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第44話
パラレルルート 3
「ヴォルフ、こ、この男が気に入ったのか?」
全身悲壮感を漂わせたリアムに肩を強く掴まれた。とたん、骨の髄が凍えるほど、運命の番であるリアムの鮮烈な香りが僕の鼻腔を攻撃してきた。
抗いがたい香り。
顔を背け、リアムの鍛えられた胸板を強く押し返した。
「近い。離れろ」
リアムの香りはある程度の距離があれば、どこか安らげる効果があった。でもこれだけ近づかれると、身も心も置き場のない言い難いもどかしさを生んでくる。本能がそっと、息づき、目を覚ましそうになる。
「ヴォルフ、ごまかさないで、教えてくれ」
そんなこと、本気で言っているのか。こんな胡散臭い奴、僕が気に入るはずがないだろうという言葉が喉まででかかった。が、言えなかった。この茶番、僕は自分で思うより気に入っているようだ。
「ヴォルフ、何とか言ってくれ」
リアムは違ったようだ。匂いが強くなっている。何が気に入らないのか、本気でタクトにやきもちを焼いている。自身の匂いを強く発し、自身を主張して、運命の番の匂いで僕を取り込もうとしている。
「ヴォルフ!」
揺さぶられる勢いで肩を強く掴まれ、思わず、リアムの呼気を吸ってしまった。
瞬間、とろんと頭の中が霞む。
リアムの馥郁(ふくいく)とした香りを肺いっぱいに吸い込みたいという衝動そのままに、リアムの鍛えられたたくましい胸に顔を埋めろうとした。
そこにはこの世の幸福がぎゅっと濃縮されている。
直前で、ぐっと耐える。耐えられたのは、リアムの極上の衣装に焚き染められた伽羅(きゃら)の香りが、リアムの本来の香りを邪魔してくれたせいだ。
神が創ったと言わしめる程の究極の香木の香りでさえもリアムの香りの邪魔にしかならないのかと、やや驚き。
匂いを遮断する結界を張ろうとして――やめた。
そんなことすれば僕がリアムの匂いに反応していると、リアムに教えているようなものだ。そうなればリアムがまた調子に乗る。いや調子に乗るくらいならいい。リアムが何を言ってきても僕は適当に言い躱(かわ)せる。
問題なのはリアムが抗い難い運命の番の匂いを盾に、肉体的に僕に迫ってくることだ。僕はきっと抗えない。匂いにも快楽にも弱いことくらい自覚している。ではどうすれば。
「リアム、痛い」
リアムの情に訴えることにした。
「あ」
僕の肩を掴んだリアムの手がぱっと離れた。ほっとしてリアムの胸板を押し返していた両手を戻そうとして、リアムにその手首をやんわりと掴まれる。
食い入るように見つめられ、リアムの鍛えられた胸板に置いた手の平から、強い鼓動と熱を感じた。動揺する。かすかに僕を魅了する甘い吐息がリアムから漏れている。もどかしい熱が熾火のようにくすぶり始めた。リアムは僕にマーキングしなくてもフェロモンの匂いだけで、僕を発情させられるようだ。リアムはまだそれに気が付いた様子はない。気付かれる訳にはいかない。気付かれればいいように扱われる。
「ヴォルフ、私の匂いに反応し――」
「タクトは僕の領内に落ちてきた稀人だ。僕には保護する義務がある。離せ」
リアムもこの茶番に乗ってくれないと、この先楽しめなくなる。そんな目でリアムを睨みつけ、リアムの鍛えられた胸板の指先を軽く引っ掻いた。リアムは軽く息を詰め、返事の代わりか僕の手首を長い指先でひっそりと撫でた。リアムのフェロモンに誘発されれば、手首でさえ、性感帯になるんだと知る。指先と瞼が震えた。咄嗟にそれを隠すように拳を握った。
「リアム、離し――」
「なるほど。でもタクトをこの家で雇う必要なんてない。タクトは然るべき機関に預けるべきだ。タクトも働かずにそこで暮らせる方がいいはずだ。そうだろう、タクト」
部屋の中の冷気が急速に増した。リアムから否を認めない威圧の竜気を浴びせられたタクトは思わず、頷きかけて、首を振り、力強く言い募った。
「いえ! そ、祖国には”働かざる者食うべからず””タダより高いものはない”そんなことわざがありますので、ご領主様さえよければ、僕はこの家で働きながらこの世界を学びたいです!」
「そうか、それならそうすればいい」
「待つんだヴォルフ! 私のこの竜気に押されず我を通す者など、怪しすぎるだろう! その少年、何か企んでいるぞ!」
「タクトがこの家に居たがる理由は本能によるものだと僕は思う。いきなり来てしまった知らない世界、外に出れば自分の知らない恐怖と出会うかもしれない。タクトはそんな変化を嫌っている」
「そう! そうです! まさにその通りです! 代弁ありがとうございます! ですからどうか僕を安全なこの家で雇って下さい!」
「いいよ、対価はきちんと払ってあげる。それから然るべき機関に稀人の登録もしに行こう。帰る世界が限定できれば、僕が帰してあげるから」
タクトは堪えきれないように泣き始めた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
