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第48話
パラレルルート 8
背中に衝撃を受けた。屋根の上、押し倒されて、何故こんなことをと思うと同時に、雨しぶきに包まれたリアムの身体が震えているのを見て、フラッシュバックした。
孤児院にいた頃。雨の中、傘もささずに僕のことを兄のように慕い僕の帰りを待っていたあの子。風邪をひいて、どこまでも熱くなって、呼吸できなくなって、逝ってしまったあの子と、雨に濡れた後、緊箍児を嵌めた瞬間、気を失って目を覚さなくなったリアムを。
ぞっとした。永遠に会いたくないと僕は口にしたが、リアムがこの世から消えて欲しいと望んでいる訳じゃない。
「リアム、風邪を」
「ひかない……! 私は風邪など! どうして……!」
「え?」
「もう二度と会わないなどと、どうして……貴方はそんなひどいことを、口に、できるのか……!」
「……僕のことはもう忘れて、リアムは早く違う幸せを……」
「努力、した! でも、無理だった。私は貴方と同じ想いでいる。惚れた相手にマーキングされたまま、一生を終えたいと想っている……!」
「マーキング……? 竜人戦の武闘会の時に僕がマーキングしたことに……あれはリアムが無理やり……待て、リアムはあれから誰にも上書きされていないのか!?」
「誰がどうやってこの私に上書きできるというのか。貴方の気持ちは貴方だけのものであるように、私の気持ちも私のだけのものだ」
「リアム、退いてくれ」
「嫌だ。永遠に、ここから動かない。そう, そうだ。それがいい。貴方の気持ちを奪うつもりはない。貴方と番えなくてもいい。貴方はどこにも行けず、私の腕の中、このまま永遠に私だけを見続ければいい……そうして、私の名を呼んで。貴方のその声で私に何かを語り続けて」
「…………」
リアムに強く見つめられて自分の失敗を悟った。再会した時からはっきりと拒絶するべきだった。隙を作ってしまったのは前世から知っているような不思議な安堵感から。元々、リアムのことは嫌いじゃなかった。そもそも何をされても本気で腹が立たなかった。リアムだから仕方がないな、と根拠なく諦められた。
僕の手首を握るリアムの手は冷えていた。濡れた黒髪が透き通るような肌にまといついている。
冷たい雨がリアムに触れるたび、何となく不安になる。冷たい雨に降られて死んだあの子を思い出してしまう。
「そんな…顔…したって、無駄だ。それとも緊箍児で私を縛るか? 縛ればいい。私は退かない。どんな痛みでも耐えてみせる。私を隷属の首輪で縛らなかったこと、後悔するがいい」
雨が渦巻き暗雲が躍っている。世界が白く染まった。稲妻だ。続いて天地を引き裂く轟きがひとつ。冷たい雨の中を全身に浴びるリアムは微動だにしない。
「リアム」
「何を言っても無駄だ」
「雨が、冷たい。このままではリアムが風邪をひく」
「……ッ! 竜人は風邪なんかひかない! この私を言いくるめようとしても無駄だ」
「僕は……リアムと番えない。忘れられない人がいる」
「言うな! 知っている!!」
「頼む、こんなことはやめて欲しい。昔、雨に濡れて風邪をひいて死んだ子がいた。人間の小さな女の子だ。頑丈にできているリアムと違うことくらい分かっている。でも理屈じゃない。リアムが風邪をひくと考えると、その先を想像したくなくて、気が狂いそうになる。そんなことでリアムは死なないと、分かっているのに」
「それではまるで……私のことを……いいや、騙されない。貴方はただ私に離して欲しくてそんなことを言っているだけだ」
「僕を拘束するだけならどこでもできるはずだ。だったらここじゃなくてもいいだろう、頼む、リアム」
ジュリアンやタクトが濡れても何も思わなかった。いいやリアム以外の誰が濡れてもこんなこと思わない。僕は単純にリアムが喪失を恐れている。
リアムが無言でバスルームにあるバスタブまで転移した。器用に僕を腕の中に抱いたまま、自分の靴を脱ぎ、僕の靴を脱がせ、シャワーを捻った。
濡れた服のまま、抱きしめられていると触れ合った部分が体温で溶け合う。ほっと安心して身体を弛緩させかけて、リアムの鍛えられた胸を押し返した。
