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『先生の陥没乳首が狙われているようです』二時限目

 赤峰は、英語準備室で物思いに沈んでいた。職員室で授業の準備をしてもいいのだが、英語教師にはもうひとつ控室が用意されている。なんとなく、海鋒に悩みがあることを悟られたくなかった。  我知らず、溜息が漏れる。  碧と再会してから、一週間が過ぎた。  碧を一生徒として扱うと決心したものの、以前から知っている碧にどう接するのが正解なのか、未だに答えが出せずにいる。  赤峰の視線の先には、長い足を優雅に組み、ソファーで単語帳を広げる碧の姿があった。  碧は昼休みになると毎日のように英語準備室に入り浸るようになった。 (一生徒として接するって、どういうことなんだろう)  以前勤めていた学校を二ヶ月で辞めてしまったため、生徒との距離感が掴めない。  西園寺正美の顔を思い浮かべる。最後に女子校を訪れた時、正美は赤峰に対して、何度も頭を下げていた。  ――これからは、軽はずみなことはするんじゃないぞ。  彼女にかけた言葉は、自分自身への戒めでもあった。 (軽はずみなのは俺のほうだ。新卒で採用された学校を、二ヶ月で辞めてしまったのだから)  赤峰が退職したことで、正美を余計に傷つけてしまったのかもしれない。  考えても仕方のないことだ。赤峰は思考を切り替える。  赤峰の目の前で、碧が単語帳を捲っていた。授業態度はいたって真面目で、英語の小テストはほぼ満点だった。  碧は芸能活動で忙しい合間を縫って、昼休みもこうして勉強している。放課後は仕事で潰れてしまうため、騒がしい教室よりも、静かな英語準備室のほうが単語を覚えやすいのかもしれない。  生徒を準備室に入れてはいけないという規則はなく、赤峰も職員室にいるより、碧と準備室にいるほうが落ち着くため、今の状態が続いている。 (いや、でも……)  もしかしたらと、赤峰は考える。  海鋒学園は中高一貫校だ。高等部から入学する外部生徒もいるが、碧のように三年次から編入する生徒はごくまれだ。  新学期が始まってまだ一週間しか経っていないが、赤峰は既に、内部生たちの共同体意識のようなものを感じ取っていた。三年次からの編入な上に、芸能人である碧は、クラスで浮いているのかもしれない。 「碧、教室にいづらいのか」  碧は勢いよく顔を上げる。色素の薄い瞳をしばたたき、驚いた様子だった。 「そんなことないけど。俺はただ、太陽さんの近くにいたいだけ」 「そっか。なら、よかった」  赤峰は「先生と呼べ」と指導することも忘れて、心底ほっとした。 「変わんないよね。そういう、優しくて無防備なところ」  気付いた時には、碧は机を挟んですぐそばに来ていた。碧のいつになく真剣な表情にどぎまぎする。スピーカーから流れてきた予鈴に、胸を撫で下ろす。 「予鈴が鳴ったぞ。教室に戻れ」  何が起きたのか、理解できなかった。  背の高い碧が身をかがめ、赤峰の視界をふさぐ。顎を掴まれ、強制的に上を向かされると、碧の顔が近付いてきた。 (あ、やっぱり肌、超綺麗。ちゃんとケア、してるんだな)  目の焦点が結べないくらいになると、唇に柔らかなものが押し当てられる。触れ合ったのは、ほんの一瞬だった。  赤峰が呆気に取られていると、碧は照れたような笑顔を見せた。 「またね」  年相応な笑顔に少しきゅんとしたのは、碧には秘密だ。  赤峰がキスされたと気付いたのは、五限目の授業中だった。生徒が日本語訳を読み上げている最中に気付き、赤峰は目を見開いて硬直してしまった。教卓の前の席の生徒に、「先生大丈夫ですか? 顔、真っ赤ですよ」と言われたほどだ。 (間違いない! キスだ! キスされた!)  赤峰は顔を伏せて、無意識に掌で唇を覆う。  赤峰にとっては、生まれて初めてのキスだった。  奪うような乱暴なキスではない。与えるような、優しいキスだった。

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