圧倒させられるタクトの演技力に心の中で拍手喝采を送った。映画俳優になれるぞ、この子。
この家に竜人しか入れない結界を張っていなければ、タクトは稀人だと疑わなかっただろうそんな迫真の演技。さて、タクトは何を企んでいるのか。
リアムが黙り込んでいる。あまりいい反応じゃない。この茶番を終わらせる気か? タクトの迫真の演技力といい、面白くなってきたというのに。
「警戒要員がこの家に必要になるな。よし、私が――」
「いらない。帰れ。というより、いい加減この手を離せ」
拘束された両手はやんわり握られているのに、びくともしない。いや、それより問題なのは距離だ。リアムの形のいい眉が片方跳ね上がり、甘い香りがふんわりと僕を包んだ。リアムの馥郁とした香りが脳髄を揺らした。リアムは自身のフェロモンを操作できるのか。僕におねだりしたいのか。情けないことに僕の頬はそれに反応して、みるみる紅潮してくる。リアムの好きにすればいいという言葉が喉まで出かける。
「リアム」
「私は帰らない。貴方は不用心すぎる。私が離れている間に貴方に何かあったらと考えるだけで私の気が狂う。だから私はここにいるべきだ。そうだろう? ヴォルフ、私に下心はない。可愛い貴方をずっと眺めていられるだとか、そばにいられて嬉しいとか、そんな…下心は、ない。断じて、ない。うん。ない。だから安心して私をそばに置いて欲しい……ヴォルフ? 聞いているのか?」
僕が運命の番であるリアムの香りに唆(そそのか)されているとは露ほども思っていないリアムが、うつむく僕の顔を覗き込んできた。紅潮した頬、潤む瞳。睨むのが精一杯だった。
「え……?」
タクトが慌てたように「顔を洗ってきます!」と余計な気を回して部屋を走り去ってしまった。
「頼む、離せ」
「あ……でも、そんな顔……は、離し、たくない、と、言ったら?」
「下心がないと僕に言ったのは嘘?」
拘束されていた手がぱっと離れ、リアムが後じさった。
「すまない」
「正直に言う。僕は……運命の番の匂いに、惹かれない訳じゃない」
「ヴォルフ……!」
「動くな! 僕はもう、匂いに踊らされたくない! ルイは、金で買った僕に――」
卑猥な言葉や行為を強要することはなかった。でも俺は違った。俺はルイのあの爛熟した香りを嗅げば理性はあっけなく霧散し、いつも負けた。何度も惨めな気持ちを味わわされた。
意志とは関係なく肉体だけが走り出していくあの感覚。ルイから与えられる快楽は拷問のようなものでしかなかった。
望みもしない快楽の中で、快感に囚われ、吐精するまで浅ましく腰を振り続ける俺にはもう戻りたくない。相手が誰であれ。
恥辱と屈辱に右手を握り締めればギリギリと音が鳴った。名前を囁かれて、右手が優しくほどかれる。
「血が」
「頼む、もう自由にして欲しい。顔も匂いも変わった。あんな屈辱も、恥辱も、もう…………何もかも忘れて、生きたい」
「あの男にマーキングされたまま?」
「そうだ」
「矛盾している……泣くな」
快楽に弱いのも、匂いに弱いのも、結局は僕自身の問題だ。ルイのせいじゃない。ルイは僕に快楽と優しさしか与えようとしなかった。それくらい僕にも分かっている。
一目見た時からルイは僕を大事にしてくれた。婚約破棄するまで僕を精一杯愛してくれた。いいや、婚約解消されて金で買われている時でさえも僕にそう思わせてくれた。
『お前がいると花がすべて色褪せて見える』
そっと抱き囲まれた。ルイとは違う腕。匂いはしない。遮断してくれている。背中を撫でられた。
「離せ」
「目の前で泣いている運命の番を、放っておける奴がいるか」
ぱたぱたと背中に雨が落ちてきた。
「リアム?」
「うるさい、今は放っておけ」
リアムの運命の番である僕は、元婚約者のルイに捨てられてもなお、運命の番であるリアムの手を取らずに、ルイにマーキングされたまま死にたいと口にして泣いた。
慰められるべきは一途に僕を想い続けてくれているリアムの方なのでは……?
そう考えると、僕の身体を強く抱きしめるリアムの身体を、押し返すことができなかった。
「リアム、運命の番というのはある意味呪われた関係だ。好き嫌いという感情を抜きにして惹かれずにはいられない」
「ヴォルフ!」
「最後まで聞いて欲しい。リアムは僕が好きなんじゃない。運命の番に惹かれているだけだ。同じ運命の番としてそう思う。もう運命の番なんかに縛られず、自由に生きた方がいい」
「私のこの気持ちを勝手に決めつけて、否定するな!」
強く抱きしめられて、僕の言葉がまたリアムを傷付けたことを知った。
言葉は選んだつもりだった。それでもどうしてリアムに向けて放つ僕の言葉は、リアムを傷付けてしまうのか。目の前で泣く運命の番を僕もやはり放っておくことができず、でも抱きしめてあげるような残酷なこともできず、リアムに固く抱きしめられたまま、途方に暮れた。
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