「離してくれ」
「どこで拘束しても同じだと言ったのは、ヴォルフだ」
「……永遠、このままでいられるはずがない。そんなことをすればやがて僕は死ぬ」
ピクリとリアムが身動きして僕を固く抱きしめた。リアムが僕の喪失を恐れているのは知っていた。ルイと番なければ死ぬと僕が口にした瞬間から。
「死なない。私が死なせない」
リアムの鼻先が僕の首筋に埋まる。嫌悪感はない。擦り付けられて、自分の危機感のなさに危険を感じるくらいだ。
「リアム」
「嫌だ。もう離さない。番えなくてもいい。一生、貴方のそばにいる」
「子供みたいなことを言うな。そんなことをして、傷つくのはリアムの方だ。僕はルイを忘れられない。忘れたくない」
「その名前を……! 口にするな……!!」
リアムが屈み込んだと思った瞬間、僕の唇にリアムの唇が触れそうになっていた。唇と唇にお互いの吐息が触れ合う。上書きされる痛みを覚悟して身を固くすれば、リアムが僕からそっと身体を離した。
「ヴォルフの嫌がることはしないと約束する。匂いも遮断し続ける。緊箍児も外さない。性的な目で見ないし、触らない。約束を違えないように魔術的手段で抗えない契約書も用意する。だから私をこのままどうか……貴方のそばに置いて欲しい」
切なげに揺れる美しい海のような瞳にじっと見つめられ、心臓を掴まれたような気がした。切なげな眼差しを喜びに変えてあげたいという妙な衝動に突き動かされて頷きそうになりーーうつむいた。
リアムを見ていると自分のペースが狂う。そんな関係、肉体関係がないだけで番っているのと変わらない。僕はそんなこと、望んでいない。
リアムは先祖返りという特性とその血筋の良さから、さぞや周囲からもてはやされ、ちやほや甘やかされて育ったんだろう。自分の要求が、わがままが自然とまかり通ると思っている。
そんなリアムに僕は不思議と腹が立たない。性格の相性なのか、運命の番だからか分からないが。
でもこのままそばにいることを許せば、いつかなぁなぁで番にされている気がする。
そもそも僕は匂いにも快楽にも弱い。リアムがその気になって僕に接すれば、僕はすぐにリアムに気を許してしまうだろう。それが分かっているからこそ、僕はリアムをずっと避けてきた。
これまでのようにリアムのこの意味の分からない条件をすげなく断ろうとして、思い留まった。どうせリアムはめげない。僕が何を言っても。
それならとリアムから逃げようとして、これも思い留まった。
今、リアムから逃げても無駄だ。スピードは同等、パワーは僕をはるかに凌駕しているリアムとの追いかけっこで僕がリアムに勝てるはずない。
せめて匿ってもらう先にあてがあれば何とかなったかもしれないが、レイモンドはリアムを匿った前科がある。今回ばかりは頼りにはできない。そもそもレイモンドは運命の番を持つせいか、運命の番至上主義だ。僕とリアム、ふたりでしっかり話し合えとか、何とか言われて、結局、僕に不利に動く未来しか見えない。始祖竜も同じだ。
他にリアムと対抗できる相手を僕はルイしか知らない。でも頼ることはできない。ルイは僕を捨てた。もう婚約者でもなんでもない。それにルイは両親に運命の番を持つ、ルイも運命の番至上主義だ。僕を匿ってくれと頼んでもルイはリアムに僕を突き渡すだろう。
……ルイのことなんか思い出さなければ、良かった。自分の存在の軽さを再認識して胸がしくしくと痛む。
誰も彼もが運命の番至上主義。そう思えば腹が立ってきた。僕の意志は関係ないのか。
「ヴォルフ?」
僕が睨めばリアムが身をすくめた。
僕に残された道は、ひとつ。
リアムの要求通りに契約を一度結び、それからその関係を破綻させるしかない。
そもそもリアムは突発的に理性を失う傾向にある。僕に手出ししないはずがない。そうなれば契約不履行、この家から追い出せばいい。何ならこの僕がそうなるよう誘導してもいい。
僕はリアムには力では敵わない。でも僕には緊箍児という制止手段がある。
口角がゆるりと上がった。目をすがめて、リアムの顎(おとがい)から頬までを濡れた指先を滑らせれば、神授の美貌がたじろいだ。
