させて? ジルは僕に卑猥なことしない?」 「卑猥って、そんな! しませんよ! そん、そんなこと!」 「ふふふ、ジルが僕に卑猥なことしないなら良かった。今から飲もう。俺もちょうど飲もうと思っていたとこだった」 「……今、朝ですよ?」 「美味しいよ?」  ジルとの酒は楽しかった。リアムと同郷の癖に余計なことを聞いてこないし、言ってこない。  僕はそれでも俺の幼馴染のパウルや一兵卒時代、同室だったベンやブランのことを知っているかとジルに聞いてしまった。  当然、ジルは知らないと答えた。  もう俺があの世界から姿を消して十年近く経っている。平和なあの世界、彼らは伴侶と子供に囲まれ幸せに過ごしていると信じたい。人間の命はあまりにも短い。  そう言えばモルグはどうなったのか、ジルに聞けば、とっくに片付いたと教えてもらった。ルイが魔神のようにすべて屠ったそうだ。  距離感はほどよく近く、遠くなく、僕を楽しませてくれようと感じるジルとの会話はとても好感が持てた。  また飲もうとジルと約束したけど、それからジルは生涯、僕の前に姿を現すことはなかった。  僕は複雑な幼少期を過ごしたせいで、無自覚のまま本来の竜人としての特性を自ら歪めていた。いわゆる自衛だ。擬態とも言う。  それを教えてくれたのは、ちょっとしたきっかけで出会った始祖竜の言葉だった。  始祖竜は居丈高な態度を取る奴だったけど、意外と親切で――彼にとって僕は子孫だ――数ヶ月かけて僕の歪みを更生してくれた。  竜人は番に愛されるため、美しい容姿を持って生まれる特性がある。  本来の姿を取り戻し、鏡に映る僕の顔は、客観的に見て、楚々として愛らしい顔立ちをしていた。口角をきゅっと上げて微笑めば、総毛立つほど奥ゆかしい。甘く流麗な顔立ちを取り戻した僕は、精巧な道化の仮面をそっと撫でた。 「匂いも顔も変われば、この仮面も必要なくなるね」  ルイが見つけてくれないと拗ねることもなくなれば、リアムに見つかることもなくなる。  顔も匂いも変わった僕はこれから本当に別の人生を歩むことになる。  指先ひとつ、不気味な道化の仮面を砕き壊せば、これまでの普通顔で生きてきた思い出がすべて音と共に壊れたような気がした。でもそれで良かった。もう俺の人生に僕はこれ以上、縛られて生きなくていい。 「ふふ、生まれ変わったみたいだ。俺は竜にさえなれない劣等種だと思ってた」  今では易々と赤竜に身を変えられる。  僕の一生はルイにマーキングされたまま。誰とも番えず、終わるだろうけど。

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