「いいよ。契約しよう。ただ互いのどちらかが、嫌になったり、辛くなったりすれば、もう二度と会わない。契約書の中身もその条件を組み込んでもらう。でも約束して? 僕を力づくで犯そうとしたり、匂いで酩酊させ、いいように扱わないと」
「もちろんだ」
リアムが愛おしそうに、シャワーで濡れて張り付く僕の髪をそっと耳にかけようとした。その手を冷たく振り払い、驚くリアムを尻目に立ち上がる。
バスタブから出て、濡れた服をその場でおもむろに脱ぎ始めると、リアムが慌てたように顔をさっと逸らした。
「濡れた服のまま、バスルームから出られないだろう? そんなことすれば脱衣所が水浸しになる。だから僕はここで裸になるしかない」
最後の一枚をばさりと落として、全裸になってリアムの方向を向けば、リアムは顔はおろか首まで朱に染め、顔を背けていた。唇は何か耐えるように強く引き結ばれている。
僕から顔を背けるリアムの肩に手を置き、リアムの耳元で甘く囁いた。
「どうした、リアム。僕が欲しくないのか?」
リアムの全身が大きく揺れた。
「でも僕に触れれば契約違反だ。我慢できなくなる前に、早く僕の前から姿を消したほうがいい」
肩に置いた手が、すっと何もない空間に落ちた。リアムが転移してこの場から消えた。挑発するような僕の言葉にリアムは怒り、帰ったんだろう。
ほっと息を吐き出せば、リアムの気配が僕の背後に現れた。どきりとして身をすくませれば、肩から肌触りの柔らかなバスローブがかけられた。
振り返ればびしょ濡れになったままのリアムがどこか痛いところでもあるかのように顔を歪め、射すくめるような眼差しで見ていた。
「まだ契約書を正式に交わしていない。今のは、あまりに浅はかだ」
ぽつりと呟くリアムの声に、得も言えない恐怖が走った。緊箍児の性能もきちんと試してもいないのに、無謀なことをしたと後悔した。バスローブの前をかき合わせ、リアムを睨みつければ、リアムがその場に膝をつき、捨てられた仔犬のような、叱られた子供のような縋るような眼差しで僕を見上げ、僕の手を取った。
「すまない。追い詰めるつもりはなかった。だからどうか自分を顧みない危険な行動はどうかやめて欲しい」
「ーーーーだったら今、すぐに、出ていけ」
リアムは泡がぱちんと弾けるように消えた。ほっと息を吐けば、バスローブが僕のものではないことに気が付いた。
匂いは遮断しているのに、そわそわと落ち着かなくなるこの感じから、このバスローブはリアムが普段使っているものだと分かる。異世界転移してわざわざ取りに行ったのか。濡れた服のままバスルームを出れば、脱衣所が水浸しになると僕が言ったから。
小さくため息を吐いた。リアムがそばにいると身体が信号を受け取るかのように分かるようになってしまっている。安堵するような高揚するような胸のざわめきが、家の外から感じた。
バスルームの窓を間断なく叩きつける雨の打撃音。雨の勢いは止むことがない。大きくため息を吐いた。
冷たい雨に濡れると僕は雨で死んだあの子を思い出すとリアムに伝えたのに、リアムは分かって雨に濡れているのか、どうなのか。
ざっと着替えて、玄関の扉を開けてポーチからリアム呼べば、しばらくして、雨に鱗を艶やかに濡らす黒竜が、上目遣い、僕の様子をうかがいながらひょこひょこと現れた。
『ぎょおぅ、ぎゅい』 [私は濡れても平気だ。風邪なんかひかない]
「そう」
コクコクと頷き、黒竜は羽を広げてばさりとひと羽ばたきすると、大木の脇に身を寄せかがみ込んだ。
「帰らないのか?」
『ぎょい、ぎゅぎゅぎゅ』 [私の大事なもの。私が守らないといけない』
「自分の身くらい自分で守れる」
『ぎゅい』 [そうか。それなら安心だ]
黒竜はお腹を地面につけ、落ち着いたように座った。警戒心が少し和らいだ座り方だが、帰る様子はない。
空を見上げれば灰色雲が空を覆い隠し、雨は一向に降り止む気配を見せない。
リアムを家に入れれば、リアムが家に居着くだろうそんな気がした。それでもため息ひとつ。傘を手にしてリアムに近づけば、ざわついていた心が妙に緩んで落ち着いた。
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